久留米藩宝暦の一揆年表

第200話 「後ろ向き地蔵」に引用

年号 西暦 月日 出来事
元和06年 1621 有馬豊氏、久留米藩主に。
豊氏時に、三潴郡一丁原村百姓全員が逃亡。
上妻郡椿原村(黒木町)百姓数十名、島原の高力左近太夫領内に逃散。
宝永03年 1706 4月4日 5代藩主頼旨死去。
5月21日 6代藩主則維、襲封。
生葉郡星野村百姓二百余名、庄屋と争い日田代官所に訴え勝つ。
宝永04年 1707 6月 則維、華々しく久留米入り。
正徳01年 1711 8.9 則維、藩財政再建のため「藩主の親政」を宣言。
享保07年 1722 久留米藩牢屋敷を城内から庄島に移す。仕置場は津福村二ッ橋。
享保13年 1728 2月 藩、それまで10分の1だった夏物成を秋物成と同様3分の1に引き上げる。
生葉・竹野・山本三郡を中心に農民一揆起こる。
享保14年 1729 藩主則維、農民一揆・継嗣問題処理で家老と対立。隠居する。
享保19年 1734 農民一揆の功労者・家老稲次因幡が知行を奪われ、御原郡に蟄居させられる。
宝暦01年 1751 9月 盛徳院、津福村に池青寺を再興する。
宝暦03年 1753 11月 幕府から囲籾を命じられ、領内に2万1000俵を貯穀する。
宝暦04年 1754 2月21日 藩主有馬頼ゆき、参勤のため江戸に発つ。
2月22日 藩士とその召使の男女・農工商・僧侶・神官・浪人にまで人別銀の賦課決定。
農工商など8歳以上のすべてに銀札6匁、藩士は高100俵につき銀札10匁。
  3月 徳雲寺虎堂、人別銀反対の意見書を上程。
虎堂、直後に禁錮。その後生国日向へ。
3月20日 農民、生葉郡の若宮八幡宮に一村集まる。
竹野郡の松門寺村印若の野に700~800人が集合。
3月21日 石垣新宮社(田主丸)に300人集合。その後竹野郡で示威行動盛ん。
3月26日 生葉・竹野郡多数、唐島大庄屋打ち壊し。
3月27日 八幡河原に、農民ら3万人~6万人が集会。
北野・江戸・用丸組、西原浜で集会。御井・御原郡でも。
3月28日 上妻郡農民6000人が吉田山に集合。
田主丸・吉井で打ち壊し。
有馬石見、惣奉行らと吉井に出没。
三潴郡も蜂起開始。田川原に集合して夜明大庄屋宅打ち壊し。
上妻郡では、2000人集合して福島(八女市)の銀札引換え所打ち壊し。
3月29日 小江浜(現吉井)に訴状箱を置く。双方より貼り紙で応答。
上妻郡本分(現黒木町)で1000人、大庄屋宅打ち壊し。
上妻郡福島の大庄屋宅、新庄大庄屋、羽犬塚庄屋宅など打ち壊して吉田山に。
藩、郡奉行を江戸に派遣。
3月30日 三潴郡田川原に農民3000人が集合。
所々で大庄屋・庄屋・富商宅打ち壊し。
この日までに、総郡農民が人別銀反対のほか20数項目の要求を藩に提出
家老有馬石見・惣奉行山村典膳、訴状受け取りのため生葉郡橘田の庄屋宅に。
有馬石見、小江浜で「何れも願いの通り(人別銀撤廃)」の書付を百姓に渡す。
八幡河原でも。
百姓、受け入れ。小江・八幡河原の一揆勢居村に引き揚げる。
4月2日 家老有馬石見ら、連署して各地農民に「願いの通り詮議する」旨回答。
農民ら居村に引き上げる。
4月5日 郡中大庄屋に、詮議の間閉門申し渡す。
4月 5月下旬にかけ、各地で村役人の不正追求と小作条件改善要求。
6月 一揆指導者への詮議開始。捕縛300人。
8月27日 首謀者ら18人、二ッ橋仕置き場で処刑。
郡追放39人、村払い32人、過料47人。
10月27日 第2次処分、19人が死刑。
10月29日 野中町了徳寺、一揆のときの「徒党同然の仕形」を咎められ、閉門。

第一次処刑者

在所名 生業 名前 量刑
竹野郡野中村 庄屋 八郎右衛門 死刑
御原郡井上先 大庄屋 八郎兵衛 死刑
竹野郡野中村 百姓 久兵衛 梟首
竹野郡高木村 百姓 丹四郎 梟首
生葉郡夏目村 百姓 藤七 梟首
生葉郡西溝尻村 百姓 勘右衛門 梟首
山本郡山本村 百姓 與九郎 梟首
竹野郡立野村 百姓 長右衛門 刎首
竹野郡石垣村 百姓 藤四郎 刎首
竹野郡問ノ上村 庄屋 忠助 刎首
竹野郡小田村 百姓 利七 刎首
生葉郡夏目村 百姓 勘右衛門 刎首
生葉郡星野村二田原名 百姓 七兵衛 刎首
御原郡干潟村 庄屋 三郎右衛門 刎首
御原郡横熊村 百姓 次右衛門 梟首
上妻郡詫間田村 百姓 清八 梟首
三潴郡壱丁原村 百姓 伝次郎 梟首
御原郡松崎村 百姓 又八 刎首

第2次処刑者

竹野郡高木村 清左衛門 刎首
竹野郡吉田村内今屋敷 弥三郎 刎首
竹野郡亀山村 庄屋 伴蔵 刎首
竹野郡門上村 庄屋忠助の子 忠左衛門 刎首
生葉郡星野村竹脇名 藤九郎 刎首
御原郡下岩田村 小左衛門 刎首

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