秋山郷を訪ねて

 

 「秘境」ということばには、どこか人をひきつけるものがある。山や清流といった自然はもちろん、厳しい環境の中で人々はどのような生活を送り、文化を育んできたのか、また交通が不便だからこそ、社会の変化の中で忘れられたものが息づいているのでは…そこには我々の知らないものが息づいていそうな気がする。まして昨今のように都市化が進み、何でもいながらにして手に入る環境が当たり前になってからはなおさらである。
 私はこれまで鉄オタとしていろいろなところに行ってきたが、そのうちに鉄道では行けないようなところにも目を向けるようになっていった。さらに最近は農村にも立派な道路が整備され、ショッピングセンターが建って、日本中どこに行っても風土が画一化しつつあるからこそ、そういうところ対する関心がより深まっているのかもしれない。

 しかし私の懐具合はそれほど裕福ではない。このような秘境で名が通ったところというと、福島県の檜枝岐、合掌造りで知られる白川郷や五箇山、あるいは熊野山地、四国の祖谷渓、九州の椎葉や五家荘などの名が上がるが、青春18きっぷで行けるところがせいいっぱいである。それに今名前を上げたところは「秘境」として名が知られるとともに、その秘境ムードを求めて観光客が訪れ人でいっぱいになるというおかしなことになっている。私は一度祖谷渓を訪れたとき、かずら橋に大勢の観光客がたむろしているのに驚いたが、白川村・五箇山の合掌造りや紀伊半島の霊場・参道も、世界遺産に登録されてからは訪れる人が増えているだろう。

 そこで私はざっと地図を見て、秋山郷を訪ねることにした。この秋山郷は新潟県と長野県の県境付近に位置する山里である。2006年冬の豪雪の時には、ここに通じる唯一の道路が不通になって、地域が孤立したことは記憶に新しいところである。さてそこには何があるのか、さっそく青春18きっぷで旅立つことにした。

 2006年8月26日朝、池袋から埼京線で赤羽まで行き、そこで高崎線に乗り換える。高崎線の車内には登山客とおぼしき中高年の姿も目につくが、彼らはやはり青春18きっぷの利用者なのだろう。しかしこうなると、座席がロングシートなのがうらめしい。団体でおしゃべりをしたり、飲み食いをしたりするのには不向きではないか。

 電車が大宮から熊谷へと北上するにつれて、車窓にも緑が目立つようになる。そして高崎で乗り継いだ電車は国鉄型の115系。東京都心では姿が見られなくなったが、高崎ではしばらく活躍が続くのだろうか。

 渋川を過ぎると車窓に山が迫り、列車は利根川の渓谷をいくつもの高い鉄橋で渡りながら勾配をさかのぼっていく。そして彼方には山並みが近づいてくる。かつては首都圏と日本海側を結ぶ大動脈として特急や急行が行き交った上越線も、新幹線の開通後はどこかうらぶれたローカル線のようになってしまった。しかし急がない旅だからこそ、トンネルばかりの新幹線より鈍行列車で車窓を眺め、その土地の空気に触れながらゆったりと旅を楽しみたいものである。またこういう線区だからこそ、通勤電車のようなロングシートではなく、クロスシートの車輛で汽車旅の醍醐味を味わいたいところである。

 やがて車窓に水上の温泉街が見えると、列車は崖にへばりついたような水上駅に着く。かつてはこの駅で清水トンネル前後の急勾配に備えるための補助機関車を連結していたというが、今は静かな駅である。ここで電車を乗りかえ、水上駅を出ると谷はさらに深まり、やがて列車は「国境の長いトンネル」、新清水トンネルに入る。トンネルの中にホームがあり、地上まで長い階段を上らなければならない土合駅でも登山客が何人か降り、ようやくトンネルを抜けると山あいにひっそりとたたずむ土樽駅である。冬ならばここで車窓は一面の銀世界となるところだが、ここから列車が雄大なシュプールを描きながら越後湯沢まで下りる、この一帯はどの季節に通ってもいいところである。冬はスキーヤーたちでにぎわうこの一帯も、今は夏の日が照らす静かな山里の趣である。スキー場のリフトもシーズンオフの今となっては手持ち無沙汰に見える。

 六日町で北越急行の2輌編成のワンマン電車に乗りかえる。北越急行は現在でこそ越後湯沢で上越新幹線と接続して特急「はくたか」が走り、東京と北陸を結ぶ最短ルートとなっている。トンネルばかりで味気ないという向きもあろうが、近代的な装備だけでなく、トンネル内に駅や信号場があったり、「ゆめぞら号」という電車があったりして、鉄道ファンにはなかなか楽しい路線である。しかしこの路線も北陸新幹線が開通したら閑散ローカル線に転落するのではと予想される。やはり整備新幹線の計画は杜撰だと言わざるを得ない。

 それはさておき、北越急行は六日町を出ると左に大きくカーブし、隣の魚沼丘陵駅を出ると長い赤倉トンネルに入る。トンネルの中に美佐島というホーム一本だけの駅があるのが面白いところだ。トンネルを抜けると列車は十日町の市街を高架線から見下ろしながら大きく左にカーブする。十日町は雪国の町らしく、赤いトタン屋根の家が目につく。

 列車は十日町駅に着いたが、ここで私は少し迷っていた。というのは、秋山郷に行くバスは十日町の西隣の津南という町から出ているのだが、JR飯山線の津南駅は津南町の中心にあるバス乗り場から信濃川をはさんで1キロ以上離れたところにある。十日町駅を13時34分に出る飯山線の列車は津南駅に13時59分に着くが、秋山郷行のバスが津南を出るのは14時35分である。歩いていけば乗り継げないこともないと思うが、不案内の土地をこの炎天下に一キロ以上も歩くのもにはやはり不安がある。そこで駅にある観光案内所にきくと、十日町駅から津南行のバスが出ているから、それに乗った方がいいという。青春18きっぷで行くのに比べて余計にバス代はかかるが、こっちで行った方が安心できそうだ。

 十日町は今ちょうど夏祭りの真っ最中で、駅前通りには露店の列ができている。おかげで駅前に乗り入れるバスも今日は駅から離れたところから発着するというが、お祭りの露店をいろいろ眺めてみるのも楽しいものである。新清水トンネルをくぐるまでは曇りがちだった天気も、新潟県に入ると青空が広がり強い日差しが照らすようになった。青い夏空の広がる静かな田舎町を旅したところ、そこでお祭りに出くわしたというのもなかなか旅心をくすぐるシチュエーションではないか。

 露店で買ったパイナップルをかじりながらバスを待っていると、やがて津南行のバスが来た。バスの車窓からは、みこしや山車が通りを行進するところも見える。

 十日町の市街を外れると辺りは田園地帯となる。車窓には古びた感じのするどっしりとした家も目につくが、今は緑あふれるこの一帯も雪に閉ざされる冬に訪れると趣も変ってくるのだろう。バスの車内はお年寄りや若者といった層が目につくが、田舎で列車やバスに乗ると利用客はそういった人たちばかりである。いくら地方がクルマ社会になって、バス会社の経営が思わしくなくても、彼らにとって公共交通機関はなくてはならない足である。やがてバスが終点の津南に着くころには、客は私以外一人になっていた。

 津南はどこにでもある田舎町の趣である。バス停のまわりでは、国道に沿ってどこか古びた書店や洋品店、タバコ屋などが軒を連ねている。地方のこういう書店に入ると、東京では古本屋にしか売ってないような古びた本が本棚の手の届きにくい上の方に残っているのが面白い。

 やがて秋山郷行のバスが来た。車内には地元のお年寄りのほかに、私のような旅行者とおぼしき中年の男性客数人もいる。バスは津南の町を回って病院に寄った後で、秋山郷に向かう国道405号に入り田園の中を南下する。ときにバスが国道から外れて、集落の中の狭い道を抜けるのもこういうバスの魅力だろうか。

 やがて平地は尽き、道幅が狭まりつづら折りになる。そして人家もほとんど尽き、道路と並行する中津川も渓流の趣となり落石覆いをくぐる。

 そして険しい渓谷をなぞるように、やっと車一台が通れるような狭い道が延々と続く。車窓はうっそうとした森が延々と続き、対向車が来たときには、カーブの少し道路が広がっているところで待つしかない。果たしてこの奥に人の住む集落があるのだろうか、この奥に通じているのは魔法の支配する異世界ではないかなどと、安っぽいファンタジー小説のようなことさえ考えたくなる。

 この自然の前にたやすくかき消されそうな国道405号線も、秋山郷と外の世界をつなぐ唯一の道であり、いわば秋山郷の命綱とでもいうべき存在だが、これでは落石や土砂崩れの被害は大丈夫だろうか、少し大雨が降ると不通になるのではないかと不安になる。さらにここは名うての豪雪地帯、寒さの厳しかった2006年の冬にはこの道路が普通になり、秋山郷が孤立したことは前にも書いた通りである。この間は秋山郷の人はどのような暮らしをしていたのかと思うが、豪雪の中でこの道路が通じるように努力している担当者の苦労も並大抵ではないだろう。

 このような細い道をたどるうちに、津南からおよそ1時間でバスは小赤沢に着いた。この山の中にわずかに開けた谷にひっそりと息づいているかのような小さな集落も、いわば秋山郷の中心であり、ささやかながら商店や食堂もあるのを見て、ようやく人のにおいのするところに来たという感じがする。

 しかし私が泊る予定にしている和山温泉はそこからさらに山をさかのぼったところにある。途中バスは国道をそれて急坂を下り、谷底にある屋敷という集落に立ち寄る。ここにも温泉が湧き出しているが、小学校もここに位置している。しかし集落に位置する家は古い建物ばかりで、やはりうらぶれた感じは否めない。あとここではやたらと墓地が目立つ。このような自然条件の厳しい土地では、集落全体が団結し、それぞれの先祖を祭り家系を守っていくことがより重要視されるようになったのであろう。

屋敷集落。バスの車窓から遠望。

 和山温泉へはさらにつづら折りの道をたどっていかなければならない。道路が谷を渡るためにえんえん上流までさかのぼってから渡るという具合で、これでは隣の集落に行くだけでも一苦労である。クルマでもこれだけ大変なのだから、歩いていけばどれだけかかるかわかったものではない。

 そうこうしているうちに、バスは終点の和山温泉に着いた。時刻はちょうど16時ごろで、津南からは1時間25分ばかりの道のりである。この間は直線距離だと20キロ強だが、この距離にこれだけの時間がかかることが、いかに今までたどってきた道のりが険しかったかを物語っている。

 この和山は、谷あいに民宿を兼ねた数件の民家がひっそりと建っているだけの、それこそ「山里」といった趣のところである。バスを降りてみると、さすがに標高が高いだけあって涼しい。少し辺りを歩いていると、集落の中には商店はおろか自動販売機すら見当たらない。要するに、ここでは買い物一つをするのにも山道をたどって小赤沢までいかなければならないというわけである。そしてその集落のはずれに真っ赤に塗られた鳥居があり、小さな神社があるのが印象に残った。この神社は昔からこの集落を眺めてきたのだろうか

和山集落のはずれにある小さな神社



 しかしこうなると、きちんと今朝に宿の予約の電話をしておいてよかったと思わざるを得ない。私は宿の予約を入れず、飛び込みで宿に泊ることもよくあるが、今回も宿をどこにするか絞りきれず、和山にある数件の民宿に出発の日の朝、家を発つ直前になってから電話をかけた。しかし一軒は、電話に出たおばさんが「腰の具合が悪いから休業している」と言い、他に二軒ほど電話をしてようやく予約を取ることができた。ここまできて宿を取れなければとんでもないことになるところであった。あるいは夕方になって飛び込みで宿に泊った場合は、夕食が用意できないことは覚悟しておかなければならない。それでも宿が街中にある場合は食事ができるところはいくらでもあるが、ここには食堂もない。あらかじめ決めたスケジュールにしばられるのではなく、そのときの気分で行程や宿泊先を決める旅も悪くないが、このようなところではあまり気まぐれすぎるのもよくないようである。

 予約していた民宿に着くと、さっそくおじさんが二階にある部屋まで案内してくれた。部屋に荷物を置いて、さっそく民宿の中に引かれた温泉に入ることにする。温泉といっても湯舟はあまり大きくはないが、湯は熱く、漬かっているとほっとするような感じがする。

 温泉から上がってもまだ五時、日は高い。しかし温泉とはいっても、この民宿の近辺には、浴衣姿で散歩に行けるような温泉街もない。しかしこういうときこそ、時間の使いどころである。山の空気を含んだ涼しい風のあたる民宿の縁側で、持ってきていたた本を広げてみるなんていうのも、なかなかおつな時間の過ごし方ではないか。

 しかしここで温泉に入ってゆったりすると、値上げ以来禁煙しようとしているとはいえ、タバコを一服したくなる。そこで宿の人に「この近くにタバコを売っているところはないか」と聞いてみても、「小赤沢まで行かないとない」とのこと。前にも述べたように、秋山郷の中心の小赤沢に行くには、クルマで曲がりくねった山道を数十分行かなければならない。やはりここは健康のためにも禁煙しよう。

和山集落の全景

 あたりに暮色が漂ってくると、夕食の時間になる。夕食は鮎の塩焼きに山菜の天ぷら、それにきのこと、秋山郷の山の幸をふんだんに使った料理である。一緒に泊っているのは、釣り客や登山客らしい人が数人。この人は秋山郷にはちょくちょく足を運んでいるらしく、夕食が片付いてからも酒のグラスを傾けながらいろいろ話をした。やはりこういう山の宿では、一緒に泊る人がいた方が寂しくなくていい。

 中でも印象に残ったのが、宿の人が熊の毛皮を見せてくれたことだ。黒いクマの毛皮は、どこか手触りがざらざらしているように感じた。クマの肉はなかなかうまいというが、どのようなものだろうか。

 あと宿の人の話によると、秋山郷の名物として、そばがあるという。最近は会社を定年退職した人でそば打ちを始める人もいるというが、この宿の主も頼めばそばを打ってくれるという。宿にある秋山郷を案内した手書きの地図の書かれたパンフレットを眺めていると、「天保の大凶作で滅んでしまった集落の跡」というものが書いてあったりする。このような自然条件の厳しい土地でも、人間はわずかな土地を耕し、食を手に入れて生活してきたということにあらためて驚かざるを得ない。

 そうしているうちに、酔いもまわってきたので早々に床につくことにする。普段の生活ではテレビを見たりインターネットをやったりして夜更かしをしてしまうものだが、たまには俗塵を離れてこういう健康的な生活をするのもいいだろう。

 しかし民宿は電気がついているとはいえ、ここから一歩外に出たら、そこは全くの暗闇と静寂に支配された世界が広がっていることだろう。このような環境に身を置いてみることも、たまには必要かもしれない。

 

 明けて8月27日、日曜日。山の早朝の天気は澄み渡って気持ちがいい。日の光そのものも、東京で見るよりも心なしか澄んで明るく感じられる。

 6時半ごろに食堂に下りてみると、朝食ができていた。今日は秋山郷の名所でも見て回ろうと思ったが、秋山郷の名所はあちこちに分散していて、それを回るには自動車、私の場合は一日数本のバスしかない。この和山温泉を出るバスは朝の6時25分の次は10時25分までない。しかしここで10時過ぎまでぼっとしているのも時間がもったいない。そういうわけで、秋山郷のいちばん奥にある切明温泉というところに行くことにした。この切明というところは、川原を掘るとそこが露天風呂になるという。ここまで来た以上は、いっそどんづまりまで行ってみたい。しかし宿の人の話によると、この切明温泉までは歩いて1時間ほどかかるという。それなら7時半ごろに出て、湯に漬かって戻ってきたら10時25分のバスには間に合うかもしれない。そういうわけで、小生はさっそく切明温泉を目指すことにした。

 宿を出てみると、青く澄み渡った空にのこぎりのような稜線を描きながら、標高2037メートルの鳥甲山がそびえている。このような山の雄大な景色を眺めていると、やはりどこかすかっとした気分になる。

朝日を浴びてそびえる鳥甲山

 和山の集落をはずれたところに、一軒家が建っているのが見える。この家は背後まで森が迫っており、このようなところに住んでいてさびしくないだろうかと感じてしまう。

 和山から切明温泉までは、いちおう舗装されて自動車も通れる道路が続いている。しかしはじめこそ森林浴気分で歩き出したまではよかったが、人気も全くない、道の傍らにはただ鬱蒼たる森が続くのみという道を歩いていると、ほんとうにこの道を通って大丈夫なのだろうかという不安にかられる。この道の傍らには土砂崩れの跡らしきものもしばしば見受ける。おまけにこの道には照明なんかないので、夜になったら全くの真っ暗闇だろう。もしここで道に迷ったりしたら、それこそ遭難するのではと思ってしまう。まあこんな道程度でこんなことを考えるようでは、アウトドア派の人が聞いたら笑われるだろうが、私のような都会生活者から見たら、こういう体験をするだけでもいろいろなことを考えさせられるものである。

 そういった人気のない道を歩いているうちに、ようやく切明温泉の建物が見えてきた。和山から歩いて40分程度、宿の人の言う1時間よりはだいぶ早かった。

 この切明は二軒ばかりの温泉関係の施設のほかには発電所があるだけで、まさしく山中の秘湯である。しかしお目当ての温泉施設に着くと、日帰り入浴は10時半からだと言う。今の時間はだいたい8時半、骨折り損のくたびれもうけだった。まあしかし山の空気を吸いながら歩いて、日ごろの運動不足を解消したと思えばよいか。

切明温泉

 来た道をてくてく歩いて和山に戻ると9時40分、まだバスの出発まで少々時間がある。こんな山の中まで来て時間を気にするのもばからしい気がするし、車でもあればだいぶフットワークがよくなるだろうと思うが、私のようなペーパードライバーにこんな山道を運転できる自信はない。むしろ一日数本のローカル列車やバスで、いろんな人と接しながらのんびり旅をするのがいいのである。そこで釣り客もいるのだから川べりまで出たらどうだろうと思って坂道を下りてみた。(ちなみに私は釣りをしたことがほとんどない。小学校のときに一度近所で釣り大会があるというので、父に釣竿を買ってもらったことがあるが、それで釣り大会に行ってもさっぱり釣れず、それ以来釣竿は物置にしまいっぱなしになってしまった。)

 しかし川沿いの方に向かったら、そこにある旅館の飼っている犬にわんわん吠え立てられた。あまり用もないのにうろちょろしてると怪しまれるかもしれないから、ここにおとなしくバスを待った方がよさそうだ。

 そして坂道をバス停へと戻る途中、後ろから車が来てその車を運転していたおっちゃんに声をかけられた。この人は先の旅館のおやじで、いつもは犬が吠えたりするわけじゃないんだがと言っていた。

和山のバス待合所

 そうこうしているうちにバスが来て、それに乗る。このまま帰ってしまうのも名残惜しい気がするので、秋山郷の中心、小赤沢で降りることにした。

 小赤沢には、集落を外れて少し高台に上がったところに楽養館という日帰り入浴の施設がある。野良道をしばらく歩いて坂を上ると、楽養館の建物が見えてくる。その道のそばで、萱葺きの屋根に守られた水車が回っているのが印象に残った。

小赤沢にある水車

 楽養館の湯は茶色く濁っていて、それほど熱くはなく長い間入っていてものぼせない。その湯舟につかって外を見ると、山峡にひっそりとたたずむ小赤沢の集落や田畑が見える。まさしく「ふるさと」の唱歌にうたわれるとおりの風景だが、最近では農村に行ってもけばけばしい看板が目についたりして、こういう風景そのものが貴重になりつつあるのかもしれない。ここでは、どこでも見かけるようなコンビニやチェーン店すら見かけられない。

小赤沢全景

 しかしこうやって湯につかっていると、「狭苦しくて暑い東京なんかにこれから帰りたくない」と思えてくる。しかしこれは行きずりの勝手な旅行者としての立場だからそう思うのであって、もしここで暮らせと言われたら、このような便利なスーパーマーケットも、書店もレンタルビデオ屋もない、隣の集落に出るだけでも一苦労という環境では、私などは一ヶ月ももたないだろう。まして今の季節はまだいいが、豪雪に閉ざされる冬の大変さはいかばかりだろうか。

 この秋山郷でも、屋外で野良仕事をしているのはお年よりばかりだった。そういえば秋山郷には小学校はあったが、高校などあるはずがない。そもそもこの地域に何人児童がいるかわからないが、高校に進学するには和山を早朝に出るバスに乗るか、やはり下宿するしかないのだろうか。

もし自分自身がこの秋山郷で生れ育ったら、十代くらいになると、きっと都会に出て行きたいと思うに違いない。そして私がこのような若者の父親だったら、「若いうちはもっと広い世界を見て来い」くらいのことは言うだろう。こうしてみると、都会人が山や渓谷の風光を愛でたり、田舎の純朴さに感動したりするのは勝手だが、そうそうことは簡単ではないと思えてくる。

 温泉から上がると、さっそくここの食堂でそばを食べることにした。受付にいたのは茶髪のお兄ちゃんだったが、彼はやはりこの地元の若者だろう。しかしそのうちに空が曇ってきたと思ったら、雨が降り出した。朝起きたときは空が晴れていたと思ったらこうなるとは、全く山の天候は気まぐれである。しかも私は傘を持っていない。

 そばを食べ終わってしばらく待っても雨が止みそうにないので、小雨をついてバス停に向かった。このバス停の近くには、「とねんぼ」という愛称がついている施設がある。これは村役場の支所や簡易郵便局、保育所などを兼ねた割と新しい建物だが、その一角には秋山郷の資料室のようなものもある。展示を見ていると、マタギ(山で狩猟を行う人)についての資料や、秋山郷の歴史についての年表もある。これによると秋山郷に電気が入ったのは小赤沢でも昭和に入ってから、和山は戦後だという。

小赤沢の古民家

 そこからその近くに保存されている萱葺きの古い民家を見て、ちょうどバスの時間が近づいたのでバス停に向かう。慣れない土地で本数の少ないバスを待つのは少々不安なものだが、特にこのバスを逃すと今日中に家に帰れない。バスが数分遅れて大丈夫だろうかと思いかけたころ、ようやくバスが来た。

 昨日と同じ細い山道を抜けて平地が広がると、ようやく人里に帰ったような心地がしてほっとした気持ちになる。このような農村のバス停で、女子大生風の若い女性が6人ばかり乗ってきたのが気になる。何かの旅行だろうか。

 津南で越後湯沢行のバスに乗りかえる。つづら折りの道で山を越えてみると、広い道路が整備され新幹線の立派な駅舎がそびえる越後湯沢は、かなり大きな町のように見える。越後湯沢は特に上越新幹線や関越自動車道の開通後、リゾートとして発展したことは周知の通りだが、ここにはやはり「東京」の香りが漂ってくる。しかしここから清水トンネルを越えて群馬県に抜ける普通列車は少ない。二時間以上もヒマができたわけで、青春18きっぷ利用者にとってはつらいところである。

 結局この時間は、駅の近くの本屋で立ち読みをしたり、駅の中にあるみやげ物やでいろいろなものを眺めたりして過ごした。マンガ喫茶でもあればいいのだが、ここでもまた駅前の浴場に入ったのは、自分でも物好きだと思わずにはいられない。

越後湯沢で乗り込んだ普通列車は、暮れなずむ景色の中、清水トンネルに向けて勾配を登っていく。列車を乗り継いで晩の10時前に池袋に帰りついたが、私にとっては見慣れた情景である東京の雑踏も、秋山郷とは同じ日本のようには思えなかった。ましてこの秋山郷は、東京から新幹線や高速道路を使えば半日で行けるようなところに存在しているのである。

この東京の景色を眺めているうちに、私は機会が許せば、もう一度秋山郷を訪ねてみたいと思うようになった。秋山郷は私から見れば、まさに「むかしむかしあるところに…」で始まるおとぎ話の中の世界のように思えた。おとぎ話の中の「自然」は人間に恵みをもたらすこともあれば、人間の傲慢さに対して牙をむくこともある。癒しであれ感動であれ畏怖であれ、この「自然」から何かを感じ取る心、これはたとえ都会で機械に囲まれて生活をするようになっても、我々の意識の奥底に息づいているものなのかもしれない。このようなところを旅するということは、その自分の心の奥にあるものに出会うことでもあるのだろう。

さすがに豪雪に閉ざされた冬に行くのは、そこで厳しい生活を送っている人を興味本位で見に行くようで気がひけるが(「雪かきボランティア」とかいう形ならともかく)、新緑や紅葉の季節はどうだろうか。そこにどのような歴史があるか、そこでの人々の暮らしはどうかも、たった一度の旅行ではまだまだわからない。もし次に秋山郷を訪れる機会があったとしたら、そこで何に出会えるだろうか。



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