Part・9
<のっけてもらって、なんですが・・・(1)>2001年1月28日
20年も、30年も前、世界中のバック・パッカー達は貧しかった。貧しいから、移動手段としてヒッチをしていた。世界中には、ヒッチが簡単な国と、難しい国と、禁止の国と、危険な国が、今でもある。

人柄が良い人が多いから、わりかし簡単なのは今もニュージーランドだろう。
この国では、私はヒッチの基本を教わった。それは、ヒッチというものは、あくまで人の好意に甘えるもの。ならばやってる本人も努力が必要。”いいかい。親指を立て、腕を横に出して、進行方向に向かって歩け。ただボーと立ってるだけでは、良い印象は与えない。”ヒッチが楽だから、競争も激しい。だから努力せいというわけだ。しかし、30キロ近い荷物を背負って歩くのは大変なものなのだ。ただ、拾ってくれるのは確かにこっちが多い。
”反対方向に行くとき見かけてね。まあいいから乗れ乗れ。”定員オーバーでも押しこんでくれた。


これがヨーロッパのフランスくんだりになると、非常に難しい。
大体他人の事にあまり興味がない国民性の国。フランスに限らずスイスなんかもそうだが、殆ど無視して行きやがる。特に、助手席に女でも乗せてる車なんかだと、女が嫌うようだ。これが男のドライバーだけなら、まだ多少可能性があり、若いかわゆい女子でも立たせておけば、スケベ心で、まだ捕まる。

フランスの田舎でこんな話がある。道を尋ねるためにある家のドアをノックした。誰も出てこない。次の家もだ。やっとある家で出てきたのは亭主の方で、お上さんの方は、奥でそっぽをむいていた。フランスの女は顔のわりに冷てい。どこかで誰かが呟いていた。

禁止の国は、アメリカ、オーストラリアなどの先進国には以外に多い。勿論、その国の全ての州がそうというわけではない。理由は、言わずと知れた、危険だから。ヒッチ・ハイカーが殺されたり、レイプされた話は以外によく聞いた。ただ、最近では男も危ないという事実。私はこれが一番気色が悪くて怖い。ちなみに、発展途上の国ではどうか?上に書いた事柄が、全て適用される?・・・だろう。たぶん・・・。


(第1話)

私が初めてヒッチをしたのは、オーストラリア。クィーンズランド州のブリスベンから、ビクトリア州のシェパートンという町に下る時だった。誰でもそうだろうが、第1発目というのは緊張する。果たして止まってくれるのか疑ってみたりもする。だが、以外と早く捕まった。
”やあ、どこまで?””そうか。俺は州境までしか行かないが、乗る?”
20代後半の、感じの良いお兄さん。でも、何か感じに引っかかるものが・・・?

彼は州境にある小さな町の、実家に帰る途中だった。ブリスベンからメルボルンに伸びる、最短の主要国道は内陸部を通っていて、見渡す限り何もない所が多い。そういう意味では、ハイカーを拾うことは、ドライバーの暇つぶしにもなるわけだ。この人の場合、私を拾ってくれた場所から実家まで、1時間もかからない距離だったのだが・・・。彼の実家のある小さな町に近づいた頃。


”君は知ってるかい?この州では、ヒッチ・ハイクをすることも、ヒッチ・ハイカーを拾うことも禁止されているんだ。”
”エッ。そうなんだ。”第1発目で知るはずもない。
”君は法を犯してることになる。”困ったことだ・・・。
”だが実は、僕も法を自分で犯してる。””法の番人としては失格だね。”彼はニャッと笑って、服の内ポケットから警察のバッジを出して見せた。

(第2話)

ヒッチをしていれば、たまには捕まらないことだってある。不幸な人は、丸1日待ちぼうけってこともあるのだ。私だって自慢じゃないが、そんなことは一度や二度ではない。

あの時は、Pさんという日本人といっしょだった。
Pさんは、小柄でメチャおもろい人だった。お父さんは某大手商社の役員らしく、他の兄弟達もそれぞれにエリート・コースを進んだのに、彼だけは、”落っこちた。”と本人が言うくらい、これまでに沢山羽目を外して来たらしい?しかし、オーストラリアに旅に来るまでは、生前ドンと呼ばれ、公営ギャンブルで財をなし、政財界でも力を持っていたS氏の従事をしていた人である。
”水は出雲大社の涌き水を取り寄せて飲み、魚は半身にだけ手をつけ、好物はメロン。”これがPさんが教えてくれた、生前のS氏の素顔の一部。・・・である。

私とPさんは、タウンズビルからケアンズに向かって一緒にヒッチをした。1台目はうまく捕まりよかったのだが、下ろされた場所が、本当に小さな田舎町の外れの、それも砂糖キビ畑のなかだった。私達はここで半日待った。待ってまって、日が暮れた。しかたがないので、我々は近くだった駅まで引き返し、そこで寝ることにした。

そして、夜中。ホームで寝ている我々の前に、最後尾に客車を一両だけつけた、貨物列車が止まった。
”これ、乗れるのかなァ。””乗れたら、乗る?”聞いてみることにした。OKらしい。

その古ぼけた客車には、2人の先客がいた。私と同年代の男連れだった。
最初我々は彼らとは離れた席に座っていたのだが、そのうちに声を掛けられた。気の良いオージーらしく、こっちに来て、一緒にワインを飲めというのだ。なんだ断る理由もない。彼らはブリスベンから来たと言った。ケアンズで漁師の仕事にありつけたので行くらしかった。この夜、私達は4リットルのワインを回し飲みした。


”おまえら知ってるか?この国は、貧しい者には大変慈悲深くてな。金がないと言ったら、汽車賃位タダにしてくれるんだ。勿論、贅沢な乗り物はダメだよ。””何。おまえら金払ったのか。バカだなァ。”
”いいか、よく聞け。””今度南に下る時には、この客車に乗れ。勿論、キップなんか買うな。”
”それでな。もし検札にでも来たら。寝たふりしてろ。起してまでキップ確かめるヤボな奴はいないよ。”
ケアンズに着いた時。二日酔いで太陽が黄色かった。

その5日後。私とPさんは、この甘い話で引きこんだオランダ人と3人で、グッド・トレインと呼ばれる貨物列車に乗り込んだ。全てがうまくいくことを祈り、オージーの慈悲に甘えられることを信じて・・・。しかし、運悪く、その夜の客車には検札があった。我々は予定外の検札に身を固くしたが、言いつけどおり寝たふりをした。だが、我々が乗ってることは明白だった。
ーまずいかもしれない。−
検札が通り過ぎて行った後、一度は我々は顔を見合わせてほくそえんだが、その後に、存在を知られた我々が感じた直感だった。このまま見過ごされるか?そして、彼らにとって俺達は貧乏人か?それともただの外国人か?
”どうしよう?”

翌朝。タウンズビルに到着した貨物列車の最後尾から抜け出し、唖然と見つめる駅員を尻目に、線路をあたふたと走り去る3人の旅行者が目撃された。皆、心の中で、”ごめんなさい。”と、叫んでいた。
(これから海外に出かける良い子の皆さん。これは悪い話です。)