第321話 孝子与吉伝 八女市(上陽町)


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作:古賀 勝

第321話 2008年01月01日版

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。
孝子与吉伝

八女市(旧上陽町)

 
山里の集落 仏尾

 八女市上陽町北河内から県道798号を8キロほど上っていくと、仏尾という集落に出る。山村風景が嬉しいスポットだ。江戸時代の村名は「上妻郡北河内村(こうずまぐんきたかわちむら)」といったそうな。
 この山里にも、江戸時代の「親孝行」話が残っている。

母の病を治すため

 18歳になる与吉は、仏尾の里で暮らしている。彼は、病弱の母親と幼い弟の面倒を見ながら、炭焼き小屋で一日中働きづめだった。 
 そんな折、母親の具合が急変した。医者に診てもらうにも金はなく、集落の婆さんに占ってもらうと、余命幾ばくもないとのこと。
「もうよかよ、母ちゃんのこつは。早よう死んで、父ちゃんのとこに行きたか」
 母が諦め顔で言うと、「なんば言いよるとね。母ちゃんには元気になってもらわにゃ困ると」と、与吉は剥きになる。
 切羽詰った与吉は、高良大社への30日間祈願を決意した。仏尾の里から高良大社までの距離は4里(12`)。当時の山道だから、急ぎ足でもたっぷり4時間はかかる。写真は、下横山の谷間
 高良神へのお詣りを済ませて帰路につこうとすると、神主に呼び止められた。
「境内を出たところに清水が湧き出とるから、飲んでいったらええ」と。掌にすくって飲んだら、五臓六腑に染みとおり、それまでの疲れがいっぺんに吹き飛んだ。
「母ちゃんに、こげなうまか水ば飲ませてやりたかね」 

高良大社:久留米市御井町にある神社。祭神は高良玉垂宮・八幡大神・住吉大神など。創建は、履中天皇元年(古墳時代)と伝えるが、資料上の初見は延暦14(西暦795)年となる。(角川地名事典より)
古くから筑後の国そのものである国魂(くにたま)として、人々の衣食住にわたる生活全般をお守り下さるとともに、芸能・延命長寿・厄除けの神さまとして、厚く信仰されてきました。(高良大社HPより)

丑三つ刻:丑の刻を4刻に分け、その第3にあたる時。おおよそ今の午前2時から2時半。
丑の刻:午前1時から午前3時までの間。
五臓六腑:臓(漢方で肺・心臓・肝臓・脾臓・腎臓の総称)と六腑(漢方で大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱の総称)

丑三つ刻にお百度

 隣村の逆瀬谷(さかせたに)に嫁いでいる姉のつる子が、与吉が願掛けをする1ヵ月間実家にに泊り込んでくれることになった。母や幼い弟のことが心配の与吉には、こんな嬉しい援軍はない。時節は、寒さが身に染みる師走であった。
 現在の時間で午後10時に仏尾を出る。夜中に到着してお百度を踏む。終ると、神官に教わった清水を、持ってきた竹筒に入れて帰路についた。帰り着く頃には、東の空がうっすら白みかかっている。
「うまかね、こん水は…」、母は、与吉が持ち帰った水を目を細めて飲み乾した。
 高良神詣では、天気のよい日ばかりではない。打ち付けるような雨の日もあれば、体ごと吹き飛ばされそうな強風の晩も。ある時には、天狗のような生き物が低空飛行して、肝を冷やすこともしばしばであった。

お百度(百度参):社寺に詣で、その境内の一定の距離を100回往復し、その度に拝すること。

立ち往生したら高良の神が

 そして1ヵ月が過ぎた。いつもと変わらずお百度参りを済ませると、また母が喜ぶ湧き水を水筒に注いだ。満願の日の水が、母親の病気を治す決め手になるような気がした。
 神域を出る頃降り出した雪は、耳納の尾根を過ぎる頃には、提灯も役立たないくらいの猛吹雪になった。途中、目の前に大きな岩が転がり落ちて、道を完全に塞いでいる。そこに座り込んだとたん、夢の中へ。図は、高良神社本殿
「これ与吉よ」
 振り向くと、顎鬚(あごひげ)が立派な老人が立っていた。
「神さま、早く帰って母ちゃんにこの水を飲ませなきゃいかん。目の前の岩ばどかしてください」
 与吉は、地面に額をこすりつけて頼んだ。
「心配するでない。それなる神水は、母の元に必ず届けるゆえ。さすれば、病も治癒するであろう。そなたはそこでゆっくり休んでおけ」
 神さまは、用件を告げるとすぐに姿を消した。そして与吉は濃い闇夜の世界に。

病の母が神の水を

 その時刻、仏尾の家では母親の具合が更に悪化していた。熱がうなぎ上りで、息も絶え絶えであった。付きっ切りで看病するつる子は、ただオロオロするばかり。その時、表戸を叩く音がして土間に下りたが、人の気配はない。
「これは…?」
 玄関先に竹筒が置いてある。与吉が腰に下げていたいつもの竹筒であった。
「忘れていったんじゃろか」
 出て行く時は空だった筒に、水が入っているとは不思議なことだ。つる子は、何はともあれその竹筒を母の口に当てた。
「うまかね、ほんに…」
 一気に飲み乾すと、母はそのまま深い眠りについた。気のせいか、その頬に紅がさしたように見えた。額に手をやると、確かに熱が下がっている。寝息も安らかだ。
 翌日昼すぎ、足を引き摺りながら与吉が帰ってきた。吹雪の中で道に迷い、その上清水の入った竹筒もどこかでなくしてしまって、どこをどう通ってきたかも覚えていないと言う。

「お帰り、与吉」
 血色のよい母が、土間に倒れこんだ息子を嬉しそうに見下ろしていた。
「母ちゃん、病気治ったんかい?」
「ああ、おまえがくれた水を飲んだら、ほんに気持ちがようなってな」
「母ちゃんの病気はもう大丈夫。これも、高良の神さまのお陰たいね」
 つる子は、表に出ると、高良山の方向に向かって手を合わせた。
 後日談だが…。この親孝行話は久留米城内にも伝わり、与吉は殿さまからたいそうなご褒美をいただいたとのこと。(完)

 集落にカメラを向けたら、前方遠くに超近代的な大橋が目に入った。2002年に完成した朧大橋(おぼろおおはし)である。全長300bもあるアーチ式の芸術品だが、この橋を渡る人や車はほとんどない。と言うのも、完成から5年経った今も、前後の道路がほとんど手付かずのままだから。たまに訪れる人が「美しか橋ねえ」とか、「建設費が何百億円かかったじゃろか」とか言いながらため息をついている。 与吉の高良神詣でをした谷間の真上に、朧大橋は架けられている。つまり、与吉は、谷を下りまた上って耳納の尾根を目指していたわけだ。地下に眠る与吉やつる子が、こんな大仰な橋を見たら、どんな感想を述べるものやら。写真は、朧大橋
 与吉が生きた17世紀末から18世紀初頭にかけて、日本国内の事情はどんなであったか。徳川の世に代わって100年が経過し、幕藩体制は安定期に入っていた。為政者は、人々の身分の上下を厳しくすることで、秩序をより強固なものにしようとする。そこで持ち出されるのが、「忠孝と礼儀」であった。つまり、親には孝行、君(天皇・大名)には忠義をなせと言うこと。与吉の命がけの願掛けは、当時の人々の共感とあわせて、幕府や大名にも賞賛されたわけだ。

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