伝説紀行 曽我の供養塔 みやま市 古賀 勝作 


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作:古賀 勝

第331話 2008年04月06日版
再編:2016.10.16

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

曽我の供養塔

みやま市(旧瀬高町)

 


曽我兄弟の供養塔

 旧瀬高町の東方・清水山(きよみずやま)を登っていくと、突然赤い(のぼり)が林立している。幟には、「西国三十三ヶ所霊場」と白抜きされている。文字通り霊気漂う細道を進むと、古びた木造寺院が現れた。叡興寺(永興寺とも)という古刹だ。ご本尊は、平安時代の名僧恵心僧都(えしんそうず)(本名源信)の作と伝わる千手菩薩だそうな。
 境内には、所狭しと石仏や石碑などが置かれている。その中の2基の五輪の塔が目を惹いた。

僧都:僧綱の一つ。僧正に次ぐ僧官。各宗派で僧階の一つ。

矢部川ほとりに巡礼が

 源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍となって間もなく(1193年5月28日)、将軍のお膝元で曽我十郎・五郎兄弟による仇討ち事件が勃発し、世の人々を驚かせた。「曽我物語」として、謡曲や歌舞伎などで有名である。
 それから5年ほどたった頃、ここは九州筑後瀬高の矢部川のほとり。野良仕事を終えて帰る途中の梅太郎夫婦に、旅の女が声をかけた。見たところ20歳(はたち)前後のうら若い巡礼であった。


孟宗竹林の間をぬう叡興寺への道

「あれに見ゆるは、叡興寺さんがおわす清水山でしょうか?」
「そうだが。もう夕方だし、女が一人で行くには厳しすぎる山だ」
 梅太郎は、遠慮する巡礼娘をなだめて家に連れて帰った。女房がつくった温かい夕飯を馳走になると、娘は少しずつ理由(わけ)を語り始めた。
「私の名前は、トラと申します。都の源信上人が開かれた永興寺さんには、ぜひお詣りしたいと思いまして・・・」、遥々やってきたのだと言う。
 翌日梅太郎は、トラを案内して孟宗竹が生い茂る清水山の細道を登っていった。

恋しいお方の供養のために

 1刻半(3時間)ほど登ると、目の前に質素なお堂が見えてきた。


現在の永興寺(叡興寺)本堂

「ここが叡興寺永興寺さんの本堂たい」
 やっとのことでたどり着いた安堵からか、トラは思わず溢れる涙を両手で拭った。
「私は、富士の麓の大磯という所で、男衆のお相手をしておりました。その折、好きになったお方が、後にお父上の仇を討たれたあと、弟君ともども斬首となりました。女心の(はかな)さとでも申しましょうか、亡くなってなお恋しさが募り、御霊を慰めるために諸国を行脚しているところでございます」
 トラは、読経を唱えてくれた住職と梅太郎に、身の上を語った。
「この寺を開いた源信というお坊さんって、そんなに偉い人なんですかい?」
 梅太郎の問いには、寺の住職が答えた。
「お上よりいただかれた名前を恵心僧都と申されてな。今から120年も前に都で活躍されたお方じゃよ。人間は、生きている間の様によって極楽浄土に進むか、それとも怖ろしい地獄の果てに落ちていくのかが決まるのだとお解きになった」
 続けてトラが・・・。
「ですから私は、愛するお方には源信さまのお導きでぜひ極楽への道をお進み願いたいのでございます」

毎日山寺に通って

 梅太郎は、トラが愛する人の冥福を祈るため、敷地内に質素な庵を建ててあげた。それからというもの、トラは決まった時間に山に入った。2ヶ月もたち、さくらの花が咲き乱れる季節となって、トラが母屋の梅太郎夫婦に挨拶に現れた。
「長い間親身になってお世話くださったこと、生涯忘れるものではございません。お陰さまで、厳しい山を登り、思う存分経を唱えることが叶いました。必ずや、源信和尚さまは、愛するお方を色とりどりの花に囲まれた極楽浄土へとお導きくださることでしょう」
 晴れ晴れとした表情で向き合うトラを、眩しく思う梅太郎であった。
「そんなに急がなくても、もうちょっとゆっくりしていけばよかに・・・。それに俺はあんたにもっと訊きたいこつもあるけん」
「それ以上は、どうか訊かないでください。聞いてしまえば、必ずや、貴方さまに大変な災難が及びます」
 トラは、その日のうちに庵を畳んで旅たっていった。

曽我兄弟の塔

 トラを見送ったあと、梅太郎は叡興寺に登った。境内には、出来立ての五輪の塔が2基供えてあった。
 庫裏から顔を出した住職が、「一つは曽我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)」、そしてもう一つは、弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)を供養する五輪の塔だと教えてくれた。


虎御前が庵を結んだ女山付近

「まさか!」 梅太郎が絶句した。
「そのまさかじゃよ。あの巡礼は、征夷大将軍であられる源頼朝(みなもとのよりとも)さまのお狩り場で、親の仇討ちを果たした曽我十郎殿の恋人じゃったんじゃよ。恵利僧都(えりそうず)(源信の尊称)を尊敬するトラ殿は、わざわざ瀬高荘までやってきて、愚僧に弟君ともども、供養塔を建ててくれるよう願い出たというわけじゃ」
「そうだったのか…」
 梅太郎は、トラが旅立つ際に「これ以上訊かないで」と言ったわけがようやく理解できた。(完)

 曽我十郎の恋人・虎御前は、「大磯の虎」と呼ばれる遊女であった。遊女といっても、今日言われる女性の職業とは異なる。良家の育ちと教養を身につけた、上流階級に属する身分だったようだ。
 たまたま客となった曽我十郎と深い恋仲になり、兄弟が仇と狙う
工藤祐経(くどうすけつね)の動向を探る役目を負うことになる。
 虎御前は、十郎と五郎兄弟を亡くしたあと、諸国を巡って兄弟の死後の安寧を念じた。そんなことから、九州各地にも虎御前の“足跡”が伝説として多く残っている。
 叡興寺のある瀬高(みやま市)は、外にも「卑弥呼の里」として名乗りを上げている。我が尊敬する小説家の亡き黒岩重吾先生は、邪馬台国は北部九州の瀬高にあったと言い切っておられた。大陸に近く、全国を支配するのに絶好の位置だと推定されたからだ。紀元前の渡来伝説にある徐福もまた、瀬高を本拠として活動したと言われている。
 秋には赤米を収獲し、正月には幸若舞い(日本で唯一の保存文化財)が催される土地柄からみても、虎御前の存在がますます現実味を帯びてくる。本文の元をなす資料もまた、それなる「幸若」の台本からなっている。

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