五月雨


 バスは市街地を抜けて人気のない山道に入った。曇った窓ガラスの向こうでは、いくつもの雨粒が勢いよく後ろに流れていっている。この窓を開けると、ここ数日の雨で水蒸気を含んでしっとりとした山の空気が車内にまで流れ込んで来そうな気がする。うっそうとした木々の色も、雨にぬれてより深みを増したかのように見える。今日は雨の日曜とあって、バスの乗客も少なく閑散とした車内に停留所の案内のテープだけが流れている。

 そのようなバスの座席に、ひときわ目を引く少女が腰を下ろしていた。彼女は薄紅色の着物に紺色の袴をまとい、長い黒髪をポニーテールにしてまとめていた。少女の名は春歌。つい先年までドイツで暮らしていたが、兄のいる日本に憧れて日本に来たのだった。そのような春歌にとって、ドイツとは違う梅雨の景色もとても新鮮に眺められた。

 やがてバスは山道を抜けて、山に囲まれた小さな町に着いた。その町の中心にあるバス停で春歌はバスを下りて雨傘を広げた。雨はまだしとしとと降り続いていて、古い商店が軒を列ねる人気のないくすんだ通りも雨ににじんでいる。

 家並を抜けると田んぼが広がり、田植えが済んだばかりの稲穂の香りが湿気を含んだ空気に乗って春歌の鼻をついた。そして道ばたの水たまりにはいくつもの雨粒が波紋をつくり、あぜ道の草からは雨の雫が垂れている。

    

 春歌がしばしばこののどかな山あいの町を訪ねるようになったのは、春歌がついている華道の師範の実家がここにあるからだった。春歌は一度師範に誘われてここを訪れて以来、その落ち着いた雰囲気が一目で気に入ってしまった。とくにこの町には古いお寺があって、そこの庭を歩くことが春歌のお気に入りだった。

 田舎道をしばらく歩くと、師範の古いどっしりとした家が見えてきた。春歌がいかめしい構えの門をくぐって家の敷地に足を踏み入れたとき、ふと門から玄関までの通路の脇に植えられたあじさいの花が目に止まった。

 春歌はなぜかそのあじさいの花にひきつけられていた。青や紫の、まるで雨ににじんだ水彩画のような清楚で落ち着いた色合いの花たちが降り続く雨の中で咲いている姿を、春歌は軒端でじっと眺めていた。

 しばらくそうしていると、玄関に出てきた師範の奥さんが春歌を迎えた。師範の奥さんは和服をきちんと着こなした、凛とした感じのする女性だった。春歌は客間となっている重厚な和室に通されると、お茶と和菓子を出された。

「こんなに若いのに、きちんとしたお行儀のいい子はいまどき珍しいねえ。着物だってきちんと着こなしているし」

 やがて師範が春歌の前に出てきた。師範も春歌の熱心にけいこに打ち込む様子を高く評価していて、春歌が家を訪れるたびに歓迎してくれた。

 春歌は師範にあじさいの話をした。

「今年はあじさいの花も色づきがよくてね」

 そう言われて春歌は、家の窓ガラスごしに庭に咲き誇るあじさいの花を眺めた。雨の中を咲き誇るあじさいの花を見て、春歌はドイツで祖母とともに過ごした邸宅のことを思い出していた。

     

 春歌が育った邸宅はいつも祖母が植えた四季折々の花で飾られていた。春歌は物心ついたころから、その花壇のそばで遊んでいたものだった。そして初夏になると、あじさいの花が庭を彩った。そして祖母は、春歌にあじさいの花を見せてこう語ったものだった。

「日本では6月ごろになると雨がたくさん降って、その中でこのあじさいが花を咲かせるのよ。だから春歌も、あじさいのような、雨の中でもきれいな花をつけることができるような素敵な女性になりなさい」

 そして春歌は、兄のいる日本に来てからも、そのあじさいの花を見るたびにドイツの祖母のことを思い出すのだった。

──お祖母さま…。今もあの屋敷であじさいの花を見てるのかしら。

    

「春歌、お兄さんは元気かね。この前四月に来たときはお兄さんと一緒だったけど」

「えっ、そんな…」

 師範に言われて、春歌は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「そろそろここでも螢が見られるようになるよ。そのときはぜひお兄さんと一緒にいらっしゃい」

「この前来たとき思ったんだけど、春歌ちゃんのお兄さんもしゃきっとしてていい若者だねえ。これじゃあ春歌ちゃんが自慢するのもわかるよ」

 奥さんにまでそう言われて、春歌はつい夢想していた。浴衣姿で兄と一緒に宵闇が漂う縁側で、螢を眺めているところを。春歌はこんな夏が早く来ればいいなと思った。

──兄君さまとおそろいの浴衣があればいいのにな。

  

 しばらく家の中でお茶を飲みながら話をしていた春歌も、雨が止んで薄日がさしたので、師範夫妻と一緒に近くにあるお寺を訪ねることにした。このお寺は美しい庭園があって、この前に兄と来たときには春歌は咲き誇るしだれ桜の花に目を奪われたものだった。

──あのときは師範の家のまわりの田んぼにはれんげや菜の花が一面に咲いていましたっけ…。道ばたにはたんぽぽやいぬのふぐりが咲いていて。そして師範の奥さんが菜の花の料理を出してくれましたね。兄君様もなんか苦そうにしてましたけど。

 春歌は兄の表情を思い出していつしか笑みを浮かべていた。

 庭園は人も少なくしんとしていて、植え込みの木々が青々と茂ったために以前よりも心なしか薄暗いような感じがした。空気は雨上がりで湿気を含んでいたが、雨でちりを落して庭園の景色がより澄みわたって見えるような気がした。そしてその植え込みの中でも、咲き誇るあじさいの花たちは特に庭園に彩りを添えて見えた。あじさいの葉や花びらの上では、いくつもの雨粒が輝いていた。

 春歌はどっしりとした寺のお堂に詣でた後、道の細かい砂利を踏みながら、苔むした庭園をあちこち散策した。池から流れ出す水が澄み渡って気持ちよさそうだったので、春歌はしゃがんで水面に手をつけてみた。その水面が揺れて波頭がキラキラと輝く様子に、春歌は自分の心のゆらめきを重ねてみていた。

──最近は兄君様も忙しいみたいだけど、もういっぺんここに一緒に来られたらいいのにな…。

  

 夕方になって帰るとき、師範夫妻は春歌をバス乗り場まで送ってくれた。やがてバスが来て、春歌が師範夫妻に別れのあいさつをしてバスの座席に腰を下ろすと、のどかな町の景色が後ろに流れていった。春歌の手には、師範の奥さんが切って分けてくれたあじさいの花が握られていた。

──兄君様にこの花を見せたら、どんな顔をするかな…。

 春歌は家に帰ってから後のことをあれこれと考えて、いつしか笑顔を浮かべていた。


あとがき

 この話は小生としては初のシスプリ小説です。6月といえばあじさい…というわけで書いてみました。ヒロインは春歌ですが、春歌にはこういうイメージがあっているもので。しかし今年は空梅雨で暑い日が続き、若干イメージと異なる面があるかもしれません。またもう今ごろはあじさいの季節も終りじゃないかと言われそうですが…すみません。

 この話の舞台は、わかる方はわかるかもしれませんが、京都の北の郊外にある大原をイメージして書きました。春歌が訪れるお寺は寂光院のイメージがあるのですが、寂光院は現在火災で焼失したとか。でも春歌と一緒に京都や奈良を歩いてみるのも面白そうです。

 それにしてもシスプリは突然の終了から1年たちますが、熱心な全国のお兄ちゃん(お姉ちゃんもいるかな?)たちに支えられているのは心強い限りです。これからもみんなでシスプリを盛り上げていきましょう。今後もシスプリ話は書けるかどうか、書くとしたら誰が主人公になるかわかりませんが、がんばっていきたいものです。

2004年7月16日

Annabel Lee

(追記)

 この話、はじめのタイトルは『あじさいの里』というものだったのですが、いまいちあかぬけないので『五月雨』に変更しました。


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