大震災に際して 2011.6.1
大震災から3ヶ月が経過した。はじめに、この未曾有の大惨事の犠牲になられた方々に謹んで哀悼の意を表するとともに、被災者の方々に心からの同情をお伝えしたい。何の落ち度もなく災難に遭遇し、自己利益を顧みず義務を超えた勇気を発揮し、そして今も引き受けるいわれのない重荷を背負われている方々に、心底畏敬の念を覚える。世界はみなさんとともにある。
さて、メディアを通じて、あるいは志田氏を通じての情報をもとに、今回の大惨事からの教訓と復興の方向性とについて、いくつかの指摘をしておきたい。それは、大災害のリスクに対処する方針であると同時に、日本のあるいは世界の将来にかんするビジョンの提示ともなるはずだ。
志田氏からの情報によれば、地震のごく直後から、報道(NHKなど)のヘリコプターは津波が押し寄せる映像(それは、道路を走行している自動車が津波に押し流されていく映像や、家屋やビニールハウスが火を噴きながら津波にもまれていく映像を含んでいたそうだ)を同時進行で「中継」していた(つまり、津波の情報は、被災者よりもテレビ視聴者に届いていた)。また、津波の被災地の多くでは、地震のあと大被害をもたらした津波が押し寄せるまで数十分からそれ以上の時間を要したともいう。最大高を記録した津波は、おおむね地震後30分以上経過して押し寄せていた。地域によっては、地震に際しての避難所から津波のためにさらに別の避難所に避難した例もあると聞く。鉄道は地震を感知して直ちに緊急停止し、乗員らの誘導で多くの乗客を非難させた例もあるという(要するに電気が伝わるシステムが健全に機能していれば、必要な情報は伝達し得るということだ)。
もしも報道のヘリコプターから、カメラの下にいる人々に直接「大津波が迫っている、一刻も早く非難せよ」という情報が伝えられたなら、惨事は幾分か軽減されたかもしれない。あるいは、晴天の春の午後であったのだから、海上保安庁や自衛隊や警察や消防のヘリコプターや飛行機が飛行し、沖合の津波を視認しその速度を速報することができれば、避難も避難の誘導も、またそれにたいする指揮の速度と効率性を格段に上昇させられたであろう。
日本の航空自衛隊は被災地の近傍に三沢、松島、百里などの基地を持ち、超音速戦闘機のF4、F15、F2などを配備している。自衛隊の戦闘機は、警報に対してスクランブルを発動すれば、分速20q以上(マッハ1以上)の高速を利して数分で津波の押し寄せる現場沖合に急行することができるはずである。松島基地は被災地の中心にあって大きな被害を受けたとはいうものの、百里基地や三沢基地から被災地は200-300q圏内であり、津波の到達するまでに沖合で観測する時間的余裕がなかったとは言えない。また、それが不可能であるなら日本の防衛体制はまことに心許ないものといわざるを得ない。実際陸上自衛隊のヘリコプターは、津波が沖合から押し寄せる様子を上空から撮影している。大規模な地震があり津波のおそれがあるという情報を自衛隊はどこから得たのであろうか? またヘリコプターからの情報はリアルタイムで地上の人々に伝わったのであろうか? 自衛隊は災害からも日本の国土と市民を事前に守る活動を行うべきである。
推測やあいまいな情報で判断することは慎まなければいけないが、要は、気象庁からの警報以外にも、津波の到達時刻やその規模について、多くの情報を収集する可能性はあり、さらにその情報を速やかに伝達できる方法が検討される必要がある、ということだ。
避難場所に暮らす被災者にとって大きな課題は「情報がない」「情報が届かない」ということであるそうだ。被災者に対して今後どのような対応が行われるのか、何をすべきなのか何も知らされない。避難所で不足している物資や必要なボランティア人材が伝わらない。経済学者アマルティア・センは「民主主義社会には飢餓が存在しない」と述べた。民主主義社会では、人々が自らの意見を表明するチャンネルを持たなければならず、そのチャンネルは「食糧が不足している」という情報を伝達するためにも利用できるからである。飢餓も大災害も、その規模がどんなに大きくても、被災地の外でそれを支援する大きな社会システムを必ず残している。孤立無援なのは何よりも情報のうえで孤立無援なのである。肝心なことは、被災地からその外のシステムに的確に情報が伝わることなのである。
被災地では一時的に民主主義(を支える情報的基盤)の機能不全が生じたというべきであろう。願わくは、こうした情報チャンネルの機能不全が一時的なものに過ぎず、「平時」には民主主義を支える情報の流通が保証されていることである。
さて、非常事態において(またそこからの復興について)必ずしも民主主義的ではない、すなわち権威主義的だったり温情主義的だったり、言い換えれば情報における「再分配的」構造(それは情報ネットワークが中央集権的で、政府機関のような情報センターをもつ星型の情報チャンネルを備える)が効率的だという見解がある。これは真理であろうか? いざというときはスーパーマーケットで必要物資を手に入れるよりより、公的セクターが備蓄した非常用物資が配給されることを期待した方がよいのか?
また、災害からの復興は、政府の「計画」、政府の「資金」、政府や自治体の官僚機構の「指令」に待つべきなのか?
こうしたことは、必ずしも絶対的な真理ではないことが、今回の大惨事において証明されたようだ。流通小売業者や運送業者は、独自の判断と情報ルートにより、被災者のもとに直接多くの物資を届けることができた。停電にもかかわらず災害の翌日から被災地で営業を再開したスーパーもあるという。また、ボランティア団体の多くは自治体と協力してとはいうものの、独自の判断で援助物資や人的支援の手配を行っている。迅速性と効率性とにおいて、勝っていることはいうまでもない。それは、センのいう意味での情報ルート(つまり、中央で情報を集約し、またその情報を周辺に返す)より以上の「市場的」というしかない情報ルートの活用によるものである。
日本も含めて、世界の政治の潮流が「小さな政府」「官から民」へと向かっているのは、こうした市場的情報ルート、すなわち需要の情報と供給の情報を直接に結びつける能力への信頼に基づくものであろう。市場に参加するものは情報の不均質性の中で、異質なもの(需要と供給はこの異質性の最たるものである)どうしを結びつけることによって報酬を得る。それは緊急物資の供給や復興需要の掘り起こしにも当てはまる。この能力が大災害において中央集権的な情報ルートに劣るという証拠はどこにもない。むしろ、中央に直結するルートが途絶し、代替的な情報ルートもないとき、政府や自治体のような再分配機構は需要(ニーズ)を全く把握できなくなる可能性がある、ということだ。
政府や自治体のような資源と情報の再分配機構を信頼するより、総合商社や流通小売業のような市場的で分散的な情報ネットワークに復興をゆだねる、ということは考えられないであろうか?
最後のポイントは「福島第一原発」である。
これまでの議論から、容易に想像がつくと思うが、原発問題の半分は情報問題である。
第一には、原子力発電所で実際に起こっていることにかんする情報が、東京電力からしか提供されず、そのような情報の独占が、あらゆる商品の流通と同様に、非効率と不公正の原因になるということである。より詳しい情報が速やかに伝達されれば、東京電力や原子力保安院以外の専門家によって状況を解析することができるし、そうした分析に基づく発信は衆知を集めたより適切なものになった可能性がある。また、避難指示の対象になった方々やそれ以外の方々にたいしても、情報不足による不安を巻き起こし、何よりも自主的に行動するチャンスを奪ったことになる。政府はパニックをおそれたであろうが、十分な情報のあるとき(たとえそれが相当程度絶望的であっても)、先進社会で収拾のつかないパニックが起こるとは考えられない。
そして、情報の不開示は、必要な対応を遅らせる、あるいは取らせない、という結果を生みやすい。たとえば、今回の原発事故で活躍した無人ヘリコプターや注水用の生コンの圧送車などは、国内の企業も保有していた(ヤマハ製の無人ヘリコプターは、北朝鮮への禁輸品目になっているそうである)。なぜアメリカ軍や中国提供のドイツ製車両になったのであろうか? おそらく情報の経路にいる人々にそうした情報にアクセスするチャンスがなかったからであり、そうした情報の提供も受け付けられていなかったからであろう。
独占事業の一番の問題は、都合の良い情報も悪い情報も含めて、内向きの情報と外向きの情報との二つに情報が分離される、という点にある。公共性の高い企業体は、その公共性に鑑み、リアルタイムに外部に情報を発信することを義務づけるべきである(まさにアカウンタビリティ「説明責任」を果たすことである)。たとえば、福島第一原子力発電所の復旧した中央制御室の計器の指針をリアルタイムにWebで公開することなどが考えられるであろう。
以上のように、災害に強い、あるいは力強く復興する社会を根本で支えるのは、情報ネットワークであり、どれだけの災害にあっても情報の途絶を防ぎ、大規模の情報の流通によっても飽和しない情報送発信能力・処理能力を構築することである。そうすれば、官民一体となったきめ細かく効率的な対応が可能となる。
政府の非効率は言い古されたことであるが、それは情報が階層的ツリー上に行き来をすることにも原因がある。その反対に、民間の効率性を支える大きな要素が情報の大量で迅速な流通であることを銘記すべきである。
建物や道路の被害、あるいは水道や電気といったインフラに大きな被害がなくとも、東京の周辺では、交通の途絶による帰宅難民の大量発生と、電話やメールの不通状態が長く続くという混乱がみられたという。非常時に通話をするな、という対応ではなく、電話や携帯メールによる通信は最後まで平時同様十全に機能するという社会が目指されるべきなのである。
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