No.010
2023年05月07日


望東尼(博多人形)

野村望東尼とは、どんな人物?
1806年~67年を生きた人。 幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士の妻。夫の死後尼となる。本名はもと子。大隈言道に和歌を学ぶ。高杉晋作・平野国臣ら志士の活動を援助した。歌集「向陵集」。 (教研出版刊 日本史辞典)

流刑の姫島


現在の姫島 左の集落の端に獄舎があった。

 幕末の動乱期。福岡藩主黒田長溥による大弾圧(乙丑の獄)により、望東尼は姫島(現糸島市志摩姫島)に流刑となる。獄舎は、海に面した丘の中腹にあった。建物は縦1間半、横2間で、中に4畳ばかりの板敷きがあった。そこに1年間閉じ込められたのである。
「島流し」は、獄の周囲が海であるため、囚人の逃走は容易ではない。その分、外部の漁民・家族との交流は難しくなかった。和歌つくりを生業とした望東尼は、わずかばかりの隙間から見える海や彼方の島影を眺めては、和歌を詠んだ。
そして、高杉晋作の援助を受けた志士たちが、望東尼救出作戦に出る。・・・

入牢して二十日ほど経った頃、望東尼は獄舎の柱に自分の歌を書き記した。

またここに住みなむ人よ耐へがたくうしと思うは二十日ばかりぞ
   次に入る人よ、耐えがたく辛いと思うは最初の二十日間だけのことですよ。
   
流刑の牢獄(御堂)
   
獄中から見える玄界灘
 
のどかな漁村
   
望東尼御堂前の像
   
姫島漁港
     
     

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