大長編ドラえもんの世界

 

 2006年3月、1年のブランクをおいて、ドラえもんの劇場用長編「のび太の恐竜2006」が封切られた。ドラえもん初の劇場用長編「のび太の恐竜」が封切られたのが1980年だから、ドラえもんの映画は26年ぶりにスタッフを一新して新たな歴史を刻み始めることになったわけである。26年という歳月は、「のび太の恐竜」を幼いころに見た子どもがすっかり大人になり、その子どもの世代がまた「のび太の恐竜2006」を見ていることになるわけである。この事実を見ても、ドラえもんの映画がいかに息の長い作品かということがわかるだろう。
 2005年はアニメの新体制への移行のために1年間休んだとはいえ、劇場版ドラえもんが四半世紀にわたって毎年春休みに封切られる一大人気シリーズへと成長したのは、やはりこの大長編ドラえもんシリーズがアニメ映画として優秀な作品であったからにほかならない。この長編ドラが人気シリーズへと成長したのはなぜか、この長編にはどのようなテーマが込められているのか、その秘密をこれから探っていきたい。

「のび太の恐竜」の誕生

1979年にテレビ朝日で「ドラえもん」の放映が開始されたことによって、ドラえもんのブームは一気に最高潮となった。折しも「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」などのアニメ映画が評価を得ていた中で、当然ドラえもんにも映画化の話が持ち上がったが、10分枠の一話完結ものとして放映されていたドラえもんを映画の長い尺の中で放映するにあたっては、これまでになかった趣向を取り入れることが必要だった。
 ここで藤子・F・不二雄先生(以下「F先生」)がテーマに選んだのは、てんとう虫コミックス第10巻に収録されていた「のび太の恐竜」である。これは当時シンエイ動画のプロデューサーだった楠部三吉郎氏の「先生、僕は『のび太の恐竜』の続きが見たいのです」というリクエストがあったからともいわれるが、元来恐竜が好きだったF先生は、この原作に白亜紀の冒険や恐竜ハンターとの対決といった後日譚を付け加えることによって、ドラえもんやのび太たちが日常の枠を超えて、大きなスクリーンで生き生きと活動できるような舞台を提供したのである。
 F先生ご自身がこの10年後、「キネマ旬報」90年2/3日号でのインタビューで当時のことをこう語っている。
「1980年から長編『ドラえもん』ということでシリーズが始まったのですが、最初はシリーズにするつもりは全然なかった。『のび太の恐竜』、あれ一本きりのはずだったんだけど、意外と好評で。まあ、僕としても楽しいんです。普段の読み切りだと短いと7ページというのもあるほどですが、自由に長い原作を描けるということがありますしね。どうせ長いものをやるんだったら、いつもの日常の舞台だったら意味はない、毎回ちょっと大仕掛けな舞台を最初に設定して、そこでの活躍にしようということになったんです。なるべく普段やれないような大きな舞台でのびのびと動かしてやりたいな、ということで」
 この趣向は大成功だった。スピルバーグ監督が来日中にこの「のび太の恐竜」を見て感動したという噂の真偽はともかく、日常生活の枠を離れて生き生きと活動し、スケールの大きな冒険を繰り広げるドラえもんたち、恐竜ハンターとの対決やそこで見せるドラたちの友情、さらに恐竜たちが活躍する白亜紀の世界の描写は大きな評判を呼んだ。
 さらにこの映画ドラシリーズの評価を高めたのは、武田鉄矢氏が作詞を手がけられた主題歌の存在である。武田氏は娘もドラえもんの大ファンという縁で、F先生が亡くなるまで、「のび太の魔界大冒険」を除く16作の主題歌の作詞を担当された。これらの多くは情感のある歌がそろっているが、この「恐竜」の主題歌である「ポケットの中に」は、ドラえもんが繰り広げる夢あふれる冒険の世界という映画のコンセプトを、親しみのある歌詞で巧みに表現している。武田氏が手がけられた主題歌の中で特に「名曲」という評価が高いのは、「のび太の宇宙小戦争」の主題歌である「少年期」だが、この「ポケットの中に」も後の映画でもたびたび使われており、ドラ映画を語る上では忘れてはならない存在だろう。

黄金時代の幕開け

 「恐竜」のヒットに続いて、翌1981年には完全オリジナルとなる新作「のび太の宇宙開拓史」が封切られる。初のオリジナル脚本となった同作は、西部劇やスーパーマンといったF先生が好きだった作品のコンセプトをふんだんに取り入れた意欲作となったが、小生はドラの大長編の中で個人的に一番好きな話を上げろと言われたらこの「宇宙開拓史」をあげるだろう。二つの月が上り、不思議な動物たちが暮らすコーヤコーヤ星の情景だけでなく、ラストのコーヤコーヤ星の人たちとの別れの場面も子どものころに見て以来、しっかりと印象に残っている。コーヤコーヤ星の四季の移り変わりや人々の生活をしっかり描いている作品の構成力にも、あらためて驚かされる。
 しかしここで、この作品のテーマをもう一度しっかり考え直してみたい。これは単に「宇宙開拓史」だけでなく、ドラの大長篇すべてに共通するテーマだからである。
 コーヤコーヤ星はのび太のような子どもにとってはまさしくユートピアのように見える。そこには子どもが自由に遊ぶことのできる広い土地がふんだんにあり、しかも地球とは時間のたち方が違うので、いくら遊んでも帰りが遅れて叱られることもない。さらに日ごろは先生やママに叱られ、ジャイアンやスネ夫にいじめられるのび太も、ここではスーパーマンとなって悪人たちをやっつけ、人々の信頼を得ることができる。
 しかしこれがあくまでのび太たちの生きる世界と異なる「ユートピア」である以上、のび太がいつまでもそこにとどまり続けることは許されなかった。映画ではそのような風味は若干薄められていたが、原作のコミックでは、のび太がジャイアンたちと遊ばなくなり、コーヤコーヤ星に行くことはしょせんは現実逃避にすぎないということを暗示するようなコマがいくつかある。のび太はやがてコーヤコーヤ星を去り、そこでの冒険を通して得られた勇気と自信を武器にして、現実へと立ち向かっていかなければならない。これこそが「大人になる」ということなのだ。このテーマは、短篇でも「タンポポ空を行く」や「森は生きている」あたりに共通しているが、「ドラえもん」全体に流れているテーマかもしれない。これを見ただけでも、「のび太が安易にドラえもんに依存し、ドラえもんものび太に安易に道具を与えてのび太を甘やかしている」という一部のドラえもん批判がいかに的外れかわかるだろう。
 しかしおそらく、F先生はコーヤコーヤ星で遊ぶのび太の姿に、子どものころ遊んだときのことを重ね合わせていたのではないだろうか。子どものころは目の前に当たり前に存在し、いつまでも続くと思われていた遊びの中の世界も、大人になるとどこかに消えうせてしまった。しかしそれだからこそ、大人になった今の自分の視点で見ると、コーヤコーヤ星の情景、そしてそこでのコーヤコーヤ星の人たちとの友情はより美しく感じられる。大長編ドラが子どもだけでなく大人にも支持されている理由はそこにもあるのだろう。
 続いて翌1982年の「のび太の大魔境」。「冒険」という言葉の響きに憧れて、なんともなしにアフリカの奥地に出かけたドラ一行だったが、最初のころはあたかも裏山にでも出かけるような感じでチームワークもばらばらで、ほんとにこれで危険なジャングルの冒険なんかできるのだろうかと危なっかしい気持ちにさせられる。しかしこの冒険、そして犬の王国でのダブランダーとの対決を通して、ドラの一行が団結を深めていき、そして人間的にも成長していく様子がよく描かれている。なかでもこの映画の注目どころは、はじめはいつも通りのわがままで横暴だったジャイアンが、ペコが絶体絶命のピンチに陥ったときに男気を見せて、「いつもは乱暴者のジャイアンが映画ではいい奴になる」という、映画ならではの持ち味を十分発揮させたところだろう。
 この映画の冒頭では「地球にはもう探検できるところなどない」とスネ夫が言うくだりがあるが、もちろんアフリカの奥地にこのような犬の王国があるわけではない。しかしこの話でF先生が伝えたかったことは、冒険にあこがれる気持ちは失ってほしくない、そしてその「冒険」の舞台はどこにでもあるものだということだろうか。
 そのようにしてストーリーの基本が確立した後も、毎年映画版ドラえもんは活躍の舞台を変えて公開され、その世界を広げていった。このころをドラ映画の黄金時代と見るのが多くのドラファンの認識になっているが、これらの作品に込められたテーマはただ冒険だけではない。以下、大長編の内容を駆け足でたどっていきたい。

のび太の海底鬼岩城(1983)

 この作品は夢いっぱいの海底キャンプからはじまり、幽霊船や大王イカ、海底人、バミューダトライアングルといったさまざまな謎を織り込みながらラストのポセイドンとの対決へと一気にストーリーを盛り上げる、限られた時間の中にさまざまな要素を盛り込む構成の巧みさやスケールの大きさにまずうならされる。人間にとっては光も届かない、水圧のために近づくことすらままならない世界である深海も、テキオー灯の力で謎と神秘に満ちた冒険の世界に一変するのである。
 しかしこの映画が封切られた当時はまだ米ソの冷戦のさなかであり、どちらか一方が核ミサイルを発射したら人類は滅亡するといったことが語られていたことも念頭においておくべきだろう。疑心暗鬼に陥っていた海底人たちの姿や、映画の中で語られていた核戦争の危機は、決して絵空事とは言えなかったのである。
 あとこの映画では、自らを犠牲にして皆を救ったバギーちゃんのことがよく話題になる。最初は性格の悪かったバギーと心を通い合わせていくしずかの優しさも、決して忘れてはならないポイントであろう。このようなドラえもんたちの真心こそが、海底人たちの心をも動かしたのである。

のび太の魔界大冒険(1984)

 「魔法」を題材にしたファンタジーはなかなか描くのが難しいものだ。人間が「魔法」の存在を夢想するのは、現実には起こりえないようなことが実現してほしいと思うからだが、実際に魔法の力でなんでもできるとなると、しっかり話の構成や世界観を考えないと世界観そのものが破綻してしまう。ただ呪文を唱えるだけで何でもやりたいことができてスーパーヒーローになれるようでは、物語にならないだろう。

 そういうわけで、魔法の世界に憧れてもしもボックスで魔法の世界を作りだしたのび太だったが、いいことばかりはないもので、のび太はここでも落ちこぼれだった。たしかにのび太が魔法世界をつくりだしたのは現実逃避だったかもしれないが、そのように逃避した先には問題の解決はなかったわけである。しかしこのようにして現実から逃避していたのび太も、美夜子との出会い、そして魔界の冒険や大魔王との対決を通して勇気を持って敵から逃げずにたちむかうことを知り、人間として成長するようになる。美夜子は、大長編のオリジナルキャラの中でも人気のあるキャラの中の一人である。
 絶体絶命の窮地に陥ったドラたちをいきなりドラミが助けに来るあたりは唐突な感じがしないでもないが、むしろこの映画はのび太の日常世界に突然降りかかってきたナゾの石像、土製の輪での一休み、飾り物の帽子が意外なところで役に立つところなど、次から次へと繰り出されるF先生の豊かな発想や奇想天外なストーリー展開をまずは楽しむべきであろう。個人的には魔界星のおどろおどろしい雰囲気がなんとなく好きである(笑)。
 あとこの映画の主題歌は、上映当時は小泉今日子が歌う「風のマジカル」だったが、「期間限定のタイアップ曲」という理由で、現在見られるビデオやDVDでは、「大魔境」の主題歌である「だからみんなで」と差し替えられている。しかしこの「風のマジカル」、小生はどんな歌だったのか覚えていないから、一度聴いてみたいと思っているのだが。

のび太の宇宙小戦争(リトル・スター・ウォーズ)(1985)

 この作品の冒頭は、やはりスネ夫たちが映画を撮ろうとしたり、スモールライトでパピたちと遊んだりする情景が描かれる。しかしこのような夢いっぱいの遊びも、独裁者との戦いというシビアな現実へと発展していく。ギルモア将軍が恐怖政治を敷くピリカ星の情景を見ると、ピリカ星での出来事は遠い星の出来事ではないということ、これは単に子どもだけを対象にして描かれたものではないということがわかるだろう。
 この映画ではともすれば長編の中では臆病者に見られがちだったスネ夫がしずかと一緒にラジコン戦車で敵に挑むところがよく名場面あげられるが、独裁者に立ち向かうドラえもんたちの友情と勇気、これこそがこの映画の主題ではないだろうか。一部では「スモールライトの時間が切れて形勢逆転」という展開が安易だという向きもあるようだが、それもこのテーマの前では大したことではないかもしれない。しかしその「勇気」を向ける相手は決して独裁者だけではあるまい。これでこそ、この映画の主題歌である「少年期」の歌詞も意味を持つように感じる。

のび太と鉄人兵団(1986)

 大長編の中でも特に「名作」という評価の高い一篇。最後のリルルが自らを犠牲にするシーンは、やはり涙ぐんでしまうことは言うまでもない。
 この作品には冒頭近くのドラたちがザンダクロスで遊ぶシーンや、ジャイアンたちが鉄人兵団との戦闘を控えた中でも鏡面世界の中で自由に遊ぶところなど、大長編全体に共通する子どもたちの夢も自由自在に織り込まれてはいる。しかしその一方で、本作は従来作と比べても、「戦争」というテーマにより正面から挑んでいる。この作品についてF先生はこのようにコメントしている。
「長編ドラえもんも話を重ねていくうちに、たまにはのび太の町そのものを背景にした大事件を描いてみたいなと思ったのです。恐るべき強敵が襲ってきて、東京を荒らしまわるような。東京どころか日本中を、できれば世界中が破壊されつくすような、そんな大事件を。しかも、のび太の御近所に迷惑をかけないで…」
 鉄人兵団に破壊された東京の街には、戦中派としてのF先生の記憶も込められているのだろう。
 しかし重要なのは、この最後の「のび太の御近所に迷惑をかけないで…」というくだりである。この鉄人兵団との激闘も鏡面世界の中で繰り広げられ、外の世界に影響を及ぼすことはない。これについては、F先生はドラえもんは「日常世界に乱入した非日常性」の面白さを狙って書かれた作品であり、「どこにでもありそうな町の、ありふれた家族」という作品環境の日常性を壊すわけにはいかなかったとコメントしている。鏡面世界に鉄人兵団を誘い込んで戦うという奇想天外なアイデアはこのようにして生れたわけである。

 あとこの作品を見て考えさせられるのは、なぜリルルは最後で自らを犠牲にしてあのような行動をとったのか、そしてそれにはどのような意味があるのかという点である。地球侵略のための兵器としてつくられたリルルは、自らを犠牲にすることによって、「戦争」という罪を贖った。こうしてみると、F先生の関心はもはや宗教的なものにまでおよんでいたのではいう気がする。今も紛争やテロ、犯罪などのニュースが絶える日はないが、天使となったリルルはこのような世界をどのように眺めるだろうか。

のび太と竜の騎士(1987)

 恐竜が今でも生きていたら、ぜひ生きて動いている恐竜を生で見てみたい…とは恐竜ファンなら誰でも考えること。しかしF先生の想像力は、ついにこれを現実にしてしまった。恐竜が6500万年前に絶滅した理由についてはさまざまな説が唱えられていたが、大きな隕石が地球に衝突したという現在有力視されている説は、当時最新鋭の説であった。このような説をタイムパラドックスも織り交ぜながら巧みにストーリーの中に取り入れているところにも、F先生の恐竜に対する関心の深さがうかがえる。

 しかし「聖域」をつくって恐竜を現代まで生存させるというストーリーの緻密さや壮大さ、相互理解の大切さを説くテーマとは裏腹な、「風雲!ドラえもん城」という当時のテレビの人気番組のパロディ、そしてのび太の0点の答案が話の発端となり、しかも話がそれで終わるというバカバカしさも見逃せない。もしのび太が0点の答案を地底に隠そうとしなければ、恐竜人の地底王国は存在しなかったのだろうか?

深化する大長編ワールド

 これまで毎年、春休みの劇場公開にあわせて大長編を描いてきたF先生も、1986年からは病気で体調を崩しがちになった。1988年の「のび太のパラレル西遊記」は、F先生は「西遊記」を題材とするという原案を示しただけで、制作にはタッチしていない。翌89年の「のび太の日本誕生」でF先生は復活をアピールしたものの、91年の「のび太のドラビアンナイト」の完結直後に再び病に倒れ、92年の「のび太と雲の王国」はコロコロコミックでの連載はラスト2回が描かれず、藤子プロによる絵物語という形式を取った。(後に1994年、雑誌「ドラえもんクラブ」に完結篇が描かれた。)
 1991年には学年誌での短篇ドラの連載も事実上終了し、以来F先生はほぼ大長編に絞ってドラえもんを描くことになる。このような90年代の作品は、80年代の作品に比べて必ずしもファンの評価は高くないが、それだけに「ドラえもん」という作品の根源に迫るようなテーマが描かれている。何よりも1996年、F先生が亡くなられる間際まで「のび太のねじ巻き都市冒険記」を執筆していたという事実が、先生の大長編ドラえもんに対するなみならぬ熱意を示しているといえるだろう。以下、F先生がご自身に残された時間は長くないことを認識していた中で、大長編ドラえもんを通して追求しようとしたテーマは何かを探っていきたい。

のび太の日本誕生(1989)

 大長編も10作目という節目にあたり、さらにしばらく病気で連載を休んでいたF先生の復活をアピールする意味も込めてつくられた意欲作。のび太たちの原始時代への家出という発端に「日本人はどこから来たのか」という考古学への関心、さらにはギガゾンビとの対決などのさまざまな内容を織り込むだけでなく、「ドラゾンビ」や「ラーメンのつゆは最後まで飲むべきだった」というギャグシーンにも事欠かない。
 この作品のモデルとなったのは、「石器時代のホテル」(てんとう虫コミックス第38巻)である。この話は日常生活に嫌気が差して、原始人の自由な暮らしに憧れたのび太たちがタイムマシンで過去の世界に行き、原始時代を模したホテルに泊まり、未来の道具の力で原始人の生活を真似て楽しむという点までは同じである。しかしこの「石器時代のホテル」では、火山の噴火によってドラたちはホテルに帰れなくなり、原始人の生活そのもののサバイバルを余儀なくされる。そしてサーベルタイガーに襲われ絶体絶命のピンチに襲われたところをタイムパトロールに救われ、のび太は「今の自分たちの環境に不満をこぼすばかりではなく、今住んでいるこの時代を少しでも良くするために頑張っていかなければならない」と認識するというオチがついてくる。
 もちろんF先生も、「日本誕生」を書いているときにもこのテーマを忘れてはいなかったに違いない。しかし映画でこのテーマをあまり前面に出すと話が説教くさくなるので、これをぺガたちとの別れという形で暗示することにしたのではないだろうか。ラストののび太たちの寂しそうな表情から、その心中はどのようなものだったのか、この原始時代の体験を通して何を学んだか、それについては作者自身からいちいち説明するよりも、それを見る我々で考えるのが自然だろう。

のび太とアニマル惑星(プラネット)(1990)

 この映画が封切られた前後から、「地球環境」はマスコミなどで大きく取り上げられるようになっていた。本作もこのテーマを正面から取り上げた、メッセージ性の強い作品となっている。環境と調和した文明をつくりだしたアニマル惑星と、環境汚染で荒廃したニムゲの地獄星を対照させることによって、環境問題を子どもにもわかりやすく説明するのはさすがである。ママが裏山にゴルフ場を建設するという計画に反対するという点も、現実的なシビアさを感じさせる。以降環境問題は、映画ドラの重要なテーマとなっていく。
 この作品の下敷きとなったのは、F先生が幼少のころから親しんでこられた「動物マンガ」だという。この動物たちが主人公のメルヘンチックな世界と、SF的なストーリー設定や地獄星に潜入するときのスリリングさをうまく調和させる力量はさすがである。ジャイアンがゴリラから息子と間違えられるシーンや、「ツキの月」を飲んでののび太の活躍など、見せ場にも事欠かない。
 テーマ曲の「天までとどけ」では、人間は弱さや迷いも抱えながらも、その心の中には、花や星に感動する心があることが歌われている。
そこには、人間が「心」を大切にしていけば、環境問題もきっと乗り越えられるという、人間そのものへの希望が込められていないだろうか。

のび太のドラビアンナイト(1991)

 F先生は子どものころに「アラビアンナイト」の物語を愛読しており、その中で繰り広げられる奇想天外な世界をマンガにして描くことは以前からの夢だったという。本作のテーマはその「夢」そのものである。
 本作の冒頭では、「絵本入りこみぐつ」で絵本の世界の中に入って遊ぶのび太たちの姿が描かれるが、F先生はこのくだりを描くときに、さまざまな物語の世界に夢を遊ばせた子どものころのことを思い出していたのだろうか。その絵本をママに燃やされてしまうところは、大人は子どものころの夢を忘れてしまうということを暗示しているのかもしれない。
 「なぜ絵本の中で迷子になったはずのしずかちゃんが現実の歴史の中にいるのか?」とか、「絵本を燃やした灰にタイムふろしきをかければいいのでは」というツッコミはよくされるところであるが、それは歴史にも深い関心をいだいていたF先生のことでもあり、その歴史に対する関心こそが、単なるファンタジーにとどまらない話の厚みをもたらしているのだから大目に見ることにしよう。
 そしてアラビアにタイムマシンで向ったドラえもんたちは、悪人にポケットを奪われ(ポケットが奪われひみつ道具が使えなくなるという展開は、特にF先生歿後のドラ映画でしばしば出てくるが、これが最初だろう)砂漠の中をさまようという絶体絶命のピンチに陥るが、シンドバッドの登場でストーリーは急展開を見せる。しかしそのシンドバッドは、若いころの冒険心を忘れ、タイムトラベラーから得た道具で砂漠の中の黄金宮での安逸な暮らしにひたるようになっていた。この展開にはいささか唐突な感じがしないでもないが、このシンドバッドはあるいは体力の衰えを実感しつつあったF先生そのものの姿だったかもしれない。もしそうだとしたら、この作品はF先生自身の、自分自身を励ますためのメッセージと受け取ることもできるのではないか。

のび太と雲の王国(1992)

 「アニマル惑星」の項でも触れたように、ドラえもんでも環境保護を取り上げた作品は多々ある。短篇でも初期の「オオカミ一家」をはじめ、「モアよドードーよ、永遠に」「さらばキー坊」「ドンジャラ村のホイ」などがあるが、この「雲の王国」はこういったテーマの集大成ともいうべき作品である。

雲の上には天国がないのだろうかという夢想を抱いたのび太に、ドラえもんが「ならば天国を自分でつくろう」ともちかけ、「いつでも好きなときに好きなことをしてもいい」夢の王国を作るという、科学の知識と夢をミックスさせた導入部はさすがである。この雲の王国を見ていると、大人になった自分でも「こんな国がつくれたらなあ、そしてそこで自由に遊べたらなあ」と思うだろう。
 そこに天上人が現れてストーリーが大冒険に発展していくというストーリーの展開は大長編ドラの王道だが、ここではドラえもんが雷をうけて故障するという今までになかったような趣向がなされている。一部には、「環境問題を押し出しすぎて説教くさい」という評価もあるが、それでも絶滅した動物たちが多く登場したり、キー坊やドンジャラ村の小人たちが登場したりするあたりは、まさしくF先生の多岐に渡る関心が凝縮されている感じがして興味深い。一旦天上人と対立したドラえもんたちが、お互いに理解することの大切さを知るというストーリー展開は、「海底鬼岩城」「竜の騎士」などにも共通する、大長編ドラ全体を流れるテーマといえるだろう。
 のび太はノア計画で、地上が大洪水で押し流される情景を見て一瞬パニックに陥るが、それでもドラえもんの存在によって「未来は変えられる」ということを確信する。その「未来は変えられる」ということこそが、F先生がこの作品で伝えたかったメッセージではないだろうか。

結局のところ、ドラえもんたちがつくった雲の王国は消滅してしまった。しかしそのような夢が消えてしまっても、「でも……、もう一度とりもどそうよ。天国の夢をぼくたちの手で!!」という最後のセリフにこそ、「宇宙開拓史」のところでも触れた大長編ドラえもんのテーマが凝縮されていると言えよう。テーマ曲の「雲がゆくのは…」も、雲に託して遠い国への想いを描いた名曲である。

のび太とブリキの迷宮(ラビリンス)(1993)

 「のび太が安易にドラえもんに依存し、ドラえもんものび太に安易に道具を与えてのび太を甘やかしている」という一部でなされるドラえもん批判がいかに的外れかということは、ここでも繰り返し述べたとおりである。しかしこのような、「科学技術が発展し、生活が便利になることは本当に人間に幸福をもたらすか」ということは、SFというジャンルの重要なテーマであった。本作でF先生はまさに、このドラえもんという作品の根源にも迫るテーマに真正面から挑んでいる。

おもちゃがいっぱいあふれているブリキンホテルやチャモチャ星は、おもちゃにもなみならぬ関心を寄せていたF先生の夢が凝縮されているといえるかもしれない。しかしそこでドラえもんがチャモチャ星の軍隊にさらわれてしまい、さらには拷問の末に海中に捨てられるというさんざんな目にあう。そこでのび太たちはドラえもんの道具に頼ることなく、ドラえもんを救出するための冒険を余儀なくされるが、ここでのび太は、自分にとってのドラえもんの存在は何であったかをあらためて認識させられるわけである。のび太にとってドラえもんは単なるロボットではなく、かけがえのない親友なのだ。
 ここで描かれている、機械に頼りすぎた結果機械に支配されるようになってしまったチャモチャ星の情景にも、F先生の科学技術に対する視点が込められていることは言うまでもないだろう。その一方でロボットに扮してチャモチャ星に侵入したジャイアンやスネ夫の冒険や、ラストのおもちゃたちが街を暴れまわる情景も面白い。このともすれば重くなりがちなテーマを「いーとーまきまき」という笑いを取るようなオチでまとめている点もさすがである。のび太が家族で旅行に出かけるエンディングも、なかなかほのぼのしていてよい。
 ただこの映画は、テーマ曲の内容が作品と合っていないことが惜しい。武田鉄矢氏が作詞したドラ映画の主題歌はいずれも名曲ぞろいだが、この曲が異彩をはなっているように思える。

のび太と夢幻三剣士(1994)

 「夢」を題材とした作品は、「うつつまくら」「夢はしご」「ゆめのチャンネル」など、短篇ドラにも多く出てくる。この作品はこのような「夢ネタ」の集大成として描かれたものと見ることができるかもしれない。F先生がこの「夢」というテーマに関心を寄せていたのは、ここでは自由に想像力を遊ばせることができるということ、そしてさらにその夢と現実との関係はどうあるべきかという点もあるだろう。この夢の中には、三銃士やコンピューターゲームによってメジャーな存在となったRPGなど、さまざまな要素が込められている。
 しかしこの作品のテーマは、これまでの大長編でもたびたび取り上げられた、のび太の成長物語ということになるのではないか。のび太は例によって、はじめ夢の世界に逃避していた。このようなのび太と対照的に描かれているのが、お仕着せの婚約者を与えられることに反撥して、男装して城を出たシズカリア姫である。しかしこののび太も、オドロームとの戦いを通して成長し、しずかの心をとらえることに成功する。その冒険を終えたのび太は、気ままに夢見る機の助けを借りなくてもやっていけるという自信を手に入れられたと見ることができないだろうか。
 しかしこの作品は、魅力的なサブキャラクターが登場しないことが評価を下げていることは否めない。個人的には、敵のスパイドルとジャンボスがあまりにもしょぼくやられすぎるところや、ジャイアンやスネ夫の出番が少ないところがどうかと思うのだが、いかがだろうか。
 あとこの映画は、「夢の人」「世界はグー・チョキ・パー」と主題歌が二つあることも注目だろうか。「世界はグー・チョキ・パー」は多様な人がいるから世界は面白いというテーマで、SMAPが歌ってヒットした「世界に一つだけの花」にも通じるものがある。

のび太の創世日記(1995)

 この作品は大長編の中では異色作である。ドラえもんをはじめとする5人が主体的に冒険をしていくといういつものパターンではなく、のび太に似た一族の歴史を追いかけていくという形で話は展開する。そのため、「大長編らしいスリルや盛り上がりに欠ける」「舞台がすぐに転換してわかりにくい」という評価があることも事実である。
 しかし「のび太が新たな世界の造物主となる」というテーマは、ドラの短篇でも「地球製造法」「ハロー宇宙人」「しあわせのお星さま」「異説クラブメンバーズバッジ」などたびたび取り上げられているし、F先生はそのものずばりの「創世日記」という短篇も描いている。この作品はこの「創世」というテーマの集大成として描かれたものである。そしてそののび太が創造した地球の歴史は、古生物学や歴史、神話や伝説といった、F先生が深い関心を抱き、作品の重要なテーマとなってきた要素がいろいろ詰め込まれた万華鏡となっている。こののび太の創造したもう一つの地球は、F先生が幼少のころから漫画家としての生活を通して、生涯抱き続けた「夢」の集大成だったのかもしれない。
 F先生の歴史に対する関心は「TPぼん」でも取り上げられているが、ここに共通しているのは、「歴史を動かしているのは、歴史書に名を残すような英雄や偉人の活躍ばかりではなく、その時代を生きてきた人々の真心である」というテーマではないかと思わせる。ここではのび太に似た一族の先史時代からの歴史が描かれるが、平安時代を思わせる時代に登場する野比奈は、苦しい生活の中でもチュン子を助けてやり、そして野美秀が地底世界の冒険を通して、しずかに相当するしず代と結婚を誓い合うところで物語は終っている。この一族の歴史はのび太の成長そのものを暗示していることは言うまでもないことだが、ここでもう一度「のび太の結婚前夜」で、しずかのパパが語った「あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことの出来る人だ。それが人間にとって大事なことなんだからね」という言葉を思い出さずにはいられない。この地球の歴史は、「ドラえもん」の作品世界そのものでもあったのだ。
 あるいは、このテーマにあらためて正面から取り組んだということは、もしかしたらF先生は自分に残された時間は長くないということを悟っておられたのだろうか、だからここで自分の夢を総括するような作品を描こうと考えたのだろうかと考えさせられる。主題歌の「さよならにさよなら」にも、1人の人間は大きな歴史の流れの中でいろいろな人との出会いを繰り返しながら生きているというテーマが歌われている。

のび太と銀河超特急(エクスプレス)(1996)

 この作品のモデルとなったのは、てんコミ20巻に収録されている「天の川鉄道の夜」である。これは当時ブームとなっていた「銀河鉄道999」のパロディだが、この話は「どこでもドアが発明されたので天の川鉄道は廃止されてしまう」という夢のないオチで終っている。これではあまりにも救いがないと考えたのか、F先生はあらためてこのテーマを取り上げることにしたわけだが、この映画が公開された1996年は、「銀河鉄道の夜」の作者である宮澤賢治の生誕100年にも当たっていた。この作品は宮澤賢治へのオマージュという意味も込められていたのかもしれない。裏山に星空から銀河超特急が現れるという設定も、ドラワールドの主要な舞台であった、子供たちのワンダーランドである裏山という設定を生かしていてよい。
 前作の壮大なテーマとはうって変わって、ここではのび太たちの銀河超特急の旅やドリーマーズランドでの夢いっぱいの遊びが描かれる。そこに乱入してきた敵をのび太たちが協力してやっつけるという設定も、大長編ドラえもんの原点に戻ったという感じである。しかしこのドリーマーズランドは、鉱石を掘りつくして寂れてしまった鉱山星が「村おこし」ならぬ「星おこし」のために開発したものであるという設定も、妙に現実的で面白い。一般には敵キャラのヤドリがあまりにもしょぼくやられすぎるという見方もあるが、ここはのび太たちと一緒に、ドリーマーズランドでの遊びや冒険を素直に楽しむのがよいだろう。
 しかしこの映画が封切られた約半年後、F先生は帰らぬ人となってしまった。恐竜や西部劇、あるいはメルヘンの世界といった夢がいっぱい詰った宇宙のはてのドリーマーズランド、これこそがF先生が生涯大事にし続けた「夢」の象徴なのかと思うと、どこか哀しい気持ちになる。主題歌の「私のなかの銀河」にも、このような寂しさを感じざるを得ない。

のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記(1997)

 前にも触れたように、F先生は本作を執筆中に62歳の若さで亡くなられた。しかしF先生の残したメモがあったので、藤子プロの手によって作品を完結させることができた。
 この作品の冒頭の、のび太たちが緑のあふれる小惑星にぬいぐるみたちの楽園をつくるという夢あふれる情景、そしてそこに熊虎鬼五郎が乱入しのび太たちがピンチに陥るというストーリー展開は、まさしくこれまで繰り返された大長編ドラえもんの王道である。さまざまなぬいぐるみやおもちゃ、さらに公園の小便小僧までもが熊虎鬼五郎を相手に活躍する情景もなかなか面白い。
 しかしここでのび太は「種まく者」と出会う。その「種まく者」は36億年前、地球と火星に「生物の種」をまいた造物主だという。(この設定は、手塚治虫先生の『火の鳥』未来編を思わせる。)しかし火星は小惑星の衝突によって失敗し、生命の楽園と化した地球も人間のために環境が破壊されようとしている。しかし「種まく者」はここで「地球の未来はきみたちにかかっている」と言う。その試練に立ち向かい、未来をつくっていく力があれば、熊虎鬼五郎など恐れることはないはずだ。さらに、熊虎鬼五郎のような悪人にも、「ホクロ」に象徴される良心が宿っていた。このことは、どのような現実を前にしても、決して希望を失ってはいけないというF先生のメッセージが込められているように思える。
 このように、この作品はF先生の、これから困難に立ち向かい、未来をつくってほしいという子どもたちに向けたメッセージが込められている。しかし「種まく者」がのび太たちにねじ巻き都市の運命を託して旅立っていくくだりをみると、やはりF先生は自らの寿命を予感していたのか…それはわからない。確かなことは、F先生は倒れるまぎわまでこの作品の執筆に情熱を傾けておられたということである。

なお、「魔界大冒険」をのぞく大長編の主題歌の作詞を担当してこられた武田鉄矢氏は、F先生の死を機にこの役から退かれた。そのため、この映画の主題歌の「Love is you」(作詞;高橋研)は、矢沢永吉氏が歌っている。

物語はさらに続く

 F先生が亡くなられて以降も、すでに一大人気ブランドと化したドラえもんを終らせることはできなかった。そのため映画は毎年春の上映に合わせて、藤子プロによって毎年舞台を変えて制作され続けた。このタイトルは以下の通りである。


のび太の南海大冒険(1998)
のび太の宇宙漂流記(1999)
のび太の太陽王伝説(2000)
のび太と翼の勇者たち(2001)
のび太とロボット王国(キングダム)(2002)
のび太とふしぎ風使い(2003)
のび太のワンニャン時空伝(2004)

 しかしこれらの作品は、ファンの評価はF先生が自ら手がけられた作品に比べて高くない。これまで見たように、大長編ドラえもんには一貫して藤子F先生の多岐に渡る好奇心やドラえもんという作品に対しての考え方、子どもたちへのメッセージが込められているが、それがない以上はたとえどのような優秀なスタッフが手がけたところで、ドラえもんをネタにした二次創作になることは免れないだろう。
 たとえば、「南海大冒険」は、宝探しやマリンアドベンチャー、無人島という主題そのものはF先生自身短篇で何度も取り上げてきたものであるし、「ふしぎ風使い」も「台風のフー子」を下敷きにしているとはいえ、両者とも悪の親玉が未来の世界の時空犯罪者という設定は少々安易な感じがするし、「ロボット王国」も、ロボットに恨みを持つ人間がロボットを迫害するという設定や、ドラえもんが闘技場で巨大ロボットと戦うシーンはむしろ「鉄腕アトム」ではないかと思わせる。
 しかしこれらの作品がつまらないと決め付けるのは早すぎると思う。むしろF先生がドラえもんに託した夢というしっかりした土台があるからこそ、時代が変ったとはいえ我々もそれをもとにして自由に想像力を遊ばせることができるのである。この「夢」があるからドラえもんは世代を超えて人々から愛されている、そのことに価値があるのだ。もう少しドラワールドを「あったかーい目」で見守ってやろうではないか。

 そして2005年に声優陣を一新したドラえもんの映画第一作は、原点回帰というかたちで「のび太の恐竜2006」になった。これはストーリーの大筋そのものは細部を除き旧作と変っていないが、26年間で進化したアニメの技術を盛り込んだ、スリルのある話に仕上がっている。ドラえもんを中心とする仲間たちの友情、夢あふれる冒険、冒険を通してののび太たちの成長というテーマもしっかり守られていることは言うまでもない。
 2007年にも新作映画の上映は予定されているというが、それはどのようなものになるだろうか。ドラえもんのファンにとって大長編ドラえもんが今後どのような展開を見せるか、目が離せないことになりそうである。


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