※スリーメン&ベビーのパロのような
※ベビーはロベルトという名前
※ルートヴィッヒは医者、フェリシアーノはコック、菊は漫画家




1.「三河屋、襲来」
2.「見知らぬ、孤独」
3.「transfer」












 連載を終えたばかりで次の仕事はどうしようかと考えていた矢先にこんなことに
なって手が空いているのは菊だけだった。ルートヴィッヒとフェリシアーノは休み
ともなれば何かと役割交代を買って出てくれるものの、そうでない日の菊は
育児にかかりきりだ。慣れない育児は苦労の連続だったが、日に日に成長する
ロベルトを見ていると幸せな気持ちになり、このまま漫画家は廃業してしまおうか
なんてことも冗談抜きに思ってしまう始末だ。そのロベルトは現在昼寝中。今の
うちにさっさと済ましてしまおうと風呂掃除をしている最中にチャイムは鳴った。
ちわー三河屋でーすとのドア越しの声に捲り上げた袖と裾を直しながら玄関先に
出ると、やや息を切らしかけた金髪の男がそこに立っていた。ここはエレベーター
のない古いマンションの五階にある。足元には重いビールケースがあり、それを
運んできたことを思えば無理もない。ただ馴染みの三河屋の主人はもっと年配
で、こんなに若くはなかったはずだった。
「やあ、これはこれはフェリシアーノの奥さん」
 無精ひげをわずかに生やした金髪の男は菊を見るなりそう言った。どこかで
見た顔だと思えば、先日商店街にフェリシアーノとロベルトを連れて買い物に
出かけたときに出会った男だった。確か名前はフランシスと呼ばれていたか。
フェリシアーノが俺たちの赤ちゃん!と元気いっぱいに紹介したものだから
すっかり誤解してしまったのだろう。男の身の上で奥さん呼ばわりされるのは
たまったもんじゃないとこれこれこういうわけで預かった子供でと説明した上で
私は男ですと強い口調で主張すると、そっかーと理解してくれたかと思いきや、
でも俺男でもいけるクチだからーよろしくねと何をよろしくなのか聞いてもいない
ことまで教えてくれた。
「あの、三河屋さんのご主人はどうされたのですか?」
 話題を逸らしがてら菊が気になっていたことを尋ねると、あー親父ね、ちょっと
腰をやっちゃってと己の腰のあたりを軽く叩いて見せた。聞けばフランシスは
三河屋の一人息子で、フランスまで修行に行った業界では有名なソムリエなの
だそうだ。菊は酒といえば日本酒か焼酎ぐらいしか飲まないものだからぴんと
こなかったが、ワインを好むフェリシアーノならそのすごさがいくらかわかった
だろうか。いつかは店を継がなきゃいけないと思ってたけどまあ俺もそろそろ
潮時かね、なんてフランシスはひとりごちている。はあ、と曖昧に相槌を打つと
その手が急にこちらに伸びてきた。
「そうそう、良かったら今度、あなたのためにワインを選ばせてくれないかな」
 不意に利き手をとられていぶかしむ菊をよそに、膝をついて上目遣いでその
様子を窺いながら恭しくかの国のシュヴァリエのごとく唇を寄せ愛の告白を口に
した次の瞬間、フランシスは菊の視界から消え床に転がっていた。背後には
ぬうっと背の高いルートヴィッヒが足を持ち上げたままそびえ立ち、鋭い視線を
フランシスに投げている。どうやら思いきり蹴り飛ばしたようだ。学生時代、フェリ
シアーノともどもサッカーをやっていたルートヴィッヒのキック力は凄まじいものが
ある。フランシスは瀕死だ。
「菊、警察を呼べ。変質者だ」
「変質者じゃねーよ!」
「嘘を言え、この変質者が」
「三河屋さんの息子さんだそうですよ」
 あくまで冷静な菊の言葉にも疑いの目を向けるルートヴィッヒだったが証拠と
ばかりに傍らにはビールケースが置いてあるので信用せざるを得なかった。この
男はいつも配達に来ているのかと問えば、いえ今日が初めてです、お父様の
お加減が悪いそうでと菊から答えがある。ルートヴィッヒはしばし考え事をして
いたが、尻をさすりながらようやく立ち上がったフランシスが勝ち誇ったように
こんな美人がいると知ったからには俺が配達担当しちゃうもんねー!えーと
菊ちゃん、だっけ?と馴れ馴れしい物言いで懲りもせず菊の手をとろうとした
ところへ再び必殺ファイヤーショットが炸裂し、フランシスは尻を押さえて悶絶
した。こんなのに知られてしまうぐらいならうっかり名前を呼んでしまわなければ
よかったと反省するルートヴィッヒは苦々しい表情で、どうしてこう無防備に
やられっぱなしなのか俺が夜勤明けじゃなかったらどうするつもりだったんだ
などとクドクド説教をした末にしょげかえった菊の視線を受けて口ごもり、まあいい
とごまかした。
「とにかく、次からビールは俺が運ぶ。貴様は出入り禁止だ」
 ルートヴィッヒはフランシスに指を突きつけ、きつく言い放った。勢いでも二度と
ビールは頼まないとは言わないところがいかにもルートヴィッヒだとこっそり菊は
思う。フランシスはもう蹴られたくはないのかあっさりとした引き際で、菊から
代金を受け取るとすたこらと駆け出した。が、その性分は筋金入りらしく負けじと
戻ってきて俺利き酒師の資格も持ってんだー良かったら店に来てねーと、名刺を
握らせて菊の興味を大いに誘いながら走り去っていった。よだれのひとつでも
出そうな顔に、行くんじゃないぞと釘を刺すのはルートヴィッヒの役目だ。ため息を
つきながら部屋に入ってくると、今の騒ぎで目を覚ましてしまったのかロベルトが
泣き出した。菊はすぐさま抱いてあやそうとしている。
「あ、言い忘れてました」
 不器用なルートヴィッヒやいまいち不安定なフェリシアーノとは違い菊のあやし
方は上手で文句の付け所がない。安心して任せつつルートヴィッヒはきっちり
着込んでいたスーツを脱ぎハンガーにかけていた。そこへぽんぽんとロベルトの
背中を優しく叩いていた菊がルートヴィッヒに目を向ける。ロベルトはあっという
間に落ち着いておとなしくなっていた。なんだ、と顔を上げた先で菊は柔らかに
微笑んだ。おかえりなさい。
「ああ、ただいま」
 最初の頃は照れくさくて言えなかった台詞も、今はすっかりルートヴィッヒの
口に馴染んでいる。おはよう、いってきます、ただいま、おかえり、いただきます、
ごちそうさま、おやすみ。単純で忘れがちな挨拶はここを三人で借りるときに
約束したものだ。三人が家族であるために、ここが三人の家であるために。
それは何年たっても破られずに大切に三人の手で守り通されている。そして、
もしロベルトがこのままこの家で成長することがあればいつかはロベルトにも。
三人はそれぞれそう願っていた。横になる前に一杯やられますよね何かつまむ
ものお作りします、じゃあそのあいだシャワーでも浴びてくる、ああっ風呂掃除が
まだ途中なんでした、ならいい俺がやっておく、ではお願いしますと会話は進み、
ルートヴィッヒは浴室へ、菊はキッチンへ。まもなくにぎやかなフェリシアーノも
シエスタに戻ってくるだろうからと再び小さなベビーベッドに寝かされたロベルトは
それまでのわずかな時間で静かに昼寝を再開した。











 前の晩から見せ始めた熱の兆候はその日朝から菊を襲った。三人それぞれに
自室があり、寝起きはそこでしているのだがフェリシアーノはどちらかの部屋で
同衾することが多く今朝も菊のベッドで目覚めたためその異変にいち早く気づく
ことができた。それでも目覚まし時計が鳴ればいつもどおり起き上がろうとする
のを慌てて押し留め、額と額を合わせて熱をはかると低体温気味の菊にしては
驚くほど熱く感じられて、フェリシアーノは二度寝を楽しむ気などすぐに失せて
しまい、即座にルートヴィッヒを呼んだ。皺もなく寝る前とほとんど変わらない
ぴっちり着込まれたパジャマ姿のルートヴィッヒが医師の仕事道具を手に
駆けつけたとき、菊はたいしたことありませんよとことを大袈裟にしたくないよう
だったが実際にはフェリシアーノが止めるまでもなくとっさに起き上がることさえ
できず、体温計で正確な熱をはかり直しルートヴィッヒの診察を受けた後は
絶対安静となった。診断は風邪。ただの風邪といえど元来体の丈夫でない
菊だ。ルートヴィッヒは寝ているようきつく言い聞かせあとで薬を届けさせる、
何かあったら連絡しろと言って心配そうに出勤していった。他二人が朝に弱い
ため普段朝食や弁当の用意は菊の役割だったが、ミルクやおむつ替えなど
ルートヴィッヒがロベルトの世話をするあいだにまっかせてー!と張り切る
フェリシアーノが済ましてくれたようだった。片付けも終わり、そろそろ出勤という
時間になると枕元にやって来て今日は休むと散々駄々をこねたが勤務先である
レストランはフェリシアーノとその祖父である老マスターが数人のアルバイト
だけで切り盛りしている小さな店で、彼がいなければ店を開くこともできない。
ここでロベルトのことを持ち出されればさすがの菊でも折れたかもしれないが、
あらかじめ考慮してロベルトはルートヴィッヒが連れ出してベビーホテルに預ける
手筈になっていた。おまじないの冷却剤へのキスを額に受け、渋々出て行く
背中を見送って、気合と根性を駆使してこれまでにない早さで完治すべく菊は
眠りについた。玄関のチャイムが鳴ったのはそれから数時間経った頃だ。気休め
程度にはマシになり、よろよろと起き上がりふらふらと玄関先に出ると見慣れた
顔に良く似た面差しが不機嫌そうに立っている。
「届け物にきたんだけど、なんだよ寝てろよちくしょーが」
 ドアが開くなりの悪態に、あなたがチャイムを鳴らしたから起きたんですよとは
言えずに黙り込み、しばらくぶりに会うロヴィーノだったが相変わらずだとある
意味安堵した。バイク便をやっているロヴィーノはフェリシアーノの兄であり、菊が
連載を持っていた頃は締め切り間際によく世話になっていて、待たせている
あいだに何度か食事を提供したこともある間柄だ。しかしながら仕事以外での
ここへの足は遠のきがちで、ロベルトとも一度対面したきりだった。それもこれも
一方的に敵視している天敵の存在があるからだろう。その彼がどこで菊が体調を
崩していることを知ったのかと思いきや、ほらと若干乱暴に突き出されたのは
ルートヴィッヒの勤める病院の名前の入った袋だった。早くそれ飲んで寝ろと
やや尖った口調なのは会いたくない天敵と相対せざるを得なかったせいもある
かもしれない。ルートヴィッヒは確かにああ言っていたがまさかバイク便を利用
するとは思いもせず、そこが大袈裟だと言うんですと菊は内心で苦く思った。
けれどその気持ちはありがたく、礼を言って袋を受け取って侘びがてらお茶でも
どうですかと切り出したところで気の長いほうではないロヴィーノのイライラは
沸点を迎えた。ずかずか靴を脱いで上がりこむと何か言い分がありそうな背中を
問答無用で押して菊の部屋に追いやり、仕上げとばかりにその体をベッドの
上に突き飛ばすと踵を返してずんずんと大股でキッチンへと姿を消し、戻ってきた
ときには水の入ったコップを手に持っていた。いいから寝ろ!ということに違い
なかった。
「いや、でも、あの」
「口答え禁止!」
 往生際の悪さを一刀両断され、たじたじの菊がおそるおそる空きっ腹に薬は
ちょっと、と答えるとそれもそうだと納得したようでまたキッチンへと消えた
ロヴィーノはそのままそこで数分作業をして戻ってきた。その手にあったのは
無骨に剥かれた林檎の乗った皿で、はて?と菊は不思議に思う。この家に
林檎の買い置きはないはずだった。尋ねればここに来る途中買っといたんだよ
ちくしょーがとわずかに照れが入った頬で返事がある。ありがとうございますと
微笑んだ菊はそのうちふた切れをいただき、おとなしく薬を飲んで横になった。
ロヴィーノの去り際、今度はロベルトがいるときにまたいらしてくださいねと声を
かけると、振り向かない背中があの野郎がいないときならなと応じて部屋を
出て行った。なんだかんだで面倒見がいいのは彼もまた兄という生き物だから
だろうか。バイクのエンジン音が遠く走り去ってしまうと、静かな部屋はロベルト
のために買った加湿器がしゅんしゅんと音をたてるばかりだった。あまりに沈黙が
痛く、ロベルトがここに来てまだ数ヶ月というのに果たして自分は以前どのような
音の中を過ごしていたのか、すっかり忘れていることを痛感してしまう。感傷的な
考えばかりが頭に浮かんで弱っているんだなあとしみじみと思ううちにまぶたが
重くなってきた。薬の効果のひとつだろう眠気に任せて、菊は再び目を閉じた。
目を覚ましたのはそれからまもなくのことだ。誰かの帰ってきたらしい足音に、
フェリシアーノだと見当をつける。ランチの営業時間は終わり、ちょうど時刻は
シエスタの時間を指していた。それが菊の部屋の前で止まり、そうっと開かれた
ドアの隙間から起きているのを確認してただいま、ねえ一緒に寝てもいい?と
控えめに問われる。元気のなさはいつもと比べて落差が激しい。おかえり
なさい、でもうつしてしまいますよと菊は答えるがいいようつしてと構わず部屋に
入ってきた。そのほうが早く治るからねとベッドにもぐりこんできてフェリシアーノ
は笑う。
「風邪引くのもみんな一緒がよかったね」
 眠る前に感じた心細さが良くなかったのか、嫌な夢を見た。それを知ってか
知らずか、フェリシアーノは独特の敏さを持っていてときにこうして核心に触れる
ことがあった。何をするのも一緒なら離れ離れになることもないのにと子供の
ように思ってしまうのを止められない。けれどそんなわけにはいかないし、小さい
ロベルトに風邪は酷だ。何より元気な二人のほうが好きなのだ。それを告げると
フェリシアーノは嬉しそうに、わはー俺も元気な菊が好き!と朝以来の冷却剤
へのキスが降ってくる。だから早くよくなってと目を閉じた祈りのような囁きは
優しく、羽根のようだ。澱のように残っていた正体不明の不安は嘘のように
消えてゆき、温かなぬくもりを得ての眠りは夢もなく驚くほど深いものだった。
次に目を覚ましたときフェリシアーノの姿はなく、無事一人で起きてディナーの
仕込みの時間に間に合ったと思いたかった。じきにルートヴィッヒもロベルトを
連れて帰ってくる。だいぶ軽くなった体でさて夕食の支度を、とキッチンに出ると
既に用意は整っていた。フェリシアーノの仕業だろう。菊にはシンプルな白粥が
準備されていてせっかくのプロのイタリア料理を惜しく思いつつ、実は好物である
らしいルートヴィッヒの密かな喜びようを目に浮かばせ、今はもう恋しくさえ感じる
ロベルトのにぎやかな泣き声を待ち望んでもう一眠りすることにした。











じりじりと拮抗した鍔迫り合いから一転、すうと力を抜く予想外の動きに必死で
食らいついたまなざしは早くも勝ちを確信した面金越しの涼しげな目に一笑に
付され、一気にかっとなって振り上げようとした竹刀はしかし引き際の鮮やかな
小手によって遮られた。途端に上がる旗は白三つ。自分ではない色にちょっと
待てと審判に異を唱えたくてもそれらしい正当な理由はどこにもない。おとなしく
認めるしかない敗北は随分と久しぶりのことでとてもすぐに飲み下せるものでは
なかった。湧いた歓声に歯を食いしばって耐え、悔しさを制御しきれないまま
やれやれといったかんじの落ち着いた丁寧な動作で面を取る対戦相手をきつく
睨みつけるも、向こうは気にかける様子さえない。ひたすらおもしろくない気分で
面も手拭も乱暴に脱ぎ捨てさっさと立ち去ろうとすると自分の勝ちにすら感情の
起伏に変化のなかった彼が急にふっと表情を緩ませ、ああ外国の方だったん
ですね、と歩み寄ってアーサーを間近で見つめた。どうりで綺麗な瞳だと思って
ましたと言ったのち言葉が通じるか不安だったのか己の目と緑の目を差して拙い
発音でビューティフルと続けられる。我知らず赤くなる頬をどうにも抑えることが
できなかった。その当人こそ神秘的なほど深い黒をしているのに。それを伝える
度胸が足りない。引退へのいい餞でしたとまぶしい笑みに一瞬だけその黒は
まぶたに姿を隠して、踵を返した胴着の背中は遠くなる。もっと話をしておくべき
だったと気づいたのはそれからしばらく呆然と立ち尽くした後のことだ。防具に
あった名前は本田。向こうは三年生、アーサーはまだ一年坊主と呼ばれていた
春のことだった。

 そこは駅から直線で一キロも続く名前もすっかり全国区の名物商店街だった。
仕事先が近いのだがいつもは忙しさのせいでなかなか足を向ける機会が少なく
どこへ行っても珍しさが先に立つ。昼食を兼ねて目についた惣菜などを行儀悪く
片っ端から食べ歩き店先を冷やかしていると、手押しのベビーカー段差でうまく
動かせず手間取っている御夫人に気がついた。剣道をはじめるきっかけを与え、
その本場への留学を決意させた曾祖母こそ日本の出だが、生まれも育ちも英国
由緒正しき本物の英国紳士を自負するアーサーにこのような困っている御夫人を
無視することはできない。手伝いますよミセスと紳士的な態度を心がけて声を
かけ、中の赤ん坊を驚かせないようそうっとベビーカーを持ち上げ、問題のない
場所で下ろしたところで商売で培った営業スマイルを向けるとその先には想像
通りのミセスではなく古く見知った顔があった。記憶に息づく彼と背格好はよく
似ているとは思ったのだがベビーカーの存在に惑わされたようだ。やや気まずい
空気の中、外国人らしいフランクさで固い雰囲気を壊し、本田先輩ではなく菊、
と名前のほうを呼ぶのは相変わらずだ。アーサーさん、と反対にどの後輩相手
にもさん付けで呼ぶのは謙虚な性格に基づく癖のようなもので、当時からよく
部内でからかわれたものだった。偶然の再会にお互い驚きながらも懐かしさで
胸がいっぱいになる。自然と笑みが浮かび、久しぶりにじっくり話をしたくなった。
「今、時間ありますか?良かったらお茶でも」
 先にその誘いをしたかったのはアーサーのほうだ。だが柄にもなくオタオタして
まだそこまで心の整理が終わる前に、昔から絶えず心の余裕を持つ菊が実質
誘う立場となってしまった。それが少し悔しく、実際時間は空いていて、たとえ
空いていなかったとしても無理にでも作る心積もりであるのにアーサーはわざと
菊の頼みなら仕方がないとあくまで渋々誘われたというスタンスで了承する。
すると菊はくすりと笑い、では参りましょうと近くにコーヒーのおいしい喫茶店が
あるんですよと先を歩き出した。コーヒーはあまり飲まない主義だがやはり菊の
勧めなら仕方がない。ベビーカーの主は泣くでも騒ぐでもなく、おとなしく流れる
景色を見ている。アーサーはその存在が気になってしょうがなかった。尋ねる
きっかけを探しながらアーサーは距離をあけずについていく。そうして徒歩数分で
たどりついたのは商店街の通りから数本外れた細い道沿いにある落ち着いた
店構えの喫茶店だ。このあたりの地理に詳しくないアーサーはもちろん初めて
訪れる。深い色の木製の内装は趣があった。本来は紅茶党であるが勧めに
従ってコーヒーを頼み、そちらの、えーとその小さなミス?ミスター?には何が
いいんだ?とようやく話を振ることに成功するとミスターです、と小さな笑みと
共に菊の答えがある。でもお店のものはまだこの子には早いので、とバックから
りんごジュースらしい飲み物の入った哺乳瓶を取り出し与えると嬉しそうに声を
あげて吸い付いた様子に、ね?と何やら菊まで嬉しそうな視線をよこす。その
何ともいえない愛情に満ちた光景に、出先でまずい紅茶を飲むよりマシだと最近
やっと飲めるようになったばかりのコーヒーがより一層苦く感じられるようだった。
「…あの、その、け、け、結婚したのか」
「いえ、違いますけど」
 心の重圧に耐え切れず、決死の覚悟で胸の中の何かを搾り出すようにおそる
おそる切り出した質問に気が抜けるほどあっさり首を横に振った菊がどれほど
アーサーを安心させたことか、知らぬは菊ばかりだ。いや別に安心なんかして
ないんだからな!と例のごとく張られた虚勢がより顕著な証拠だった。本当か?
本当に結婚してないんだな?と念を入れて繰り返される質問にも呆れもせず
はい、結婚なんてまだまだ、とにこやかに応じていたのがアーサーが落ち着いて
くるに従い次第に吹き出し笑いに変わり、途端にアーサーは己のみっともない
姿に恥じ入って口ごもる。菊は笑ったのを詫びつつ、違うんですと菊は言う。
「お気を悪くさせたらごめんなさい。笑ったのはただ、あなたは変わらないんだな
と思ったら懐かしくて。あなたはいつも一生懸命でしたよね。あのときのあなたも
そうだった」
 あのとき?と首を傾げるアーサーに菊は遠い目をして忘却の土に埋まりつつ
あった思い出を掘り起こしてみせた。菊の完全勝利で終わった最初の出会いの
翌日には早くも再会を果たした。三年の教室すべてを探して回ったのだという
昼休み、アーサーは三連覇がかかった夏の全国大会を諦めて早々に引退した
理由を問い質しにきたのだった。怪我をしているのか?本当に怪我じゃないなら
どうして出ないんだ?としつこく食い下がるアーサーに菊はわけを話さなければ
離してもらえそうになかった。かくして引退の理由が受験のためだと知るや一転、
なら週に一度、一時間、いいや三十分でいいから俺の練習に付き合ってくれ、
お前の代わりに全国は取るから。そう言って拝み倒しともごり押しとも言える
やり方で菊を部に連れ戻したのだった。その頃、菊は身の丈よりも高い目標を
内に掲げ、受験に専念しなければならないと何もかも諦めて切り捨てようと思い
悩んでいた時期で、この一件で誰かに思いを託すという方法もあるのだと重い
枷から解放されたような気がしたのだ。以来、菊はアーサーに感謝している。
勉強のいい息抜きになったし、現に無事目標も達成した。ついでにそんな
無茶な要求を引き受けてしまうぐらいには剣道に未練があったのだと自覚する
ことができた。こんなに剣道が好きだったのかと菊は自身驚いたものだ。そんな
笑顔混じりの思い出話はしかしながらアーサーにとっては聞いていて耳の痛い、
若気の至りでは済まされない無茶無鉄砲無計画無礼無遠慮のオンパレードで
今でも恥ずかしい黒歴史だ。けれど菊にとってそうでないのならまだ良しとしよう
とようやく落ち着きを取り戻してやたら渇く喉を潤すためにまたコーヒーを口に
した。今度は菊の言う通り、確かにおいしいコーヒーなのかもしれないという味に
感じる。所詮味覚なんてあやふやなものだ。
「今でも、剣道を?」
 アーサーがああと頷いて名前を出した自宅近くの道場はこことはかなり離れて
いて、菊はだからずっと会えなかったんですねと苦笑し、私はこの町の道場で
今もよく、と身振りで方角を示した。ふと、それならいっそこの町に越してきても
いいかもしれないとアーサーは思った。仕事場もぐっと近くなる。どうせ賃貸だし、
タイミングのいいことに更新も間近だ。転居を前提にこの町の住み心地を聞いて
みると引越しをしてでも再戦を望んでいると思われたのか、そんなに剣道が好き
なんですねと菊は破顔する。いや剣道は確かに好きだが引っ越しを考えたのは
そうじゃなくて、と言い訳をする間もなく私もです、私もいまだに剣道が好きで、と
緩める菊の表情は腕の中の存在と同じぐらい愛しくて大切で仕方がないとでも
言いたげで、大人の長話に飽きて眠りかけている赤ん坊を優しく撫でながら付け
足した。
「なあ、その子はなんなんだ?」
 赤ん坊に目がいっている今がいい機会だと緊張につばを飲み込みながらの
問いかけに、菊は知人の子なんですあれこれこういう理由で預かることになって
しまってと困ったふうな口振りをしつつも実の子を見るような優しさと温かさを
持った微笑みをロベルトという名の赤ん坊に向けた。自覚はなくともこの分だと
彼の愛してやまない剣道ですらロベルトには敵わないかもしれないとアーサーは
思う。初戦はさしずめ小手で一本といったところか。参ったな、とこれまた随分と
久々のあの日以来の敗北感に打ちのめされて苦いコーヒーに何も混ぜ物もせず
アーサーは残りを一息に飲み干した。
「…実は、今度こっちに越してくることになってるんだ。そしたらまた同じ道場で
竹刀を振るえるな」
 カフェインのおかげで幾分すっきりした脳みそで多少の罪のない嘘を織り交ぜ
ながら竹刀を握る手を真似て菊に振り下ろし、挑戦的に笑う。一方の菊も同じく
両手に見えない竹刀を握って鍔でアーサーの竹刀を受けるような動作をして、
何か合図のような年不相応な遊びに二人して笑いあった。
「もうすっかり鈍ってしまいましたけれど、こんな私でよければ是非立ち合いを」
 菊はそう言うが構えの姿勢になった途端に変貌する菊の両目は最初のあの
ときと変わらず神秘的な深い黒を爛々と光らせ、鋭く射るような視線で相手を
圧倒することだろう。お互い鈍った者同士とはいえそれなりにいい勝負ができる
はずだ。それでもきっと真に自分が勝つことはないだろうとアーサー自身予想が
ついている。そのうちアーサーの携帯が鳴った。そろそろ戻らなくてはならない。
二人はここで別れ、近い未来の再会を約束した。

 一週間後、アーサーは仕事そっちのけで探した賃貸マンションへと引っ越して
きた。3LDKと独身には過ぎた物件だが何せ急な引越しだ。仕方がない。業者に
荷物を運び込んでもらっているあいだ手持ち無沙汰にベランダから外を眺める。
エレベータのない古いマンションの五階というのはネックだがその分家賃も安く
ついでに運動にもなる。広い公園が近いおかげで緑も多く、眺めもいい。これは
これで…と一服しようかと懐に手を入れた瞬間に隣の部屋の窓が開く。濡れた
服やタオルか何かを叩く音や、洗濯バサミのパチンという音、どうやら隣人は
洗濯物を干しているようだ。唐突に室内から菊ー!鍋沸いてるよー!と大きな
声が隣人目掛けて投げかけられる。それに応える今行きますからー!いう少し
慌てたようなた声。もう何年も前から耳に馴染んだその声。つい先日、この町で
聞いたばかりの声。アーサーは心臓を鷲づかみされたように驚き、勢い余って
思わずベランダの仕切り板を乗り越えて隣人を覗き込む。
「菊?!」
「アーサーさん!?」
 こうして思わぬところで予定より早く再会を果たしたアーサーは不法侵入罪で
逮捕される可能性について説教されたのちに隣の夕食に招待され、引越しそば
ならぬ引越しパスタを高校時代からの憧れの菊と、何を考えているのかまるで
読めない陽気な男と、明らかに警戒心を剥きだしにしたムキムキな男と無邪気で
可愛い盛りのロベルトと表面的には穏やかにで夕食を取ることとなるのだった。





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