藤子・F・不二雄先生の歿後10年を迎えて
今年2006年9月23日で、藤子・F・不二雄先生(以下「F先生」)が62歳の若さで亡くなられてからちょうど10年になる。小生はこのとき大学を卒業して社会人になったばかりだったが、そのころにはドラえもんをはじめとするF先生の作品に対する関心が薄れていたことは否めない。しかしそれだけに、F先生の訃報を知ったときのショックは今でも覚えている。
「去る者は日々に疎し」という言葉があるが、それとはうらはらにF先生の生み出した「ドラえもん」はその後も関連商品や書籍が数多く売り出され、ドラえもんを再評価しようという機運すら生れている。長年放映されてきたテレビアニメも昨2005年に声優やスタッフを一新し、その新スタッフによる映画も新作「のび太の恐竜2006」が封切られたことも記憶に新しいところである。映画は来年春には「のび太の魔界大冒険」のリメイク版が公開される予定であり、さらに、F先生のご自宅に近い川崎市内に「藤子・F・不二雄アートワークス(仮称)」を建設しようという動きもあるという。
しかし、従来からドラえもんを応援してきたドラえもんファンや藤子不二雄ファンの間には、この10年ばかりの間の「ドラえもん」をめぐる動き、すなわち安易なキャラクターグッズおよびイベントの乱発や、アニメが原作に基づかないオリジナル脚本路線となったことに対して首を傾げる人も少なくない。小生なんぞがこのようなファンの端くれを名乗るにはおこがましいかもしれないが、その気持ちはわからないでもない。まあグッズに関しては、ちょうどF先生が亡くなられたのと前後して、サンリオなどのキャラクター商品が主に女子高生などの間でブームになり、そのような動きに便乗しようという動きがあったのも事実だが、小生自身もそういうグッズを買ったりしてたからねえ。青函トンネルを走っていた「ドラえもん海底列車」にもわざわざ乗りにいったこともあったし、旅先で「どこでもドラえもん」のみやげ物を買ったりもしたし。
毎週金曜夜7時に放送されるアニメドラも、F先生の歿後はほとんど見なくなっていた(サラリーマンをやっていたら、平日の夜7時という時間はなかなか帰宅できるものではない)し、何かの拍子でたまたま見ても印象に残らないような作品が多かったように思う。たしかに大山ドラの末期に放映されたオリジナル脚本の作品は、F先生の描かれた原作のテイストから離れた、いわば「ドラえもん」を題材とした安易な二次創作のような、むしろ悪乗りとでも言った方がいいような作品が多かったことは否めない。(まあ、このような悪乗りぶりをB級作品でも見るような感覚で楽しむという見方もできたわけだが。)特に最後のナマズがどうとかいうED曲は、ドラえもんとどのような関連があるのかさっぱりわからなかった。
しかしそれでも、それならばアニメでもドラえもんを終らせた方がよかったかというと、そうとはとらえきれない部分もある。客観的に見ても、ドラえもんはテレビ朝日の看板となった以上、おいそれと終らせることもできなかったのも事実である。そもそもF先生が描かれたドラえもんという作品のメッセージ性はおいそれと他人に真似ることができるようなものではないが、それでもドラえもんが続いてきたのは、やはりそれだけドラえもんが子どもたちに受け入れられているからである。ここはむしろ、「ドラえもん」という作品が人々に忘れられることなく続いたという点のほうを重視するべきではないか。「自分の親しんでいたドラえもんが歪められていくのには耐えられない」という気持ちもわかるが、人それぞれのドラへの接し方や思いがあって当然である。せめて「テレビを放映することで特に児童がドラえもんに興味を持ってくれて、そこから原作を読むようになってくれたら」と鷹揚に構えるしかないのではないか。
2005年のアニメのリニューアルも、長年なじんだ大山のぶ代さんたちのドラと別れることを惜しむ声や、長年親しんだドラの声が変ることへの戸惑いもあった一方で、アニメドラが「原作回帰」を打ち出すことで原作の魅力に光が当たることになるのではと歓迎する向きもあった。しかし放映から1年ばかりたってみると、新キャストもかなり板についてきたと思う一方で、サブタイトルに必然性があるのかわからないようなあおり文句がついたり、ドラマとのタイアップが行われたりと、「原作回帰」とはいささか方向性が異なってきている。ドラワールドが今後どのように変っていくか、しっかり注視する必要がありそうである。
書籍に関しては、10年前F先生が亡くなられたころは、ドラえもんを除くF先生の作品の多くは事実上の絶版状態になっていたし、そのドラえもんもてんとう虫コミックス45巻には収録されていない作品が多数あるという恨みがあった。しかしこの10年間で「てんとう虫コミックススペシャル ドラえもんカラー作品集」「ぴっかぴかコミックス」「ドラえもんプラス」が出版され、てんコミに収録されていない作品もかなりフォローされるようになったのは喜ばしい。しかしドラえもんには現在刊行されている単行本に収録されていない話にも面白い話はまだまだあり、なんとかしてこれらの作品が日の目を見る機会がないものかと思っている。さすがにガチャ子の登場する話は難しいだろうが、「ドラプラス」もあと2巻か3巻くらいは出せるのではないか。
あと残念なのは、藤子先生の作品の中で「オバケのQ太郎」がいまだに復刊されないことである。これについては版権などの問題があるというが、オバQと一緒に子どもたちが愉快な遊びを繰り広げるという藤子作品のスタイルが確立したのもまさにオバQであり、これがいまだに読むことができないのは惜しい。なんとかして復刊できないものかと思うのだが。
あと、F先生が亡くなられてからもドラえもんが人気を集めている背景には、時代の変化の中であらためて、F先生がドラえもんに託して描いたものは何だったのかが問われているということもあるのではないか。この10年間で、携帯電話やインターネットが爆発的に普及するなど、我々を取り巻く環境も大きく変った。しかしこの10年間の前半は金融危機や不況がささやかれ、少々景気がよくなったと思ったら今度は「格差社会」が問題となり、少年犯罪が多発し、海外では「9・11」以来テロだ戦争だときな臭い空気が漂うなど、社会そのものの閉塞感が消えたとはいえない。この中で、子どもが空地でのびのび遊び、近所づきあいのできる町内があり、家族の絆が生きていて、のび太のような子どもでも「しずかちゃんと結婚して幸せになれる」という夢を描くことができた、ドラえもんに描かれている情景に関心が集まっているのではないか。この点でドラへの注目は昨今の「昭和30年代ブーム」にも通じるものがあるかもしれないが、単にそれを「昔はよかった」というノスタルジーとしてとらえるのではなく、そこから今の世の中にも通じるものを見つけることはできないだろうか。
しかし小生は、「もし藤子F先生が御存命なら、今の世間をどのように眺めるだろうか」と感じることがしばしばある。その中から2点ばかりあげるならば、一つは昨今報じられる、親が子を虐待したり、子が親を殺傷したりという痛ましい事件である。F先生は自分自身よき家庭人であり、作品の中でも家族や親子の絆を大切に描いてこられた。ドラえもんでも「パパもあまえんぼ」「おばあちゃんのおもいで」「タマシイム・マシン」などの作品がまず頭に浮かぶところであるが、中でも「のび太の結婚前夜」でのしずかのパパの言葉や、「エスパー魔美」における魔美とパパとの交流は、F先生御自身の娘への思いだったかもしれない。昨今のマンガやアニメにはこのような作品が少ないこともいささか気になるところではあるが、もしもF先生がこのような事件の話を聞いたら、いったいどのような顔をなさるだろうか。
あとは、「引きこもり」「ニート」に象徴されるような、若者の「心」の問題である。ドラえもんという作品には、のび太のような子どもでも努力すれば明るい未来が待っているという希望が込められているように思える。しかし今の「のび太」たちにとって、どのようにして自立して社会の中で生きていくか、他人との間にコミュニケーションを築いていくかという問題は、より重いテーマとなってのしかかっているように思える。この「のび太」たちが自信や希望を持つことができる未来、そのような未来をつくっていくためにはどうすればいいか、答えは簡単に出るものではないが、昨今の社会の情勢は、ドラえもんの中に描かれた夢からはいささか外れてきているのでは、これをF先生ならどのように眺めるだろうかという思いがしてならない。
このように考えてみると、F先生が62歳という年齢で亡くなられたのは早すぎたとあらためて思わざるを得ない。大量の連載を抱えた過酷な執筆がF先生の健康を損ねたことを考えると胸が痛むが、だからこそこのようにしてF先生が伝えようとしたものは何か、しっかり考えてみたい。あるいはこのような状況だからこそ、あらためてドラえもんをはじめとするF先生の作品を読み返してみる意味はあるのではないだろうか。ともあれ、小生は今後もドラえもん、そしてF先生の作品を「あったか〜い目」で見守っていきたいと思っている。
(2006年9月23日)