新学期が始まって、夏休みの間がらんとしていた教室も再び制服姿の生徒たちで活気にあふれるようになった。どの生徒たちも夏休みの間の話題でもちきりである。海にでも行ってきたのか、顔を真っ黒に日焼けさせている生徒も少なくない。
「咲耶、夏休みの間はどうだったの?」
咲耶もクラスメートたちから声をかけられた。
「えっと、お兄様や妹たちと一緒に海や夏祭りに行って、それからお兄様と一緒に旅行に行って…」
咲耶はそう言って、この夏休みに兄や妹たちと一緒に撮った写真を納めたアルバムを見せた。
「たく、咲耶ってブラコンなんだから」
クラスメートたちも半ば呆れたような表情で咲耶を見ている。その後しばらく、咲耶はクラスメートたちと夏休みの話題に花を咲かせた。
学校が終ってから、咲耶は校門を後にした。暦の上ではすでに九月になったとはいえ、まだ西日の照り返しは強く通りの敷石には街路樹が黒々と影を落している。しかしその残暑が厳しい中でも、空を見上げると夏休みのころに比べてより色は深みを増しているように感じる。そしてその高く澄み渡った空にはかすかにすじ雲が浮かんでいる。
咲耶はしばらくそのような景色をじっと眺めながら、夏休みのことを思い出していた。兄と一緒に海辺のホテルに出かけて浜辺で遊んだこと、おろしたての浴衣を着てみんなで夏祭りに行ったこと、そして夏休みも終り近くになってから兄と一緒に旅行に行ったこと、それらがみなついこないだのことのように思い出された。
咲耶はふと、通学路の途中にある小さな公園で足を止めていた。うっそうとした木立からはツクツクボウシの鳴き声がうるさいくらいに聞こえてくる。咲耶がじっと入道雲を見ているうちに、赤く染まった空は少しづつ明るさを失いつつあった。いつしか公園でも電燈がぽつりぽつりとつき始めていた。
ふと自分の頬を涼しい風がなでたとき、咲耶ははっと息をついた。その一陣の涼しい風は、むせかえるような空気を含んだ夏の風とは明らかに違っていたからだった。辺りを見回すと、遊んでいた子どもたちも帰ってしまって、公園には咲耶一人だけがぽつりと残されていた。そのとき咲耶は、ふと胸が締め付けられそうになるのを感じた。兄と一緒に過ごした、楽しかった夏の日が、季節の流れとともに遠くに去ってしまうのではないか…咲耶は急に不安を感じると、暮色の漂い始めた通りを家へと向かった。
咲耶はその不安を打ち消すために、家に戻ると早速兄の携帯に電話をかけた。しかし何度かダイヤルしても電話はつながらない。
咲耶は夏休みに撮った写真を納めたアルバムをもう一度めくってみた。海水浴に夏祭りと、咲耶はもちろん兄も他の妹たちも、だれもが皆はちきれんばかりの笑顔を浮かべている。しかしその笑顔も、咲耶の落ち着かない気持をより増幅させただけだった。
──私はお兄様と一緒にいて幸せなはずなのに、この気持は何なの? お兄様が私の前からいなくなってしまうかのような…。
咲耶は庭に出て、とっぷりと暮れた夕空に浮かぶ三日月を見上げた。庭ではすでに秋の虫が鳴出していた。
新学期が始まってしばらくの間は夏休みの浮ついた雰囲気が残っていた教室も、授業が始まるといつしか日常の忙しさが戻ってくる。咲耶も学校の勉強や活動に追われるようになったが、その中でも一緒に下校しようと兄に電話をかけたり、メールを送ったりしても、「このところ忙しくてごめん」と返事が返ってくるばかりだった。咲耶はやはり、自分と兄が離れてしまうのではないかと胸騒ぎを感じずにはいられなかった。
新学期が始まってから一週間ばかりが過ぎた、ある日の放課後。咲耶は思いきって兄の通っている学校を訪ねた。咲耶が校門のところに来ると、男子生徒たちの注目の的になってちょっとした人だかりができた。しかし咲耶が兄の所在をたずねても、兄のクラスメートが「あいつは学園祭の実行委員で、ここのところ毎日下校時間ぎりぎりまで学校に残ってるからな。ちょっとここで待っててよ」と答えるのみだった。
咲耶はしばらく校庭の片隅にたたずんでいた。校庭のグラウンドは、強い西日を浴びてほこりっぽい感じがした。その中では、部活に汗を流す運動部員たちのかけ声ばかりが聞こえてくる。
そしてしばらく待っているうちに、生徒たちもぽつりぽつりと下校して校舎もがらんとした静寂に包まれるようになった。咲耶はそこで、ふと心のゆらぎを感じた。咲耶は兄のいる教室のところに行くと、そばにいた生徒に「用事を思い出したから先に帰る」と言づてを頼むと、兄の学校を後にした。
咲耶は辺りに目を向けることもなく、ただ買い物客でにぎわう夕方の通りを小走りで駆け抜けた。
──どうしてなの? なぜこんなに不安な気持になるの?
自宅に戻ると、咲耶は自分の部屋のベッドに突っ伏したまま涙ぐんでいた。
──咲耶は小さなころ、教会で結婚式をあげるカップルの姿を見た。純白のウエディングドレスに身を包み、ブーケを手にして沿道に集まった人々の祝福を受けながら新郎と一緒にヴァージンロードをおごそかに歩む花嫁の姿を見て、咲耶もいつしか自分もそのようになるということを無邪気に信じて疑わなかった。しかしその隣にいるはずだった兄との間には越えられない壁がある…咲耶も年齢を重ねるにつれていつしかそのことを認識するようになった。
メールチェックをすると、兄からのメールが来ていた。
「どうしたんだい? 咲耶。せっかく学校まで来てくれたのに、途中でいきなり帰っちゃって。ここのところ学園祭の準備で忙しくて咲耶と一緒に帰れないのは本当にすまないと思っている。だから落ち着いたら一緒にどこか遊びに行こう。学園祭にもぜひ来てくれ」
しかし咲耶にとって、このような兄の優しさはより自分の心を切なくさせるばかりだった。咲耶は少し考えた末、あるあて先にメールを送った。
週末の繁華街は、おしゃれに装った買い物客たちでごった返していてより華やかな感じがする。咲耶は、その片隅にあるしゃれた喫茶店の前で待ち合わせをしていた。今日の咲耶の装いは、襟口にフリルをあしらったノースリーブのブラウスにミニスカート、足にはサンダル。
やがて人込みの中から、黒っぽいドレスをまとった少女が現れた。千影だった。汗ばむほどの陽光が明るく照らす残暑の街の中でも、彼女の辺りには何か周囲と違ったムードが漂っているように見えた。
「来てくれてありがとう」
「珍しいね…咲耶くんが私と会って二人で話がしたいなんて」
咲耶と千影は、連れ立って喫茶店に入り、テーブルに向き合って腰を下ろした。咲耶はフルーツジュース、千影はブラックコーヒーをそれぞれ注文した。
「咲耶くん…なんかいつもの咲耶くんらしくないね」
千影はテーブルの上で指を組んで、昨夜の顔をじっと見つめている。
「千影ちゃん…自分でもなぜだかわからないけど、こういうこと話せるのって千影ちゃんしかいないような気がして」
「どういう悩みなんだい?」
そうしているうちに、二人の注文したものが運ばれてきた。咲耶の注文したジュースのグラスには、細かな水滴がいくつも浮かんでいる。
「千影ちゃん…私たち、夏休みの間はみんなで海やお祭りに行ったよね。あのときはあんなに楽しかったのに、今はなぜか不安なの。たしかに今はお兄様やみんなと一緒にいられて幸せだけど、その幸せがもしかしたら壊れてしまうんじゃないかって…」
千影は黙ったまま、白いコーヒーカップに入ったコーヒーをスプーンでかき混ぜている。角砂糖が黒いコーヒーの中に溶けていくのを、咲耶はじっと眺めていた。
「なるほどね…咲耶くんの言いたいこともわかるよ」
千影がコーヒーカップに口をつけた後、落ち着いた顔で言うのを聞いて、咲耶は意表をつかれたような感じがした。
「咲耶くん…さっき兄くんやみんなと一緒にいられて幸せだと言ったよね。ならばなぜ、咲耶くんが兄くんや私と一緒にいるか…考えたことあるかい?」
そこまで言われて、咲耶ははっと息をついた。
「私も小さなときからずっと考えてたんだ。この世界には何億人もの人がいるのに、なぜ私と兄くんがこうして兄妹として一緒にいるのかなって」
「で、千影ちゃんはどう思うの」
咲耶はいつしか身を乗り出していた。しかし千影は落ち着き払ったままだった。
「…気がついたんだ。こうして私がここにいること、兄くんや咲耶くんとも一緒にいること…これはやはり運命だってね」
「そんな…じゃあ私とお兄様が一緒になれないとしても、それは運命だと言うの?」
咲耶は思わず身を震わせ、声を荒げていた。しかし千影は落ち着き払ったままだった。
「…そういう意味じゃないんだ。咲耶くんは兄くんと自分が広い宇宙の中でこうして一緒に生れてきて、同じ時の中を生きている、それだけで十分すごいことだと思わないかい?」
そう言われて、咲耶ははっと息をついた。咲耶の脳裏にいろいろな思い出が流れては消えた。ひな祭りで家にひな人形を飾ったとき、自分と兄の姿をひな人形に重ねてみたこと、七夕で浴衣を着て、兄と一緒になれますようにという願いを短冊に書いて笹の葉に飾ったこと、キャンドルを灯して、いつまでもこの日を兄と一緒に祝えるようにと祈ったクリスマス…。それら全てが、咲耶の心の中で輝きを放っているかのように思えた。咲耶はしばらく、強い日ざしの照り返す街路を喫茶店の大きな窓ガラス越しにじっと見つめていた。
喫茶店を後にすると、咲耶と千影は近くの駅から電車に乗った。二人は無言のまま、窓からもれる西日を浴びて外を流れていく景色をじっと眺めていた。やがて車窓に海が見え隠れするようになると、二人は小さな駅で電車を降りた。この駅は、一月ばかり前に兄や他の妹たちと一緒に海水浴に行くために降りた駅だった。
駅から海岸までの間の通りは土産物屋が軒を連ねているが、ほんの一月前には多くの人でにぎわっていた通りも今は人気も少なく、ただ敷石の上に長く伸びた影が黒々と伸びているのみである。通りのわきにある庭の植木からは、どこからともなく風鈴の音が聞こえてくる。咲耶は青い空を横切って、二匹の赤とんぼがつがいになって飛ぶのをじっと眺めていた。
やがて二人は海岸に着いた。海辺の砂と潮の香り、そして海から吹いてくるそよ風が二人を包んだ。
咲耶は波打ち際をそっと歩きながら、一月前のことを思い出していた。太陽がじりじりと辺り一面を照らし、裸足で白い砂浜を踏みしめるとちりちりするような熱気が足の裏一面にまで伝わってきそうな真夏の一日。妹たちの中には大はしゃぎで海に飛込んで泳いだり水遊びをしたりする者もいれば、浜辺でじっと佇んでいる者もいた。
咲耶もそのときはこの日のために選んだ最新流行の水着を着てその中にいた。咲耶が兄の手を引いて兄を海の中に誘おうとすると、兄は困惑したような表情を浮かべていた。そのような兄の姿を見て、咲耶もまわりで見ていた他の妹たちもみんなで笑顔を浮かべていた。そしてそれが一段落すると、皆でリゾートホテルのテーブルを囲んで、にぎやかな食事のひとときを楽しんだ。そのときはだれもが信じて疑わなかった。──このすばらしい日がいつまでも続くということを。
しかしそのときは多くの海水浴客たちでにぎわっていた海岸も、今はぽつりぽつりと人がいるだけである。多くの客を集めていた海の家も、ほとんど片づけが終って今はがらんとした空家にすぎない。
咲耶はただ、じっと立ったまま潮騒の音を聞いていた。ときおり少し大きな波が寄せると、より大きな波の音がしてしぶきが辺りに飛び散った。九月になってから、海の青さはより深みを増したような気がする。波の頭が、初秋の澄んだ光を浴びてキラキラと輝くのを咲耶はじっと眺めていた。そして水平線の彼方では、名残りの入道雲が青い空の中でもくもくとわきたっていた。
咲耶がふと我に帰ると、傍らに千影が並んで立っていた。
「咲耶くん…、海って不思議だよね。こうして私たちがうまれる何万年も前から、そしてこれからもずっと、こうしてずっと何もなかったかのように、波が寄せては返す、これをずっと繰返しているのだから」
咲耶は海を見ながらじっと考えていた。季節がめぐっても海の色だけはいつまでも変らないのに、自分自身も、そして兄との関係も変っていく…。そのことに咲耶は不安を感じていた。
千影はしばらく黙ったままだった。そして千影は腰を下ろして足元の白い砂を手のひらですくうと、それを指の合間からさらりと流してみせた。
「この細かな砂のひと粒だって、地球をかたちづくっているひとかけらの破片にすぎないよね…。この風や波にも押し流されてしまう、かすかな破片…でもそれがなければ、今私も咲耶くんも、今ここにはいないだろうね…」
その千影の言葉を聞いて、咲耶ははっと息をついた。
──私はずっとお兄様と同じ時の中を歩んできた。小さいことからいつも優しくてかっこよくて、私や他の妹のことを暖かく包んでくれたお兄様。私とお兄様が兄妹として生れたこと、そして一緒に生きてきたこと、一緒につくってきた思い出…これらは決して消せはしない。そしてこれこそが私の誇りそのもの…それがある限り、たとえ何があっても私は私として前に進むことができる。たとえお兄様が私の前から離れていっても、私は絶対に負けたりはしない。
そのとき咲耶は、心の奥底でもつれていた気持がときほぐされていくのを感じた。咲耶は顔を上げて、海からの潮風で少し乱れた髪を直すと水平線の彼方を見つめた。その両目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
咲耶は小指で涙をはらうと、千影の方を向き直した。その顔からは、先ほどまでの不安げな表情は消えていた。
「ありがとう、千影ちゃん。千影ちゃんがいなかったら、こうして吹っ切れることはできなかったから…」
「咲耶くん…そろそろ帰ろうか。もう夕方だし」
砂浜に腰を下ろしていた千影が腰を上げたとき、咲耶は千影に声をかけた。
「千影ちゃん、なんか今ちょっと笑顔を浮かべてなかった?」
「何言ってるんだい、咲耶くん…突然に」
千影は少し戸惑っている。
「千影ちゃんもそうするとけっこうかわいいのに」
「咲耶くん、わけのわからないことばかり言って…」
そして昨夜と千影は、黄昏れかけた海岸を後にした。いつしか空は明るさを失って茜色に染まりかけ、灯台の光が明るさを増していった。そして辺りには涼しい風が吹きはじめていた。
あとがき
小生のシスプリ小説第2弾です。この話は設定としてはゲーム版シスプリ2の後日談にあたります(細かい設定には差異があるでしょうが)が、咲耶のもつ「強さ」、これを念頭において書いてみました。咲耶はブラコン(爆)とよく言われますが、咲耶は自分と兄との間には「血縁」という越えられない壁があることを内心ではよく認識していると思うのですね。咲耶のもつ一面積極的なところはその裏返しではないでしょうか。しかしこのあたりのことはシスプリの根本的なテーマであるだけに、難しかったのは事実です。
しかし千影というキャラは小説にするのは難しいですね。原作とはかなりイメージが変ってしまいましたが、このへんのことはご了承あれ。
タイトルはユーミンの曲からとりました。彼女が結婚して「荒井由実」から「松任谷由実」名義になってからはじめて出したアルバム『紅雀(べにすずめ)』に収録されている曲です。気がついてみると、ユーミンの曲には「夏の終り」をテーマにしたものがけっこうありますね。曲のイメージとしては、トワ・エ・モアの『誰もいない海』(古い歌だけど、知っている人いるかな?)あたりも合っているかもしれません。
2004年9月29日
Annabel Lee