教養教育科目  伝統社会と近代社会

 火曜3限 担当:志田基与師

 第1回(2011.4.12)と第2回(2011.4.19

 「オリエンテーション(一年生は入学おめでとう)」と「知識について」

 

 

内容は、すでにお話したこと、あるいはお話することと重複していますが、併せて「私のアカデミック・ポリシー」もお読み下さい。

 

1.授業の注意(先週お話ししました)

●出席は取りません(単位のためではなく、聴く価値があると思う人に来てもらうのが大学教員の理想であり見栄でもある!)。

●教科書は指定しません。このような資料を用意する(各自資料をダウンロードするという形になる。ただし、完全なノートやテキストの代わりではないので、授業は注意深く聞くように)。

●参考文献が指示されたらなるべく読むこと。

●試験は持ち込み・参照・相談が許される。かといって甘くない! その理由は私のアカデミック・ポリシーを参照のこと。どちらにせよ、最上の試験対策は「授業に出ること」である。授業にはその教員の癖、特徴、願望がすべて出るからである。敵を知らずしてはいかなる対策もあり得ない。

 

2.学生生活上の注意点(この授業に限らず重要なこと、4月7日のオリエンテーションで聞かされた事とも関係がある)

 詳しくは、このあとで説明しますが、諸君の大学生生活は、諸君が負担する授業料の他にその数倍の国費を投じて支えられているのです。

 横浜国立大学の学生数は、学部学生・大学院生あわせて約10,000人、年間予算額は、約180億円である。学生一人あたり180万円かかっている計算になる。一方でこの180億円の収入は、50%にあたる90億円が「運営費交付金」という国からの補助金、授業料収入は25%の45億円にすぎない。ごく簡単に言って、諸君が支払う授業料の2倍の税金が諸君の上に投じられていることになる。http://www.ynu.ac.jp/about/information/financial/pdf/kessanhoukokuH21.pdf

 つまり、カルチャーセンターや町の各種学校や塾や予備校などと違って、自分のお金で習っているのではない。

これはひとえに、それだけの金額をかけて、社会が諸君になにごとかを期待しているからである。学生が授業料を負担していることによって受益者であるならば、社会もまた諸君以上の受益者であるはずであり、学生は社会に対して「アカウンタビリティー(説明責任)」を負っていることになる。というわけで、学生には権利もあるが義務もある。何をしてよいかいけないかについて社会と契約をしているのであるし、それに基づく「期待」もある。

 

●電車やバスでは席を譲る(スポーツウェアを着、スポーツ用具をもって着席していることは許されない)。→上で述べたように、社会の期待に応えるために学生をしているのであるから、社会的に保護すべき人々(老人、妊婦、子連れの人、障碍のある方)を保護するのが当然の義務である。

●セクハラ、民族・宗教差別はしない(それは現代の大学を支えている近代主義的原理・・・普遍主義ともいう・・・に違反する、つまり思想信条の自由であっても大学の枠内で行われることではない)。

●一気飲みとタバコのポイ捨てはやらない。→一気飲みは、上で述べたように、学生の身体がある意味で「公共性」を帯びていることにたいする重大な挑戦である(とは思いません? 少し大げさだけど)。

 つまり、学生は(実は教員も、なのだが)「善良な市民」であることを求められている。繰り返しになるが、「善良な市民」の活動によって支えられ、その市民たちの「信託」を受けて、学んでいるということを(常にとは言わないが)わきまえていてほしい。

 

●しかしながら、社会によって与えられたチャンスは逃す必要はない。大学が提供する様々なサービスには積極的にトライしてほしい。
●大学の支出の60%は「人件費」である。http://www.ynu.ac.jp/about/information/financial/pdf/kessanhoukokuH21.pdf
つまり、大学にはいって「元を取る」ためには、大学から給料をもらっている人からなるべく多くのサービスを受けるしかない。授業・面談・相談・指導などである。
また;

●自分でも友人でも精神的な不調を感じたら保健管理センターへ。たいていの問題は解決できる! 勉学の停滞は、社会の無駄でもある(君たちの学費の2倍の税金が無駄になる!)。精神的な不調によって多くの資源を無駄にしたくない。

●先生と個人的に話しをしたいときはアポイントメントを取ってから(志田の場合は電話339-3426、電子メールは「shida***ynu.ac.jp***@に変更して送信)。志田のオフィスアワー(アポなし訪問可)は、火曜5限(総合研究棟5FS507号室)。

 

3.今年のテーマは、「知識」と「コミュニケーション」ということではないかと思う(話し終わってみなければわからないが、確か去年もそういった)。

 

***********ここからが第2回(418日)に予定していた内容です****************

 

1.知識の公的領域(Public Domain) 

 

●「知識」の人間的側面

 「知識」(know-howという意味では技能も)は、一般の「財」「財産」「資源」とちがって、あるひとの知識を他の人に分け与えてもなくならない、という大きな特徴を持っている。知識の一番大きな効用は、それを知った人が誰でもそれを自由に使え、その結果より豊かな生活ができるようになる、というであり、人間の生活がこの「知識」に基盤を置くことで、生物学的な桎梏(しっこく)から幾分か自由になる、ということができる。「知識」の存在とその流通方法(コミュニケーション)こそが、人間的生活をもっとも基底で支えているといえるだろう。

 別の言い方をすれば人間の社会を支えている「分業」は「知識」による分業なのである。

 

不思議な存在「知識」

 「知識」は実に不思議なものである。「あの人は物知りだ、あの人は頭がいい、あの人は知的水準が高い」とよくいう。つまり、知識はある人の中、とくにおつむの中に詰まっていそうだ。しかし、よく考えてみよう。知識は見えないし、知識の高さや量や質なんて本当にはかれるのであろうか? もしはかれるとすれば、それはある人の知識を他の人の知識によって(照らし合わせて)はかっているのだ。誰かの財産や専有物ではない。物知りかどうかはとりあえずしゃべらせてみて、自分の理解できる範囲で、自分の知らないことを「もっともだ」という形で伝えてくれることだ。たとえば志田が「缶詰が発明された後しばらく缶切りはなかった」とかいったとする(どうも事実のようだ)。そのとき「なるほど」と納得して理解できることによって「知識」となる。通じない、理解できない、伝わらない、何とも表現できないような事柄は「知識」ではない。「知識」とは伝わってナンボ、のものであり、知識というのは人のおつむの中にあるのではなく、人と人との間にあるもの(現象)なのだ。ついでにいいっておくと、世に名高い「コミュニケーション能力」とかいうものも、ある個人の特殊能力ではなく、人と人との間で成立する現象である。脳科学とかという「トンデモ」にだまされないようにしてほしい。脳を鍛えるよりも、わかりやすい話し方を心がける、何よりも相手の理解の程度をはかりながら話すほうがずっと「頭が良くなる」。

 

●高校の授業と大学の授業の違い、われわれは知識のフロンティアにいる、オリジナリティを示せ!

 大学で学ぶということは、公共的(だれでも使える)な知識の領域(Public Domain)を拡張することである。公共的な知識(教科書に書いてあって「読めばわかる」)を自分の中に取り込む(そしてその「取り込み具合」を試験される)という「高校まで」の学び方と、本質的に異なる。

Public Domainの知識を取り込んだ人間は確かに個人として「賢く」なる。しかし、そのことによって人類全体にとって有益な知識が「増えた」ことにはならない(たとえは悪いが、他人が発見した知識を覚えるのは、一万円札のコピーをとるような「あほらしい」行為なのである)。

 

●「金になる仕事」は人に教わったものではない

大学に何を学びにきているのか? 先生に教わったことは「免許」(営業をしてよいという許可)にはなるが、飯の種にはならない。「教わらなかったこと」「自分で編み出したこと」が売り物にあるのが、近代における分業である。

人類にとって有益な知識は、「今まで誰も知らなかった」ことや「今まで正しいと思われてきたことが誤りであった」という種類の知識である。これがPublic Domainに付け加えられることによって、はじめて人類の知識の「発展」がやってくる。つまり、高校までの「お勉強」はおおむね人類の知識の発展に貢献しないものであった。いわば、知識のコピーを作り出す作業であり、人類全体にとってオリジナルの知識は増えていない。大学では、知識はPublic Domainを拡張する種類のものでなければならない。「オリジナリティ」とはそういう意味で用いられる言葉である。

 

●「盗作は罪!」

反対に、大学で学ぶことは、非常に多くをPublic Domainに負ってもいる。公共的な知識に依存して初めて「オリジナリティ」が主張できるのであり、すべての知識を無から生み出すことができない、という意味で、われわれは公共的知識という巨人の肩に乗ってはじめて「オリジナル」を生み出せる。それゆえ、Public Domainに敬意を払うことも必要となる。それは、他人の生み出した知識や既に発表された意見には、かならず「レファレンス」(引用や参照という「仁義」を切る)をつける、ということによって達成される。これを行わないと「盗作」という犯罪になる。

以上をまとめると、大学で「学び」に関連することがらは、

(1)必ず「新知識・新発見」(オリジナリティ)がある;

(2)他人の仕事を無断で使わない(だれのどんな仕事か明示する)、

の2点が求められるのである。

レポートにウェブページをダウンロードして貼り付けて、いかにも自分が書いたように見せるのは、盗作であると同時に、他人の書いたものに対する冒涜(ぼうとくである。

 

2.知識や学問ということ:大学で「学ぶ」ということ(学びの「公共性」)

 

●「知的な責任」

 今述べたように、知識や学問は、公共のものである。昨今「知的財産」の旗印の下、知識や技能を囲い込む風潮があるが、これは本来「新知識」や「新発見」をより盛んにするために、金銭的な「誘因」を与えようという「奨励策」(インセンティブ、という言葉を聞いたことがあるかもしれないが、要するに餌で釣るのである)なのであって、そうしてえられた知識もやがてPublic Domainに回収されていくべきものである。「知識」の「顧客」はそれに直接金銭を支払う人ではなく、最終的には人類全体なのである。また、たんに知的好奇心を満足させるために行われた無償の行為が、こうしたPublic Domainを拡大してきたという点を忘れてはならない。

知識や学識の持ち主は社会に対して一定の責任を負う。知識や学識がただちに社会的に評価される(金になる)と思ってもならない。大学のもっている公共性は、特定の顧客を相手にするのではなく(最終的には、といっておこう)人類全体にとって有益な知識を生み出すことによって保証される。

 知識や学問のあり方は社会のあり方に制約されている。どのような知識や学問が高く評価されるかについても社会の文脈と無縁ではない。何をどう学ぶべきかは、社会のイデオロギー(よくいえば「合意」)によって決定されている。大学で学ぶ知識や技能は、完全に個人の財産ではないのである。逆に、社会の共有財産という側面があることを知ってほしい。

 諸君は大学に「入った」という。大学は諸君を「入れた」という。しかし諸君は、社会が「社会の代表として」諸君を大学で学ばせていることに自覚的でなければならない。大げさにいなくとも諸君は「社会の代表」として学んでいるのである。学ぶことは権利であると同時に公共に対する義務でもある。大学教育も個人の財産ではなく、公共的な使命を帯びている。これを銘記してほしい。

 諸君が「学ぶ」のは自分のためだけではなく、社会のためでもある。国立大学の学生には授業料のほかに、国費(もとは税金)が年間200万円投入されている(あくまでも、全国立大学。政府の統計http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001015853&cycode=0によると、国立大学の予算「およそ15000億円、うち授業料は3000億円、国立大学の学生・大学院生などの数62万人。上で見たように国大の場合は90万円だった)。大学教育に金をかけることに社会の(暗黙の)同意があることを忘れてはならない。ある種の試験をパスした人間を4年間学生という特権と義務とがある地位につけているのは、諸君のためだけではなく結局社会のためになるからである(少しくどいか)。

 

「未履修問題」

 知識は本人の役に立ち、他人の役にも立つ。共通の知意識を持つことはコミュニケーションを容易にする。その分社会はコストを避けることができる。どの程度の教育を受ければどの程度の知識を期待できるか、が公的なカリキュラムで定められた教授内容である。たとえ本人の役に立たなくとも他人の役に立つなら「学ばざるをえない」。ここにも知識の公共性の一端がある。

 


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