21世紀になってはや2ヵ月になろうとしている。今年の正月、世紀が改まった瞬間には、その最後の何分の一かをちょこっと経験したにすぎない小生も、やはり胸にこみ上げてくるものがあった。しかしこれまで世間も21世紀21世紀と騒いでいたわりには、実際新世紀が来てみると「いったいどこが変わったの」というのが大方の人の正直な感想ではないだろうか。そもそも21世紀になるともう少し住みよい世の中になってほしい…というのが多くの人の夢想だったはずなのに、あいも変わらず政治家はろくなことをしないし、暮らし向きがよくなったわけでもないし、今の日本にはいろいろ厄介な問題が山積しているし…というわけで。
しかし、こうなってくると、「ロケットが空を飛び、リニアモーターカーやエアカーが摩天楼の間を疾走し、生活の隅々にまでロボットやエレクトロニクスが浸透する」…などといった、よく語られた「21世紀には人間はこんなに進歩している」などといった夢物語はいったい何だったのかと思えてくる。今になって思うと、これらの未来予想図はテクノロジーの発展ばかりを描いていて、それらがもたらす生活習慣や人々の意識のあり方の変化についてあまり言及していなかったのも気にかかるところである。
だったら「進歩」というものはいったい何なのか…ということになるが、この「進歩」について、最近読んだ「私たちが生きた20世紀」(文春文庫)という「私にとっての20世紀とは」ということについて各界の著名人362人が答えた本の中に印象深い一文があった。それはこの本のトリに収められている、中西輝政・京都大学教授の「忌々しいニ十世紀が終る」という一文である。
この文はいきなりこう切り出している。
「まず、すぐれて個人的なことを言えば、私は二十世紀という世紀が大嫌いである。人はその『物質的成果』を云々するのだが、私の好みから言えば、自動車よりも馬車の方がずっといいし、核兵器もテレビも大学進学率の向上も、人間の生活を向上させたとはとても思えない。」
まあ小生も、「自動車より馬車」というのはオーバーだと思うが、これを「私自身の好みから言えば、飛行機や新幹線に乗るより汽車や汽船で旅をする方がずっとよいし、コンビニも携帯電話も大学進学率の向上も、人間の生活を向上させたとはとても思えない」と言い換えると全く同感である。確かに今の日本では、飛行機や新幹線を使えば蒸気機関車の煙に悩まされることもなく、エアコンのきいた車内で椅子に腰かけているうちによほど不便な山奥や離島でもない限りその日のうちに行くことができる。しかし小生なんぞは、それで十分じゃないか、何を今さら超音速ジェット機やリニアモーターカーなんかつくらなきゃいけないんだ…などと思ってしまう。そればかりか、飛行機や新幹線ですら、窮屈なシートに坐ってるだけでトンネルで外の景色すらろくに見ることができない、まわりもむっつりした人ばかりでとなりの人とことばを交わすこともない…それだったら汽車や汽船で旅をする方がよっぽど楽しいじゃないかとつい思ったりもしてしまう。まあだったら汽車や汽船といわず、江戸時代みたいにどろんこ道をわらじで歩いてみたらどうだ…と言われたら、ちょっと難しい問題になってくるが。
あとコンビニでレトルト食品を買って食べるより商店街で店のオバチャンと会話しながら買い物する方がよほど楽しいし、携帯電話だって皆これを便利だと言うが、街中や電車で携帯でぺちゃくちゃやっている人たちを見てると、ほんとにこれが人間の生活を向上させたとは思えない。むしろ小生は、街中を歩いていても通和音で呼び出されるというのが性に合わないのだが。大学進学率の高上…まあ小生のような人間でも学士サマになれるくらいだからねえ。最近の若者の「学力低下」を叱れるだろうか。
さらに中西氏はこう続けている。
「多くの植民地が独立したが、半世紀経ってみて、独立前よりも不幸になった国がずい分と多いこともわかってきた。貧しい農村での『水飲み百姓』一家の暮しから、巨大都市でのマンション暮しのサラリーマン家族への『進歩」も、要するに独立を達成した旧植民地の一世紀とさして違わないかもしれない。要は、人間の幸福をどう考えるか、という点にあり、『歴史の進歩』などまさに個人的な好みの問題でしかないのである。」
これについては難しい。植民地から独立してかえって不幸になった国も少なくないことは事実だろうが、だったらそれらの国が植民地のままでいた方がよかったというわけにもいかないだろうし。豊かで便利な生活が送れる、自分の夢をかなえられると考えて都会に出たのはいいものの、その都会での暮しも仕事で疲労とストレスをかかえ、ローンに追われ、都会の人間関係に悩み、リストラの不安におびえ…というのも理解できる。でもだったら田舎に帰って農業をやれなどと言われても小生にはできないだろうしねえ。やはり人間はどこに行ってもいいことばかりあるわけじゃないけど、その中で自分なりの「幸福」を見つけていかなければならないということだろうか。
しかし似たようなことはほかにもあるのではないか。たとえば以前日本にも経済的理由から学校に行けず、未成年のうちから劣悪な条件のもとで働かなければならなかった人が少なからずいた(いわゆる「発展途上国」には今も大勢いる)ころは、「皆が学校に行って十分な教育を受けられる」ことが「進歩」であり「幸福」であると疑いなく信じられていたが、こうやってほとんどの人が学校に行けるようになると、今度は「不登校」「中退」「いじめ」「校内暴力」といった問題に多くの子どもたちがさらされている。世間で「女性の解放・地位向上」と言われているものも、何だかんだと「女性差別」と言っていろいろ因縁をつけている「フェミニズム」「男女共同参画社会」というやつの胡散臭さを見ていると、これらもやはり「独立を達成した旧植民地の一世紀とさして違わないかもしれない」という気がしてくる。
さらに中西氏はこう結論づけている。
「つまり、二十世紀の世紀末に至って、日本は明白に『進歩の終り』を迎えているということである。『進歩』の善し悪しは別にして、要するにそのプロセスが『ドン詰リ』に達した、ということなのである。周りを見渡しても、『進歩』を予感しうるようなものは何もない。そして「進歩」の終りは必然的に、戦後の終り、とならざるを得ない。また、『ドン詰リ』に来た以上、もと来た道を引き返さざるを得ない。」
戦後の日本は「経済成長や科学技術の進歩によって豊かな生活を送れるようにする」ことを目標にしてきた。しかし今の日本を見ていると、経済がこれからも右肩上がりで伸び続け、カネやモノの点で豊かになっていくなどということは考えにくい。いやそれどころか、日本、いや人類全体をとりまくいろいろな問題は、果たしてこれ以上人間がエネルギーや資源を大量に使ってぜいたくな生活をし、「自由」や「権利」ばかりをふりかざして自分の好きなように生きていてよいのだろうかという問題を突きつけている。
このように21世紀の日本の前途は決してバラ色とはならないだろうが、ここでもう一度「日本」というところの悪いところばかりではなく、よいところを見直してみてはどうだろうか。日本人は豊かな自然に恵まれたこの島国で、立派な文化を育ててきた。そのような点を見失わないようにすれば(もちろん、ヘンな優越感に浸ってよいという意味ではない)、必ず道は開けると信じたいのだが。中西氏の言う「もと来た道を引き返す」というのは、案外こういうことかもしれない。
(2001年2月24日)