日本の皆様へ:ご挨拶 

 

 日本の皆様、はじめまして。George Suttonです。

 彼はきっとGeorgeが、無理矢理にやらせた、というでしょうが、悪友の志田氏の強いすすめがあって、日本の皆さんに私の「偏見」をお伝えしてもらうことにしました。志田氏と私との語学力を比較して、というか、志田氏の語学力には目をつぶって彼に「翻訳」をお任せすることにしました。意味の通じないところがあれば、それは志田氏の語学力ないし学識のせいであり、私の関知するところではありません(「謙譲」な志田氏は、そう書けと私に強要します、なんという押しつけがましさ)。願わくは、こうした予測されるコミュニケーション・ギャップを乗り越えて、私のメッセージが皆様のお役にたちますように、あるいはせいぜい一時の楽しみでも提供できますように、と神に祈ります(私の祈りがあなた方の神々――女神も含む――にも届きますように、とも祈っておきました)。

 これからも、私の「偏見」を随時、志田氏の「翻訳」が完了し次第順に掲載して頂きますが、とりあえず本日第一信をご披露できることは、私の喜びとするところです。私からの最初の「偏見」に満ちたメッセージは、「英語/日本語」にかんするものです。題して「英語熱を嘲笑う」です。文字通り「ご笑覧」下さい。

 

2005.4.20

Sir George Sutton

 

 

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第一信 英語熱を嘲笑う Laughter at "English Fever"  2005.3.26

 

1.英語教育は緊急性が低い 

 

日本では大変な英語熱であるそうな。日本人は英語を使えるようにならなくてはいけないそうである。このことについて、疑問を呈しておく。というよりも、私の気持ちとしては、この英語熱を嘲笑いたい。

英語教育の推進派はいう。「これからの国際社会では、国際語である英語が使えなければ仕事ができない」「資源もない日本では、技術革新と貿易の推進のために絶対英語が必要なのだ」「経済大国としての国際的責任を果たし、世界に対するプレゼンスを明らかにするためにも英語が必要だ」。つまり、今の日本には英語が不足している、だから英語を加えたい、というのである。確かにそうであろう、「他の条件において等しい限りcaeteris paribus」。

 日本人が、いまの技術的、経済的、あるいは知的水準を全く同様に保ったまま英語ができるようになれば、それは「まことにご同慶の至り」というしかない。しかし、日本人が語彙も文法も背後にある思考法まですべて異質な英語を学習する(そして、おそらく「英語熱に浮かされた人々」の譫言を信じるならば、国際社会で英語を母語とする人々と遜色ないまでに英語で議論できるようになる)には、多大の労力と時間とを必要とする。経済学で言う「ただのランチはない」という格言同様、英語学習についても結局誰かがそのコストを負担しなければならない。そして英語学習はそのコストに見合うパフォーマンスを挙げるであろうか。日本人の多くがもっと英語ができるようになるためには、やはり日本人がどこかでその費用を負担しなければならない。最終的に英語学習は、一国の経済の問題なのである。

 まず、日本人の英語力について考えてみよう。英語を「自在に操って」国際社会で活躍している日本人も数多い。しかし、私が「熱」と呼ぶほど英語学習の必要が叫ばれるのは、大部分の日本人が、多くの日本人の目から見ても、お世辞にも英語ができるとは言いかねる状態にあるからだと、推察される。

日本人が英語を習うのは、中学校・高等学校・大学と聞いている。中学校・高等学校で、仮に週5時間の英語の授業があるとして(「ゆとり」とかいうもののせいでもっと少ないとも聞いているが、こう仮定する)、平均的な日本人は高校卒業までに年に150時間、6年間で900時間ほどの英語教育を受けている。この教育を受けた日本人が大学に入って、英語の会話もできなければ、もちろんシェークスピアも英語では読めず、テレビで見るハリウッド映画は吹き替えになっていなければ鑑賞ができないというのは、周知の事実である。さらには私の友人である志田氏の話によれば、大学を卒業するときの英語力はさらに落ちるという。

 だからこそ英語教育にもっと力を注がなければならない、というのが「英語熱」派の言い分であるが、果たしてそうであろうか。日本人がこれだけの時間をかけても英語ができるようにならないなら、時間と金の無駄なのではないか(英語教師が日本に何人いて、彼ら彼女らにどれだけの給料が払われているのか、私には想像できないが、少なからぬ額であろう)。日本人が英語をできるようにするためには、もっと時間数を増やし(他の科目の時間数か、中高生の余暇時間が減るであろう)、もっと多くの英語教師を雇用する必要が出てくる(そもそもたいして英語ができない日本人が日本人にたいして英語を教えているのである)。「英語熱」派は、「現在の英語教育法が間違っているのだ、方法をあらためて、効率的に教育すれば効果が上がる」という。そのためには英語教育のシステムを(教師も含めて)根本的に改編する、という同様に少なからぬコストが生じることになる。

 英語ができる者を優遇するシステムになれば、自分の責任で英語を習う者が増えるであろう、日本にはネイティブ・スピーカーが教えてくれる語学教室が山のようにある、と「英語熱」派はいうであろう。英語を選別に使う、というのである。しかし、「英語」はすでに日本の教育では十分に選抜に利用されてきた。英語の試験を受けずに大学に入れた日本人学生は驚くほど少数であろう。英語ができないことによってリストラされる(日本人は、雇用者の首を切ることを、英語の組織の再編成restructureという言葉を用いて表現する、日本人の英語などこの程度のものだと思いませんか)、という会社員だって実はさほど多くないであろう。「英語熱」は、そうした選抜基準によって日本人を脅しあげる、何かの陰謀ではないか、とも思いたくなる。あるいは一時はやった「自己啓発」と同様に、社員教育の費用をケチった上で万が一にも英語のできる従業員が増えればめっけもの、というさもしい根性のなせる業かも知れない。

大体、日常の業務の大半で英語を使用する仕事がどれほどあるのであろうか? もしも仕事上の会話の50%が英語、という人間がいて、そういう人間が日本の人口比率で10%存在すると仮定しよう。日本の労働力率は70%程度であろうから、その場合、日本で「仕事に英語が使われる」というシーンは7%程度である(これでも十分に過剰推計だと思われるが)。これが20%や30%になるとしたら、日本のビジネスシーンはすでに立派な植民地である。日本の人口や日本の市場規模を考えると、これを植民地として支配できる勢力は世界に存在しないであろう。「会議はみんな英語」「英語のできない者は役員にしない」など、企業のファッションにすぎないのである。たかだか日常業務の7%程度の効率を向上させ、能率を上げるなら、ほかにもっと無駄を省いたり効率を上げることが必要なものもあるであろう。問題は、「英語熱」の人々が、こういう場合の優先順位がつけられない、ということなのだ(実は、勘ぐればそういう優先順位を知っていて、自分の有利な立場にほおかぶりをしている可能性もあるのである)。はじめに述べたように、「他の条件において等しい」が成り立たない以上、「英語熱」派はメリットとデメリットについて十分説明する必要があるのである。

 

2.日本人が英語を習うより、外国人に日本語を教育せよ

 

 さて、「英語熱」派の人々の「熱弁」を一部受け入れるとして、私から代案を提案したい。それは、「日本語教育」である、それも「外国人」にたいする。

 「英語を使える日本人を作る」ことと「日本語が使える外国人を作る」ことはある意味で等価である。英語でコミュニケーションする替わりに、日本語で外国人とコミュニケーションできるようになる。日本人が日本語で発信するたびに、その情報は国際的なものになり、日本の国際的なプレゼンスは高まるだろう(たとえば、国連の公用語に日本語を採用するように主張するべきである)。

 先ほど、「英語熱」は社会管理の陰謀ではないか、と書いた。これは国内的な陰謀であった。国際的な陰謀もありうる。外国人としての勘ぐりからいえば、日本人が仕事で英語を使うようになれば、日本人は大事な情報はみんな日本語でやりとりして、当たり障りのない情報を英語で提供しているのではないか、と考えるであろう。日本語のできる多数の外国人が存在することは、日本人のコミュニケーションを国際的に公開することを意味する。「英語熱」では、日本の国際化ではなく、日本語/英語二重使用による情報鎖国を狙った試みではない、とどうやって納得してもらえるのか。

 それよりも、「英語熱」派が気づいていない、もっとずっと大きなメリットを2点指摘しておこう。

 第一に、外国人に日本語を教えた方が、ずっと効率がよい。経済学でいうところの限界効率という理由によってである。世界には、潜在的に日本語が使えるようになる素質がありながら、そのチャンスに恵まれていない人々が極めて多数存在する。これは、日本にいて潜在的に英語が使えるようになる素質の持ち主より遙かに多い。いまなら、そういう人々に日本語を教えるという仕事は、少ないコストで必ずリターンを生む仕事になるであろう。他方で、日本人で英語が使えるようになる潜在性の持ち主の数は、日本の英語教育が普及するにつれてますます少なくなり、英語を使えるようになるまでに本人にも社会にも多大のコストが必要となる層を対象にせざるをえなくなる。簡単に言えば、日本人一人に英語を使えるようにする費用でもって、外国人数人、場合によっては数十人に日本語が使えるようにすることができるのである。効率という点からいえば、どちらが効率的かは明らかであろう。

 第二に、これが日本語による情報コンテンツの価値を高めることになる、という点を指摘できる。世界にとどろく「ジャパニーズ・クール」というアニメーションや漫画作りを支えている人々(「オタク」とかいうらしいが、日本語ではどう発音するのかしら)が、いちいち英語で考えているとは思えない。彼ら彼女らの武器は日本語であろう。国際分業においては、個々の国や地域が異なる生産条件を持つことによって支えられる。日本のオリジナリティは、結局のところその他の国々とは異なる生産条件が成立する、というところにある。日本語という「国際的でない」あるいは「特殊な生産条件」こそが、日本のオリジナリティの源ではないのか。

日本のマスコミュニケーションが日々生み出している情報は、実は「日本語ができる」という人々をマーケットにしているだけである。情報コンテンツは制作費が同一であるならば、広い市場を持つほど大きなリターンが見込まれる。一冊の本が10万部単位で売れるような日本語市場が二倍にも三倍にもなるメリットのことを、日本の出版業界は考えてみたことはないのであろうか。大体日本人は「日本語市場」の規模の大きさにたいして鈍感すぎる。たくさんのテレビ・チャンネルをもち、ほぼ100%の識字率を誇り、世界一本が好きな日本人が作っている日本語市場は、中国語やスペイン語よりも確実に大きな経済規模を持っているのではないか。

 映画・出版・放送・ゲーム・プログラムその他のコンテンツ業界は、収益の一部を拠出して、世界の人々に日本語を教育する基金を作ってはどうだろう。そうすることによって「日本語市場」は拡大し、労せずして日本のコンテンツビジネスは成長の機会を得ることになる。「英語立国」よりずっと重要な課題である「コンテンツ立国」を目指す方が限られた資源の配分先として適当であろう。

 

 
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