伝説紀行 唐尾の地蔵さん 延命地蔵 みやま市


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作:古賀 勝

第334話 2008年05月25日版

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

鳩になったお染さん

みやま市(旧瀬高町)


唐尾の延命地蔵さん

 矢部川に架かる南筑橋の袂に、「唐尾の延命地蔵」が祀られている。樹齢300年の楠の大木をぬって流れる矢部川は、むかしは久留米と柳川の藩領を分ける境目だった。そのためか、当時の川の名前を「境目川」と称した。正式に「矢部川」と呼ぶようになったのは、明治5年以降のことである。
 江戸時代には、両藩の間で、川の水を巡ってもめごとが絶えなかった。稲作にとって、水は死活を左右する大切なものだったからである。しかし、いったん大雨が降ると、人々は洪水の恐怖に晒される。人間って勝手なもので、そんな時柳川藩の人は、川の水を対岸の久留米藩側に押しやろうとする。そんな、江戸時代半ばの元禄年間(1688〜1704)のことであった。

漁師に呼び出しが

 与吉は、今日も境目川で投網(とあみ)を打っている。漁師にとって、網にかかる鮎や鯉、川エビなどは、何ものにも替え難い天の恵みなのである。


写真は、南筑橋下を流れる矢部川

 与吉が漁に出ている間、一人娘のお染は、今日も父が無事でありますようにと祈りながら畑仕事に励んでいた。
 だが、戻ってきた父の顔色が冴えない。魚籠(びく)には、いつもよりたくさんの魚が入っているのにである。
「どうした?お父っちゃん」
「庄屋さんから、呼び出しを受けた」
「それがどうしたと?」
「わからんばってん、ものすごかこつば言わるるごたる気がして・・・」
 与吉は、嫁のフサが差し出した湯飲みにも触れず、奥に籠もってしまった。
魚籠:獲った魚を入れる器。

水神さまに娘を捧げろ

 その晩出かけた与吉は、とうとう翌朝まで戻ってこなかった。心配したフサとお染が庄屋の屋敷に迎えに行った。
「実はな・・・」
 座敷に上げられたフサとお染を前に、座りなおした庄屋の弥右衛門が語り始めた。
 昨日、普請奉行の田尻惣助に呼び出された弥右衛門。
「唐尾の瀬に(はね)を造る工事が、相次ぐ大雨のために難渋しておる。八幡大明神のご託宣によれば、20歳前で横縞の着物ば着た無垢の娘を水神に捧げよとのこと。この工事には、立花藩の命運がかかっておるゆえ、三日以内に該当者を探し出すように」だと。
 最後は、庄屋ごときに有無も言わせぬとの奉行の威圧であった。


唐尾の刎跡

 田尻惣助といえば、息子の総馬とともに、境目川や有明海沿岸の護岸工事などで辣腕を振るう「鬼」と怖れられる奉行である。
 最近では、上流の曲松から山下までの1300間(2340b)の護岸工事を完成させたばかりだ。この工事、「千間土居(せんげんどい)」と呼ばれるもので、岸辺から川中央に向けて石組みをし、水勢を分散させる「刎(はね)」を築く工法であった。土居の完成で、左岸一帯の70町歩が一挙に良田に変身した。
 そうなれば当然、対岸の久留米藩が黙っていない。そこで柳川藩の田尻は、「隠し刎」という禁じ手を使った。農民を酷使して、相手に気付かれない素早さで工事を敢行することである。

気丈な娘が決めた

 大変なことを仰せつかった庄屋は、やむなく家人を使って村中から該当者を探した。そこで見出したのがお染だった。
「あの娘は、私ら夫婦が毎朝毎晩、境目川で禊をして授かった大切な宝物です。横縞の着物も、可愛い娘のためにと、嫁が夜鍋をして縫ったものです。無茶なことを言わんでください」
 弥右衛門に呼び出された与吉は、必死に抵抗した。
「わかっておるが、奉行さまには逆らえん。堪忍してくれ」と頭を下げられれば次の言葉も出ず、出された酒をがぶ飲みしているうちに、帰りそびれたのだと言う。
 フサとお染を前にして弥右衛門は、「わしがこの首を奉行さまにさしだせばすむこと。与吉もお染も、今までの話しは聞かなかったことにしてくれ」と言って頭を下げた。庄屋屋敷に沈黙が続いた。
「お父っちゃん、お母しゃん。唐尾の村から庄屋さんがいなくなったら、皆んなの暮らしがおかしゅうなりまっしょ。この身を水神さまに差し出すことで村中が幸せになるのならお安いことです。どうか私の我がままをお許しください」

消えた娘が白鷺に

 その日は、梅雨末期の土砂降りだった。
父がさす蛇の目の下で、母に手を引かれた白無垢姿のお染が工事現場に現れた。
「皆さま、これまで私ら親子を親切にしていただいて、ありがとうございました」
 お染は、見送りにきた村の衆に深々と頭を下げると、履いていた草履を脱ぎ、刎の岩に登った。
「皆さま、さよなら」の声を引きずるようにして、お染の体は境川の濁流に消えていった。あっと言う間のことであった。
 それから何時(なんどき)がたったろう。それまで音を立てて流れていた濁流が、突然静かになった。レンガ色に染まっていた水も澄みきり、川面は鏡のように滑らかに変わった。
 その時である。どこにいたのか、真っ白い羽を広げた大きな(さぎ)が、刎の岩をかすめるようにして飛び立った。その姿は、お染の白無垢姿と重なり、人々の目を惹きつけて離さなかった。


南筑橋

 唐尾の刎は、間もなくして完成した。それも、久留米藩からは何の対抗措置もなくである。
 今後は水難がかからないように、また福島道を行く人々の旅が安全でありますようにと、村人はお染の分身である延命地蔵を刎の傍に建立したのだった。それが今、南筑橋の袂に立っておられる地蔵さんの由来だそうな。(完)

 南筑橋といえば、第248話の【日源と筑後の和紙】で紹介したところ。むかしは、刎の側で渡し舟が活躍していたのだろう。
 南筑橋を渡る道(福島道)は、江戸時代まで、鹿児島に通じる「坊津街道」(現在の国道209号)の脇道として大変賑やかな往還であった。細い道を鍵形やカーブに注意しながら走っていると、300年前にタイムスリップした気分になれる。
 さて、矢部川の堤防であるが、確かに柳川領(左岸)の護岸は分厚く強固にできている。しかも、河川敷から堤防にかけて、隙間なく楠の大木が生い茂っている。この楠、千間土居(せんげんどい)や唐尾の刎が築造された折に植樹されたものだそうな。
 お染の怨霊が立花藩(柳川)を怖れさせ、供養を兼ねた植樹であったと見るのは、少し考え過ぎかな。

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