私のアカデミック・ポリシー(2003年4月16日)

 

0.前置き

大学・大学院で研究と教育とを職業としているが、最近いささかとまどうことが多い。いろいろな原因が考えられるが、そのうちの一つに、当方の研究者・教育者としての基本ポリシーと、文教政策あるいは学生諸君のポリシー(基本的な生活態度、生活信条とでもいえばよいのであろうか)の食い違いにあるらしい、ということに気がついた。当方が研究者や教育者や学生にたいして抱いている要求(社会学では「役割期待」という)と、そうした方々が当方にたいして抱いている要求との間に齟齬があるのである。齟齬があること自体一つの問題であるが、齟齬があることに気づかれていないことも問題である。そこで、私が大学に職を奉じている、ということにかんしてどのような信条を持っているかを告白し、アカデミック・ポリシーという形で明示しておく。

このポリシーに直面する者は、(1)これを論破する、(2)これにあわせて私とつきあう、(3)私とつきあうのをやめる(学生諸君であれば受講しない)、という3通りの対処法が考えられるであろう。もちろん、このポリシーに心から賛同してくれる同志が存在すれば望外の喜びではある。

 

1.知識について

 大学をはじめとするアカデミズムの目的は、全人類にとって有効で有益な「知識」を維持発展させること(その一面として、無効な知識、陳腐化した知識を除去することも含む)にあると考えられる。知識がもっている大きな特徴は、(1)それが(合理的な過程をふめば)万人に共有できること、そのもう一つの側面として(2)公共的であること、の2点にある。言い換えれば、知識は他人に伝達して理解してもらうことが可能であり、そのためにある人の持つ知識は原理的には社会のすべての人々の共有の財産なのである。

 したがって、一般の財やサービスとは異なり、知識の生産は特定の人々が社会の「代表」としてそれに従事するということが可能である。大学で研究・教育に従事している者、あるいはそこで教育を受けているものは、それゆえ、人類の代表として知識の生産現場に立ち会っていることになる。

 どの知識の生産者もみな人類の代表として振舞うならば、それぞれの得意分野に特化して「分業の利益」を享受することは、人類全体のためにもなることである。それが知識分野における「専門分化」「専門性」を正当化する論理である。

とりわけアカデミズムが制度化され、体系化され、専門の教員や研究者が職業的義務としてその使命を遂行に特化する現在では、その使命の重点は、新たな知識分野の拡張(無効になったり無益になった知識の廃棄も含む)にあることは言をまたない。したがって、私の基本的態度は、徹底した「知的な成果主義」である。大学の研究の目的は新しい有効で有益な知識を作り出すことであり、大学(院)教育の目的は、その能力の涵養である。この目的の前では、学問分野、専門性といった学問的な分業体制、学会、さまざまな評価のシステム(それは試験や教員の採用などにも及ぶ)などのアカデミックな制度(それはディシプリンと呼ばれたり、科学史家トマス・クーンのことばでパラダイムと呼ばれたりする)は、所詮目的にたいする「手段」にすぎない。ようは、新しい有効で有益な知識が得られれば、そうしたアカデミックな制度は事後的に追認されるし、それはわれわれ専門職をよりいっそう働かせるための「アメとムチ」なのである。

 ところが、世の常として、「手段は自己目的化する」。新しい知識を生み出すための道具であったアカデミックな制度は、それを維持すること自体が目的となる。教科書があればそれを覚え、試験があればそれにパスする。新しい知識を一つ開拓するよりも、学会における自己の地位の向上が関心となる。知的な問題に答えるよりも、形式をはずさないこと、減点の要素を減少させるという儀礼主義(これは知識分野における「官僚主義」ともいうべき悪癖である)などがその現象であり、もしも知的な営みがそのような「ゲーム」になってしまえば、それは大いなる「手段の失敗」といわざるをえない。

 知的な世界の最大の特徴は、それが常に開かれており、生成の途上である、ということである。この事実に目をつむる研究者や、ここから目をそむける知的な制度設計を私は認めない。

 知的な問題の要求するところが、既存の学説、教科書、多数説、あるいは教員の教えと食い違うならば、まよわず前者をとるべきであり、後者に従うことは恐るべき知的頽廃である。私はそれをもっとも嫌悪する。

 その意味で、私は恐るべきアンチ・ディシプリン派であり、信念をもったアンチ・パラダイム派の一員である。専門性や既存の学説や、学会内部の上下関係が決して知的に必然的な要求であるとは考えていない。それゆえ、専門を異にする研究者、あるいは学会における権威者は、批判に対して常に説明する「説明責任」の義務を負っているし、反対に「非専門家」も不断に「専門」の「業績」にかんして批判の目を注ぐべきなのである。

 

2.大学の授業のあり方について

 というわけで、私は大学(院)での授業にかんして、次のような方針で臨む。

 既存の知識体系のクローン、あるいはコピーを受講者の頭の中に作る(それすらほとんどの場合失敗することであるが)ことを授業の最終目的とはしない。それゆえ、教科書や講義の内容を「暗記する」あるいは「理解する」ということで、授業が完結するとは考えていない。受講者に求めるのは、それ以上のことである。すなわち、教科書や講義での知識を陳腐化するような、新鮮な論点あるいは批判的な観点の呈示ができることを、授業の目的とする。

 それゆえ、授業も受けず、教科書も読まなくとも、新しい知識を切り開き、十分説得的に説明できるなら、それで十分である。すでに述べたように、知的な営みの中にあっては、教科書も講義も置換可能なさまざまな手段の一つに過ぎないし、すべての人々にとって最適な手段であるわけでもない。ただし、代替的な手段は「自己責任」によってとるべきことは言うまでもない。

 もう一点、とりわけ受講者に要求することは「精神的緊張」である。既存の知識をなぞるだけならば、そこには「努力」や「勤勉」が存在するかもしれないが、受容すれば事足りる。ハムレットの”To be or not to be”というような「選択」とその結果を引き受ける「責任」はない。新たな知識を獲得していくという過程は、「自分の信奉していた学説や方法が誤っているかもしれない」「真理とされていることに重大な欠落が含まれているかもしれない」という疑いをもつことによってしか可能にならない。正しいと考えるか、誤りと考えるか、という未決状態によく耐える、ということで、考えるということは忍耐と緊張を要求する。どちらと考える、ということで考えるということは決断を要求する。そしてその知的な決断の結果を引き受ける、ということで考えるということは責任を要求するのである。知識の世界は、そうした意味で意思的な世界であり、倫理的な営みですらある。私の授業の目的の一つには、こうした知的未決状態(ベイトソンの言葉でいえばダブル・バインド)に受講者を追い込み、そこでの決断を強いることにある。「悩み苦しみ、知的に七転八倒せよ」というのが、片々たる知識を注入するよりもはるかに教育的なことであると考えている。

 もちろん、大学で行われる多くの授業をすべてこの方式でくくってしまえないことはよく承知している。純粋にリテラシーに属す内容の授業、あるいは危険を伴う実験や実習など、「教える」べき内容によって多様なポリシーがありうることは認めるし、評価もする。ただ私のかかわる授業のほとんどでは、私のポリシーが適合的だと信じている。

 

3.成績の評価について

 以上のことから、いわゆる「評価」の基準もおのずから明らかであろう。

 丸写し、特に理解もしないで丸写しすることは最低最悪である。第一に、それは新たな知識を既存の知識体系に全く加えないという意味で、非生産的である。第二に、それはしばしば「盗作」を生み、知的世界における犯罪である。第三に、それは「知的な営み」を標榜しつつ、実態がそれを裏切るという欺瞞(しばしば自己欺瞞)であるという意味で悪徳でもある。それは、教科書や教員の講義の内容についても同様である。

 その逆に、私は「批判的である」ことを高く評価する。それは与えられた既存の知識にたいして、拡張か改変か削除かの検討を加えるものであり、知的な営みである。たとえその結果が既存の知識の全面的な受け入れに終わったとしても評価に値する態度というべきである。

 しかし、ただ闇雲に批判的であればよいわけではない。「批判をせよ」「批判的に論じよ」と問うと、しばしばお目にかかる答案は、たんなる好悪の情の発露であったり、イデオロギーの表明や人格攻撃である。

知的な世界は、条理と証拠を積み上げて相手の合理的納得を調達する世界でもある。そうであるがゆえに知識は個人の力量を超えて人類共通の財産となるのである。従って私は、第二に「説得的である」ことを要求する。既存の学説などは他者を説得する手段として用いればよい。そのためには、既存の知識をある程度使いこなせるまでに理解する必要があることは、言をまたない。

私が学生のレポートや試験の成績評価に用いる基準は、ざっと上の二つである。副次的な基準をいくつか挙げれば、(1)美的であること、(2)志の高さが感じられること、を加えられるかもしれない。完璧に論理的に結論が導出されたり、あるいは思いもよらない帰結がみちびかれたりする「知的なアクロバット」はやはり加点要素になるし、普遍的に妥当する知識を求めて「人類を代表してものを考えている」という態度、あるいは上記の「七転八倒」の姿がしのばれるものにも点が甘くなるのは事実である。しかし、これらは知識の本質的な要素であると考えている。

一方で、既存の知識の理解度、ある種のコース上の「到達度」で評価することは目指していない。「競争主義」と私の評価とは全く中立的である。その種の試験は、たしかに成績の分布が美しい釣り鐘型を描くということはあるであろう。学生に「覚える」「勉強する」という動機付けを与える最良のシステムでもあるだろう。しかし、すでに述べたように、「批判的に考え」「説得的に表現する」ことにたいする最良の動機付けとは考えられない。そもそも「試験で落ちるかも知れない」ということが知的な営みの動機であるとすれば、そういう人は私の授業を受講しないでほしい。

私にとって授業の目的は、既存の知識や体系を覚え込ませることにはない。「○○学」や「××論」というのは、「批判的に考え」「説得的に表現する」という態度、心構えを身につけるための、あるいは懐疑と決断と責任というプロセスを会得するための「方便」にすぎないのである。


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