伝説紀行 浜田の六体神さん みやま市(瀬高町) 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第341話 2008年11月16日版

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。
ろくてさん

みやま市(瀬高町)

 旧瀬高町が高田町(旧三池郡)と接するあたり、小字名を「浜田南」と呼ぶ集落がある。町の南端で、西には矢部川が蛇行している。そのむかしは「浜田南小路」と言ったそうな。村の氏神天満宮の裏手の竹藪に、「六体神の碑」と彫られた貫禄十分の石碑が建っていた。地元では「ろくてさん」と呼んでいる。石碑を取り巻くようにして、高さが30センチほどの3体の人形と、お墓らしい3体の碑が等間隔に立っている。合わせて6体の神さまということらしいのだが、祀られているお方とは果たして…。

壇ノ浦の残党が…

 時は、鎌倉時代が始まってまもなくの頃である。壇ノ浦での源平合戦からはしばらくたっている。最近、十数人のよそ者がこの里に入り込んできた。見かけは百姓だが、目つきや身のこなしは、どう見ても槍や劒が似合いそう。里人は、彼らが何者なのか薄々わかっていたが、わざと無関心を装っていた。下手に関われば、よくないことが降りかかってきそうな予感がするからだ。写真は、合戦中の源義経茣蓙舟(下関市赤間神宮)
 日の出の勢いだった平家も、総帥清盛入道が没した後は落ち目の三度笠であった。安徳幼帝を御頭に一族郎党が瀬戸内海を西へ西へと逃げることに。そして、流れが厳しい壇ノ浦で、源義経率いる源氏軍と激突する。源氏は白旗、平家は赤旗を掲げての海上戦闘は延々と繰広げられた。
 戦況不利と判断した、総大将が敵の軍門に下ることを拒んだために、安徳幼帝はお祖母さまに抱かれて海中深く沈んでいった。
 戦い敗れた平家軍は、海峡に飛び込み、ある者は九州側の門司へ。そしてある者は本州の下関に上陸して姿をくらました。

女性とともに

 九州に上陸した平家の残党は、西へ東へ逃げ惑い、隠れ場所を探した。浜田南小路に逃げ込んだ者たちは、武器を捨てて農耕に精を出すことで、源氏の目を誤魔化すことに努めた。里人たちも、突然入ってきた彼らが平家の落人だろうとは思っている。しかし、皆んなして必死に開墾する姿を見ると、「ここに隠れています」と訴え出ることはできなかった。それどころか、彼らが厄介な野盗を追い払ってくれたり、矢部川に橋を架けてくれたりしてくれることから、恩義すら感じるようになっていた。
 どこをどう捜してきたのか、女7人が落人たちを尋ねてやってきた。一行は、召使いと称する年増の女と若い女性(にょしょう)6人である。
「申し訳ない、我らは…」
 頭らしい男が、村長(むらおさ)の長兵衛に頭を下げた。
「心配しなさんなって。あんたらがどこの誰であろうと、私らには関係ねえこつじゃから。一度この地においでなさった以上、身内として遇するのが村の決まりでな」


 長兵衛は、女性たちをしばし匿うことにした。時世と名乗った召使いの女は、姫君たちを守るために、常に周囲に目を配った。

憎い白鶏

 しかし、いつの世にも裏切り者はいるもの。何者かの通報を受けた源氏は、100人を超す軍団をなして襲ってきた。鍬を劒に持ち替えた彼らは、必死で戦った。だが多勢に無勢、一人また一人と斬り殺された。その時、物陰で息を殺している女性(にょしょう)たちは、追手の去るのを祈るばかりだった。
 生き残った男らは、「必ず戻ってくるゆえ、ここを動くでない」と言い残して、間もなく矢部川を渡った。追手も、それ以上の追撃を諦めて引き揚げにかかった。
 そのときである。「コケコッコー」と甲高い雄鶏(おんどり)の鳴き声が。驚いて振り返る目の先に、これ見よがしに赤い鶏冠(とさか)を振り回し、大きく羽ばたく白い鶏が。鶏の向こうには、敵の退散に安堵して立ち上がった女性7人が見えた。
「あれにおるのは!」、追っ手が刀を構えて引き返してきた。


写真は、浜田南の天満宮


「我らは誇り高き平家の(おなご)ぞ。源氏に捕まって(はずかし)めを受けるくらいなら…」
 女性の一人が、竹薮の中の古井戸に飛び込んだ。「そうじゃ、わらわも」と二人目が。そして次々に6人の女性が…。
「お願いがございます。あの姫君たちのお墓をこの場所にぜひ。さすれば、戻ってきた殿方たちにご供養していただけましょう」と、時世が村長に頼んだ。
「あ、それから…」、聞き入る長兵衛に時世は一言。「私奴は卑しい女。姫君たちとは別の場所に」と言葉を発して、すぐさま井戸の囲いを飛び越えた。すべてが、源氏方の追手が迫るまでの瞬時の出来事であった。
 それからというもの、浜田南小路の皆さんは、けっして白い鶏(源氏の象徴)を食べなくなったとか。

 訪ねた「六体神さん」の石碑は、民家の庭先を通り抜けた裏側の竹薮の中にあった。村の物知り博士に尋ねると、貫禄の石碑が建っている場所には、もともとは深い井戸が掘られていたのだそうな。相当に大きな井戸であったことが伺える。
 小字名、浜田南の方々は、毎年9月15日を「墳(つか)祭り」と称して、お坊さんにお経をあげてもらい、六体神さんの霊を慰めているとのこと。また、12月15日には、旗を立てる慣わしが残っているとも。もちろん旗の
赤色は、壇ノ浦合戦時に平家軍が掲げた色である。
 気になることだが、6体の石碑(墓石)が女性(姫君)のものであることはわかるとして、召使いの時世の墓はどこへいったのか。「それは…」と、物知り博士。六体神さんから3メートル離れた木の根っこに、やはり同じ大きさの石碑が一つ。それが時世の墓であると。
 また、石碑の近くから、白骨が掘り出されたとき、それこそ平家落人の激闘の跡だと言う人が多かったとも聞かされた。
写真は、人形を模った石碑(向こう側)と墓石(手前)

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