伝説紀行 「流川」地名の由来 うきは市 古賀勝作


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作:古賀 勝

第323話 2008年01月20日版
再編:2017.10.29 2019.08.25

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

茶畑のお地蔵さん

「流川」地名の由来

うきは市浮羽町


大生寺山門

 旧浮羽町役場庁舎(うきは市)から南へ1キロほど下り、巨瀬川(旧名巨勢川)を跨ぐ橋から下流域を「流川(ながれがわ)」と呼ぶ。川辺から望む耳納山の中腹に、甍が見えた。大きなお寺である。境内に踏み込んだ瞬間、身が引き締まるほどの静けさが待っていた。延暦元(782)年に創建された五葉山大生寺(ごようざんだいしょうじ)だと。

行基(ぎょうき/ぎょうぎ);、奈良時代の僧

 寺の中心をなす仏殿は、広さが5間半4方(約98u)もあり、ご本尊の薬師如来は行基の作と伝えられる。
 寺から眺める筑後平野は、大家が描いた油絵のように美しい。寺の周りは葉を落とした柿畑だが、そのむかしは広大な茶畑であって、戦国時代の古戦場跡だそうな。

茶畑が戦の舞台に

 時は戦国時代のど真ん中、天文年間(1532〜55年)のこと。ここ筑後の耳納山中腹に建つ大生寺の寺男・由蔵が、余りの騒々しさに驚いて表に出た。
「いよいよ(いくさ)が始まったようじゃな。なんまいだ、なんまいだ」


写真は、問注所と星野の合戦が展開された流川一帯

 同時に飛び出してきた和尚の法院も眉をひそめている。その間にも、寺の南側の斜面を、鎧兜(よろいかぶと)を身につけた(つわもの)どもが転げるようにして降りてきた。山城を固める井上城と立石城の兵である。これらのお城、代々浮羽一帯を治める問注所氏の南の護りであった。この騒ぎ、問注所と耳納山向こうの星野勢との戦いの幕開けだった。
 問注所は、この時豊後の大友の勢力下にあった。星野と大友は、永年の宿敵であり、いつ何時正面衝突してもおかしくない情勢にあった。
 双方数千の兵が入り乱れての斬りあいは、由蔵が見下ろす巨勢川べりの茶畑で、いつ果てるともなく続いた。ある者は山の斜面に俯き、ある者は小川の縁で息絶えた。そこから流れる血潮は、巨勢川の清流を真っ赤に染めた。「流川」の地名は、この時“血の川”と化した様子を表したものだといわれる。

夜更けに不気味な音が

 戦い終わって村人たちは、無残にも荒らされた茶畑で(しかばね)を集めて弔った。
「子供が犠牲になる戦なんぞ、なくならにゃいかん」
 法院和尚は、戦死者を集めて火葬する傍で呟きどうしだった。
 それからが大変である。耳納山麓で、夜更けとともに、「うぉ〜ん、うぉ〜ん」と不気味な音が地べたを這うようにして村中に充満した。ある人には、「いや〜ん」とか、「うらむ〜」などとも聞こえたという。風の音かとおもえば、周囲の笹薮はそよともしていない。「チャリン、チャリン」は剣戟(けんげき)の響き。俺だけの耳のせいかと人に話せば、「その音なら俺も聞いた」「あたいも聞いた」と名乗る者が続出。
「和尚さん、何とかしてください。これじゃ、村の者皆んな気が狂いますばい」
 彼らは、大生寺にやってきて法院和尚に泣きついた。「俺からも頼みます、和尚さん」と由蔵も嘆願した。
「そうじゃのう、向こうの世界に行けないで彷徨(さまよ)う兵どもの霊を慰めるにどうしたものか…」

お地蔵さんが鎮めてくれた

 しばらくして、最も戦闘が激しかった茶畑の真ん中に、彫りたての地蔵尊が立てられた。もちろん、施工主は法院和尚である。地蔵さんは、茶畑から巨勢川をまっすぐ見つめておられる。穏やかなお顔のようで、(いくさ)を仕掛けた(やから)を叱り付けるような厳しさも兼ね備えておられた。


斜面に建つ大生寺

 茶畑のお地蔵さんが建立されて以後は、怪しげで、おぞましい声は聞こえなくなり、人々も安らかに眠れるようになったんだと。(完)

 流川の大生寺を訪れたのは、2008年が明けてすぐの頃であった。広い寺域に棚引く、枯葉を焼く煙が静けさを更に印象付けてくれる。
「むかしは小僧さんがたくさんいて、いつも掃除がいきとどいていたそうですが、今は私が一人でやってるもんで・・・」と、焚き火をしながら語られるのは、寺の若い堂守さん。

「私が嫁いで来て間もなく、今は駐車場になっているあの場所で、大むかしの戦争で亡くなられた方の供養祭が行われましたそうよ。このあたり、広い茶畑だったそうで、そこが戦の舞台になったそうです。寺域に建っているお堂は、全部で32棟あります。本堂(仏殿)を合わせて丁度33になるんですよ。信者の方々が地域ごとに祭られていたものですが、今では代も代わって荒れるに任せている状態です」。世の移り変わりは、人々の心の中まで変化させるものなのか。
 ところで、茶畑があった場所に立っていた地蔵さまの行方は? 「それは私も知りません」との答えだった。どこの大寺院にも劣らない古刹が、末永く繁栄することを願わずにはいられない訪問でした。

問注所氏:室町・戦国期に当町域で勢力を持ったのは問注所町野氏である。同氏は耳納山中の星野氏と並ぶ生葉郡の雄族で、三善泰信六世の孫三善康行が、文永年間(1264〜75)に生葉郡を賜り下向したという。
戦国期に問注所家は、鑑景・鑑豊から2家に分れ内紛が始まった。鑑景を滅ぼした鑑豊系が、その後大友宗麟に従うことになった。
当町には中世の城址が11ヶ所あるが、流川の井上城址と立石城址、新川の長岩城址などが問注所氏の城郭であった。

流川:耳納山の尾根と巨勢川との間に広がる山麓地。湿地は蓮根畑。山上には、中世問注所氏による井上城・立石城・安山城の城址と古墳が点在する。問注所氏と星野氏の合戦の故地がある。
大生寺:浮羽町流川字徳正にある寺院。臨済宗妙心寺派。山号は「五葉山」。本尊は釈迦牟尼仏。
寺伝によれば、寺歴が明確になるのは南北朝時で、無着妙融禅師が曹洞宗寺院として再興してからである。
当寺は、浮羽地方を見下ろす山地の中腹にあり、寺の背後には問注所氏が拠った井上城・立石城・安山城などがあった。
天文3年には、当寺で星野親忠の合戦があった。
永禄年間から問注所氏と豊後大友氏、筑前の秋月氏らとの戦いなどで、天正年間まで数度の戦火を受け、最盛期には末寺100ヶ寺、塔頭7院を有したが、主要な堂宇とともに失われ、近世初期にはわずかの堂塔を残すのみであった。
寛永20年、当寺の「ひんつる尊(賓頭盧尊者)」の取り出しで多くの参拝者で賑わったことが知られる。だがこの時期の様相については未詳。
久留米藩の有馬忠頼は、寺の由緒を惜しみ、寺領30石、山林70余町を与えて再興した。曹洞宗から現在の臨済宗妙心寺派に改宗させたのも、有馬忠頼である。その後、久留米藩内の有数な禅宗寺院として近隣の信仰を集めた。

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