伝説紀行 七つの厄年 うきは市 古賀勝作


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作:古賀 勝

第330話 2008年03月23日版

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

七つの厄年

原題:七つになる厄病

うきは市(旧浮羽町)


小学生のふるさと自慢(姫治バス停に展示)

 旧浮羽町の中心部から隈上川に沿って登って行くと、カッコいい白亜の建物が見えてくる。うきは市立姫治(ひめはる)小学校の校舎である。昭和26年まで「姫春村立」だった。村全体が山また山で、川に沿って民家が立つ典型的な山村。
 この村では、12月1日にぼた餅を作って、子供の成長を願う風習があると聞いた。その(いわ)れとは。

大蛇に捧げる七つの娘

 まだまだ迷信が大手を振ってまかり通った江戸時代。隈上川(くまんうえがわ)のほとりでつつましく暮らす家族がいた。母のミソノさんは、脇目も振らずに娘の晴着を縫っている。
「可哀想にない。ミソノさんよ」
 近所に住むサト婆さんが、重箱いっぱいにぼた餅を詰めてやってきた。
「仕方ないやね、こればっかしは・・・」
 寒いのか悲しいのか、ミソノさんは、グシュグシュ水洟(みずばな)を啜り上げながら応えた。7歳になる娘を、底なし淵に棲む大蛇(おろち)に捧げる日が明日(12月1日)に迫っている。もし、大蛇への捧げを怠ろうものなら、大災害が起こって村の全てが壊滅すると言われている。母は村の犠牲になる娘のために、“晴着”を拵(こしら)えていたのであった。
「選ばれたことを、幸運ち思わなきゃない」写真は、姫治風景
 ミソノさんは諦めたような口ぶりで、指先だけは縫い針に集中していた。

ひと月早く年齢をとらせ

「ミソノさんよ、こんぼた餅ば玉江に腹いっぱい食わせろ」
 サト婆さんが、下げてきた風呂敷包みを解いて差し出した。
「なしてですか?正月にはまだひと月も間があるちいうに」
「七つ(7歳)の玉江にぼた餅ば食べさせて、ひと月早か正月ば迎えさせたらよかとたい。そうすりゃ玉江も一つ年齢(とし)ばとって八つ(数え年齢)で大蛇のもとへ行けるじゃろが」
 サト婆さんの言っていることが十分に飲み込めないまま、ミソノさんが娘を呼んだ。出てきた玉江に、サト婆さんが何やら耳打ちした。母は、必死に涙を(こら)えながら、「もう一つ食え」と娘に勧めた。
「うまかよ、母ちゃん。うちもこれで八つになって、大蛇さんのとこに行けるとじゃね」
 無邪気に笑顔を振りまく孫娘に、サト婆さんが言い放った。
「玉江よ、心配せんでよかよ。お前はほんによか()じゃけん、大蛇なんかに負けはせん」
 意味深長な婆さんの言葉に、ミソノさんの頭はますますこんがらがった。

七つの娘が「うちは八つよ」

 寺の鐘が鳴って、いよいよ運命の日がやってきた。慣わしによって、淵までの見送りは村長(むらおさ)が1人で勤めることになっている。
 2人が闇夜に消えてから1刻(2時間)も経った頃。ミソノさんの家に、ずぶ濡れになった村長と玉江が戻ってきた。村長が話すには・・・。
 長岩城近くの淵の水辺に玉江が立つと、10間(18b)ほどもある大蛇が、鎌首を宙に浮かせた。耳まで裂けた真っ赤な口から吐く炎が、今にも玉江に飛び掛ろうとする。
「うちは七つじゃなかよ。八つだよ!」
 叫んだのは玉江である。すると大蛇は、大きくジャンプしてそのまま水中に沈んでいき、再び水面に姿を現すことはなかった。
 その時の大蛇のジャンプの飛沫(しぶき)で、2人の着物がずぶ濡れになったという。
 考え込んでいたミソノさん。「物知りのサト婆さんや。娘と大蛇にいったい何があったとですか?」と問うた。

 サト婆さんが話すには、大蛇は村人に7歳の娘を生贄(いけにえ)にと要求した。だが、正月のぼた餅をひと月前に食って、8歳になった玉江には大蛇の方が何の興味も示さなかったというわけ。村一番の知恵者であるサト婆さんが、可哀想な玉枝のために一世一代の知恵を搾りだした結果だった。
 それからである。姫治村では、大蛇の要求を退けるために、ひと月早い正月をと、7歳の娘にぼた餅を食べさせるようになったのは。それがいつしか、子供の健やかな成長を願うためにと、毎年12月1日にぼた餅を作る習慣ができたとさ。(完)

 隈上川に沿って、前津江村(日田市)に通じる県道が走っている。バス停を覗くと、小学生が描いた絵が陶板になって飾ってあった。「私たちのふるさと」を描いている。美しい棚田があって、透き通る水が流れる。そして青々とした木がいっぱいの姫治なのだ。
 山間部を取材するたびに思うことだが、こんなに美しいところでも、昔の暮らしは厳しかったに違いない。今では道路があり車もある。電気と電話、それにパソコンがあれば他家や他所との通信は自由自在だ。買い物だって何の不自由もなさそう。水と山菜が住民の暮らしを更に豊かにしてくれる。


姫治小学校

 でも、である。村で生まれ育った子供たちが、大きくなっても働く場所がない。従って、ご多分に漏れず過疎化は加速する。国の施策で何とかなりそうなものだがそうもいかない。せめて、街に住む我々がもっと足しげく通うことが、彼らに次なるエネルギーをもたらすような気もするのだが・・・。
 さて、12月1日のぼた餅であるが。今日もなおその風習が残っているのかどうか、お分かりの方があったら是非教えてください。

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