伝説紀行 本郷の行基橋 みやま市 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第326話 2008年02月17日版
再編:2018.01.28

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

本郷の行基橋

みやま市瀬高町

 旧瀬高町の本郷地区を流れる沖端川(おきのはたがわ)に、「ぎょうぎ」という名の橋が架かっている(写真上)。奈良時代に社会奉仕を生き甲斐とした偉いお坊さんの名前に因んでいるらしい。橋の袂には、その行基僧を祀るお堂まで建っている。
 果たして、ここ瀬高の本郷村と全国的に名高い行基僧がどこで結びつくものやら、訪ねた。

耕地は狭いし、川は渡れないし

 遥か1300年も大むかし。本郷の人々は、わずかばかりの畑に、稗・粟などを植えて細々と暮らしていた。矢部川や沖端川がいったん氾濫すれば、収獲間近の作物が一夜にして流されてしまう。
「辛抱強く畑を耕して種を植える繰り返ししかなかとたい」
 村長(むらおさ)の徳兵衛さんは、農家を一軒一軒回りながら、叱咤激励(しったげきれい)した。
「せめて、川の流れがもうちょっとでも緩やかだったら・・・」
 ため息をついているのは、働き盛りの六造である。畑に出るにも、川に転がる岩を伝って向こう岸に渡らなければならない。雨が降れば、こちらでじっとしているしか方法()がない。
「自由に川を越えられれば、もっといろいろなことがやれるもんなた」
 六造は、徳兵衛さんを前にして愚痴ばかり。調子を合わせる村長(むらおさ)とて、これといった妙案があるじゃなし、一言喋ってはすぐに黙ってしまう。

旅の坊さんが橋を架けると言う

 その時、表で鈴の音が聞こえた。出てみると、裾が擦りきれそうな衣をまとった旅の坊さんと、連れらしい男が立っている。
「お悩みのようじゃな・・・。愚僧とこれなる平太で橋を架けて進ぜようか」
「何を言い出すかと思えば、夢みたいなことを」
 徳兵衛さんは、旅の僧の提案をまるで受け付けようとしない。
「でも、皆さんお困りなんでしょう、橋がなけりゃ」


行基橋袂の行基像

 坊さんはさっさと歩き出して、沖端川の岸辺に座り込んだ。何刻(なんとき)ほどたったか、飽きずに川の流れや岸辺の様子を舐めるように見回している。
「馬鹿らしかですよ、徳兵衛さん。早く帰って縄でも()いまっしょう」
 六造は、舌打ちをしながらさっさと帰っていった。

どこからか資材と人夫が

 次の朝徳兵衛さんが現場を覗くと、坊さんも平太の姿も見当たらない。
「とうとう逃げ出したか」
 そのとき、昨日の坊さんがツルツル頭をかきながら(しも)のほうから戻ってきた。呆れ顔の徳兵衛さん。
「もうどうぞ、私どもにはお構いなく、お引取りください」
「なんの、なんの」、坊さんが右手首を振り子のように揺らしながら、今来た方向を指差した。
「なんだ、あれは?」
 徳兵衛さんと六造が驚くのも無理はない。数十人の男たちが10台ほどの荷車に、大きな丸太や厚板、それに土嚢(どのう)などを満載してやってきたのだ。
「面目ないが、愚僧の懐には銭がない。銭がなけりゃ資材も買えぬし、人夫も雇えんでな。そこで、上庄(かみのしょう)から下庄(しものしょう)蒲池(かまち)まで歩いて、お願いして回ったのさ。よくよくお話ししていると、皆さんここに橋ができれば便利になる人ばかりだった。そこでこんなに上等の丸太や板を恵んでくださったってわけだ。それに力自慢も無償で申し出てくれた。もう大丈夫ですよ。橋はすぐに架かります」

住民団結で橋が完成

「見ず知らずのお坊さんにそこまで面倒かけて、肝心の本郷村の者がじっとしているわけにもいきまっせん」と、徳兵衛さんの一声で、村の隅々から人と兵糧が掻き集められた。それから5日もたつと、沖端川に人や荷車が安心して渡れる橋が完成した。橋だけではない。坊さんは、湿地から水をぬき、耕地にするまでの技術まで教えてくれた。
「これで、雨が降っても向こう岸に渡って作業ができる。あの泥濘(ぬかるみ)が田んぼに変わりゃ、米でん稗でん野菜でん、いくらでも作れるたい」
 村人がはしゃぎまくっている傍で、徳兵衛さんが浮かぬ顔。
「あの、大恩人のお坊さんと平太どんが、どこを捜してもおらっさん・・・」
 通りかかった旅人の話では、それらしいお人が、千歳川(筑後川)沿いを東へ登っていくのを見たとのこと。更に不思議なことは、あれほどまでの人手や資材を提供してくれた人がどこの誰だったのか、とうとうわからずじまいだった。
「あのお坊さんは、いったい何者なんだ?」
「まさか、人助けをなさる菩薩さまではあるまいの?」

(完)

 その時の旅のお坊さんは、実は仏教本来の姿である「広く民衆を救う」を実践すべく諸国を行脚中の行基僧だったんだと。行基僧は、奈良の大仏建造にも貢献し、時の聖武天皇から破格の「大僧正」の位をも受けている。都人(みやこびと)はそんな僧の遺徳を称えて「行基菩薩」と崇めた。


橋の袂の行基堂

 本郷の村人は、行基僧への感謝の気持ちを橋の名前に託した。現在右岸に建つ真新しい「行基菩薩堂」が、そのことを何よりもよく物語っている。
 行基橋は、本流である矢部川から分流して間もなくの沖端川に架かっている。矢部川と沖端川の間にある三角地帯が本郷地区ということになる。周囲を見渡すと、沖積平野らしくまっ平らな地面に穀倉地帯が広がる。地形から推測して、古代のこの地は有明海の入り江に近く、相当の湿地であったろう。人々は、土に含まれる水分を根気よく抜いて耕地を広げていったに違いない。抜いた水の流し先が、矢部川や沖端川であったことは言うまでもない。
そんな技術まで行基僧がこの地に残したのであれば、まさしくふるさとの大恩人だ。
 行基堂から目を東に転じると、一日に何人の乗降客があるのかもわからないまま、新幹線船小屋駅の建設中だ。国民が汗水流して稼いだ金を湯水のようにこき使っておいて、「国からお金を持ってきた大恩人」と言わせたい元自民党幹事長と比べること事態、行基菩薩さまが余りにも可哀想だな。

 何故か最近、行基橋周辺をさ迷うことが多い。新幹線船小屋駅と隣り合わせにできた在来線の船小屋駅に降り立つことが多くなったから。
 そうなんです。駅の目の前にプロ野球のソフトバンクが豪華な二軍基地を建設したものだから、人の行き来も激しくなった。勧誘したであろう元自民党幹事長さんは、「そうだろうが」とほくそ笑んでいるに違いない。なにせ、国道3号線から行基橋まで、広すぎる運動公園が広がっている。やっぱり、町起しを成し遂げるには、実力ある政治家が必要なのかな。
 待て待て、結論を出すのはまだ早い。あと10年もたって、その後矢部川の水利はどうなったか、便利になった人と国民全体の暮らしのつり合いは。そして、行基僧が心配してくれた農民の暮らしは、など、総合的に判断しなければ分かったものじゃない。(2018年01月28日)


沖端川:山門郡瀬高町から柳川市に流れる一級河川。流長14.2キロ、流域面積48.4ku。矢部川の派川で、瀬高町本郷の松原堰から分流し、三橋町を経て柳川市に入り、吉富町と昭南町の境界で有明海に注ぐ。

上庄:矢部川下流右岸の平野部に位置する。地名は、瀬高荘が大治6(1131)年、矢部川を境に上・下両庄に分けられたことから起こる。

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