未知の国への入国と綱渡り


綱渡り

発展途上国は申し訳ないがよしとしよう。その国で前科でもない限り、日本からのゲストをむやみに追い返すところはないと勝手に判断する。但し、香港やイスラエルなど。また、アラブ諸国などの原油で財をなす国などは、経済先進国と同等に金が稼げる国だが、入国に関してそれほどのプレッシャーは感じない。余程相手に不快感を与えない限り、問題は起こらないと判断する。問題はやはり経済先進国と呼ばれる国々への入国だ。

特に、海をまたいだ入国には神経を尖らせる必要がある。オセアニア2カ国、北米、そして何と言ってもヨーロッパの中で、イギリス、北欧。変わったとこではイタリアからギリシャ間などである。ヨーロッパ大陸内。特に西欧での陸路での国境越えは意外と簡単で、日本のパスポート所持者は大体一瞥される位のものだ。西欧から東欧に移る場合は、やはりそれなりの検査はあるだろうが、多分今はそれほどスリリングなものではなかろう。

だが、これがフランスからイギリスへの海をまたいでの入国。デンマークからスウェーデンへの船での入国。イタリアからギリシャへの船での移動。アメリカへの飛行機での入国。アメリカからカナダ。カナダからアメリカへの入国は実に緊張するものだ。ましてやこれからその国で不法滞在、不法就労をしようという下心があればなおさらだ。特に日本出国後長時間が経った状態でのイギリスへの入国。アメリカ、カナダへの入国は大変と思った方がいい。

私の場合イギリスへの入国は、その当時まだドーバー海峡を鉄道が走ってなかったから船で渡った。この時日本を出てすでに3年近くが経っていた。私はパリで迷った。イギリスに向かうことはひとつの賭けだった。それまでに何度もイギリスの入管に追い返された奴の話を聞いていた。入国検査で引っ掛かり追い返されれば、それまでの3年は無駄になる。だが、イギリスを外せば悔いが残る。パリのイタリアンレストランで考えあぐね、ワインをあおり、酔っ払って腹が決まった。宿にとって帰り、そのままふらふらの足で駅に向かい、最終の国際列車に飛び乗った。

パリからフェリー港まではそれほど時間は掛からない。フェリーに乗り、大荒れのドーバー海峡にさしかかった時、さすがに私は吐き気で便器に顔を突っ込み、動けなくなっていた。そして、深夜、船上での入国審査が始まった。「イヤー、旅行のついでにゴルフでもして2週間ばかり・・・。」色々な質問に対するシュミレーションはできていた。ところが、私を前にした初老の審査官は何も聞かず、流暢な日本語で、「日本人ですか。楽しんでね。」ウインクまでしてあっけなく6ヶ月滞在OKのスタンプを押してくれたのである。緊張の糸が一挙に切れて、暫くデッキでボーゼンとしていた。

ニューヨーク、ジョン・F・ケネディー空港。ヨーロッパから乗ってきたチェコスロバキア航空の飛行機を降り、パスポート・コントロールに向かった私は、とりあえず一通りパスポート・コントロールのカウンターを見て歩こうと決めていた。この空港のカウンターは数がある。十数人の審査官が並ぶカウンターの前を、私は順々に審査官の顔をそれとなく見て歩き、反対側のトイレに入った。パスポートを差し出す審査官はあくまでも男性。温厚そうで楽しそうにやってる人間。この条件に当てはまりそうな検査官の顔を思い浮かべ、決めた。

「いらっしゃいまし。日本人ですね。楽しんでね。」ポンポーンとスタンプを押し、彼は殆んど何も見ずパスポートを返してくれた。私はあっけにとられた。日本を出て4年。この国に入れれば計画は完成された。そう思っていい入国だった。日本出国以前から見据えてきたアメリカだった。多くのことを疑われてもいい状況だった。大西洋を飛ぶ飛行機の中で、私は腹をくくっていた。泣いても笑ってもこれが最後の足掻きだと思っていた。それがいとも簡単に終わってしまったのだ。

余裕が生まれた。たといここで滞在期間を絞られても、入ってさえしまえば不法滞在をすると決めていた国だ。「日本語上手ですね。」、「私は以前沖縄の米軍基地に仕事で長く居ました。その時に日本語チョッピリ覚えました。」30過ぎの優しそうな目をしたその審査官は両手をテーブルの上で組むと、混雑していなかったせいか、あるいは自分の日本語を使ってみたかったせいか、積極的に雑談に乗ってきた。私はひととうりそれに付き合うと外に出てアメリカの空気を目いっぱい吸った。

イミグレーション、パスポート・コントロール、入国審査。長期の旅を続けていてこれほどいやなものはない。誰が地上に線を引き、誰が人間の行き来に制限をつけてしまったのか。旅を続けていれば必ずそれを恨む時が来る。今の私はそれを幸運にも思い出として捉えられる立場になってしまって、自分が経験した綱渡りひとつひとつが過去の歴史になってしまったが、これから海外にでようとする者達には逃れられない宿命なわけだから、決して易しくないということだけは肝に銘じておいてもらいたい。


審査官さま

30年、40年前、ヒッピーと呼ばれる若者が全盛期だった頃、世界中を自由に旅して歩く若者の格好は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。長髪によれよれのジーンズ。ドサ袋を肩にかけ、身の回りのものだけをそれに詰めて持ち歩いていた。この頃から欧米人に東南アジア。特にドラッグが簡単に手に入るインド、ネパール、タイなどの国々が脚光を浴びるようになり、かの有名なマジック・バスがロンドンからネパールのカトマンズまで走るようになる。

その波が過ぎると、今度はバック・パッカーと呼ばれスタイルが主流となる。登山用のバック・パックを背負い、中には必ずスリーピング・バッグを一緒に携帯するという、アウト・ドアー・スタイルの移行である。だが、スタイルが変わったからといって旅人の懐まで豊かになった訳ではなく、70年代までのバック・パッカー達。特に長期の旅を志す者ほど貧しく、服装も汚かった。

入国審査官からすれば、そういった連中を見分けることは簡単だっただろうし、姿格好から何をしに来たのかも容易に判断できたと思われる。逆に言えば、あの当時の諸外国の入管では、そういった長期旅行者はそれほど数も多くなく、ある程度の不法就労位は大目に見る位の余裕があったのではないかと思われる。現在のワーキング・ホリデーにしても、どうせ働きながら旅を続ける連中がいるなら、いっそのことそういったビザを作ればいいという、粋な計らいがはたらいたのではないだろうか。

しかし、そんな中でも、不運な連中はいた。汚らしい格好、長髪、所持金は少なく、日本までの航空券も持ち合わせない。おまけに言葉も満足に話せないとなると、審査官の心証を悪くする。質問に満足に答えられないところで入国拒否ということになる。だが、ここで目的意識の強い奴は、これまで言ったように粘った。持ち上げ、泣き落とし、それでどうしようもないなら土下座したのだ。それだけの一連の行動を真剣にやっている相手を見て理解を示さない者は少ない。最後には審査官も通常よりも滞在期間短めという条件付などでスタンプを押してくれたわけだ。

日本人で試験に合格して入管の役人になる連中は、俗に言われる敷かれた階段を登って大きくなった連中が殆んどだろう。国が決めた事。国が定めた法律に沿って考えることしかできない。しようとしない。だから、時としてその場、その場での特例を設けるなんて粋な計らいなんて出来っこない。残念ながらそれは本人達の責任とも言いがたい。社会が、大人がそういった教え方、育て方しかしなかったのだからしかたないことかもしれない。

しかし、欧米の社会にはもう少し余裕がある。少なくとも若かりし頃には、一般的に色んな経験を積む。社会がそれを認めているし、構造作りも日本に比べれば数段進んでいる。将来社会の中枢を担おうとする者でも、平気で大学入学前1、2年の長期の旅に出る。30歳前で大学卒業なんて至って普通の事だ。私をニューヨークの空港で審査した審査官にしても、沖縄で米兵。その後帰国して大学。そして、入国審査官の道を歩んでいる。

これから本気で長期の旅を考えているものがいるなら。目的意識と目標だけは確り持って彼らに立ち向かってみるがいい。自分が絶対やり遂げようという気構えさえもって臨めば、事は自ずとスムーズに進むものだ。何故なら、あなたに向かい合う人達の中にはそれを理解してくれる者が必ず何人かいる。自分の過去の経験を相手にダブらせて考えられる人が必ずいるということだ。そういう審査官を見つける努力をすべきだ。仮にそれが出来ない。する自信がないと諦めるようでは何もできはしない。幸運を!そして、シュミレーションを忘れずに!


おまけ

私は考えたシリーズで書いたように、イスラエル訪問以降、女性審査官を苦手とした。だいたいガバメントのこういった仕事に就く女性は利口で正義感が強くて、男に負けない位の気概がある。その上私が余りに好い男ではないから、よけいに私に対して愛想が良くなかったのかもしれないが。とにかく近寄らぬ神に何とかで、私は極力職務に忠実な女性審査官は避けた。

あなたが相手から見て、トム・クルーズかアラン・ドロンのような余程好い男か、女性から見て余程魅力的な女性。或いはあなたが十分な語学力があって、相手を悦ばすだけのジョークが言える位の人なら、堂々と女性審査官の相手になってみるのも悪くない。たぶん相手はまともにパスポートも見ずにあなたの顔をボーと見つめるだけか、もしくは笑い転げて審査は終わるだろう。

世界一周の最終目的地南米から、訪問が簡単になった中国を訪ねるために、私は逆戻りをして再度イギリスに飛行機で飛んだ。ロンドン・ヒースロー空港に到着したのは、まだ春というには程遠い寒い日の明け方。この時の入国審査官は数人の女性のみ。私はパッキングしたスーツを肩に掛け、入国審査票には、職業ジャーナリストと書き、日本出国6年目。最後の大審判に臨んだ。

「おはよう。どうですか、今朝の調子は。」ニコッと笑って返事を返してきた。良い子だ。私はおもむろに大きなクシャミをする。
「やれやれやれ。どうも常夏の南米で風邪をひいたみたいでね。どうも鼻水が止まらん。」相手が私の顔を見る。
「日本じゃ馬鹿は風邪をひかんというのに、場所が南米だったせいか、馬鹿が風邪をひいてしまって。フォークランド(イギリスがアルゼンチンと戦った島)に行ったイギリス兵は、全員健康で帰ってきたとか。みんなクレバーだったんだ。きっと」

これだけのことを英語でさらりと言ってのけた。彼女が噴出した。ろくに中も見ないでスタンプが押されたパスポートを取ると、私は出口に向かった。あまりにも彼女が笑い転げているので、隣のカウンターの子が何事か聞きにきたようだった。
”あの人日本のジャーナリスト。でね・・・”
2人が笑いながら話しているのを後に、私はロンドン市内行きのチューブの駅に向かって歩き出した。