伝説紀行 為朝の大蛇退治 佐賀県武雄市 作:古賀 勝


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作:古賀 勝

第303話 2007年05月27日版
再編:2017.04.19 2018.10.13 2019.08.11

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

為朝の大蛇退治

川古の為朝

佐賀県武雄市

【参考資料:平家滅亡過程年表】
【保元の乱関連資料:年表・系図】


有田ダムから見上げる黒髪山(中央の瘤状が天童岩)

 源為朝(みなもとのためとも)といえば、強弓の使い手として知られた平安末期の武将である。保元の乱では、平清盛や甥の源頼朝との戦いに敗れて流罪になる。歴史上では、流刑の地伊豆大島で割腹自殺を図ったことになっている。だが・・・。
「伝説紀行」では、「第227話 塔の瀬の古塔(福岡県東峰村)」で、若年期の為朝が、追放先の九州から都での保元の乱に参加するまでを追った。また、「第244話 為朝が射止めた巨石(玖珠町)」は、 豊後の玖珠で大暴れする為朝だった。
 今回は、肥前(佐嘉)に飛んだ為朝が、神の山に巣くう大蛇を退治する話である。

保元の乱:1156(保元01)年、平安末期の内乱。崇徳上皇と後白河天皇兄弟、藤原忠道と頼長兄弟の対立から勃発。上皇と頼長、それに源為義・為朝父子は、平忠正ら武士の力によって天皇方を討とうとする。だが、天皇と藤原忠道は、為朝と腹違いの兄弟である源義朝(頼朝の父)と忠正の甥である平清盛らの兵をもって、上皇方に先制の夜襲かけて勝利。
上皇は讃岐の国に配流、頼長は戦死、為義と忠正は斬罪。武士の政治的進出過程における重要な事件であった。

源為朝:(1139〜77)源為義の子で、平安末期の武将。豪勇で九州にあって勢力を奮ったので、鎮西八郎と呼ばれた。
保元の乱で父為義とともに崇徳天皇方に加わったが敗れて、伊豆の大島に流され、その地で死んだとされている。

自然を楽しむ為朝

 生来の粗暴さを(うと)まれて都を追われた源為朝に、肥前の領主後藤助明が頭を下げている。永暦元年(1160)の頃である。為朝が二十歳を過ぎて間もなくであった。
「為朝さまには、ここでは窮屈でございましょう。川古(かわご)には、今より3倍も広い館を用意しましたゆえ、ぜひともお移りを」と、なだめすかした。


写真は、川古の御所地区から見上げる八幡岳

 今住んでいた(うつぼ)の館で、何かとトラブルが耐えない為朝を、里から引き離そうとする助明の策略であった。
 川古に移った為朝は、領主の思惑とは反対に川古の地が大変気に入った。 東に見上げる八幡岳(標高763b)は、助明が吹聴する以上に魅力的である。気が向けば、朝飯前に頂上まで登ってみる。下界の眺めも雄大なら、行き交う獣や野鳥は、弓の名人で鳴らした為朝には恰好の腕試しにもなった。
 為朝は村人に、住んでいる館を「川古の御所」と呼ばせた。

プライドを傷つけられて

 そんな折、西に聳える黒髪山(標高516b)に巣くう大蛇退治の話が持ち上がった。この大蛇、体長が100メートルもあるという。いつもは、山頂近くに(こぶ)のように突き出た「天童岩」に巻きついているのだが、村人はいつ襲われるか心配で仕方がない。
 村人から訴えを受けた領主の助明が、為朝のプライドをくすぐった。
「私らは、為朝さまが弓の名手であることは聞いております。おりますが・・・」
「何じゃ、奥歯にものが挟まったような・・・。言いたいことがあらば、申してみよ」
 つい為朝の言葉も荒くなった。
「ならば申し上げます。・・・為朝さまの弓の腕がいかがなものか、里では疑うものもおりますゆえ」
 ますます聞き捨てならぬと、為朝の額に大きな青筋が。
()の弓の腕は、八幡岳の猪とか飛ぶ鳥を落としたくらいでは信じられないと申すかっ」

重籐の弓に十三束の矢を番え

「黒髪山の大蛇には、いかに弓の名手の為朝さまでも歯がたつまいと。いえ、これは私が言うのではなく、ある者が申すことでございます」
 我慢も限界に達した為朝。「それなら、黒髪山の大蛇とやらを、余が退治してみせようではないか」ということにあいなった。
 供のもの5人を連れて、まずは山下の黒髪神社に成功祈願。それからおもむろに山頂を目指した。下から見上げる恰好いい山とは大違い、頂上の夫婦岩は近づくものを威嚇するように大口を広げている。その向こうには、大蛇がどくろを巻く天道岩が。遠目にはゴツゴツした蛇の目(じゃのめ)模様の岩にしか見えないものが、少し近づいただけで、腹部の息づかいまではっきりと見て取れる。
 為朝が供侍に命じて重籐の弓に(つが)えさせた矢の数は、束ねて13本。振り絞った弓が満月近くに膨らんだところで、矢は放たれた。唸りを上げて向かった先は、どくろ巻く大蛇の方向にまっすぐ。
 だが、目当ての大蛇から反応が返ってこない。「そんなはずはない」と、再び射るが、大蛇はびくともしない。何度か弓を張るうちに、大蛇はどくろを解いて天童岩から姿を消した。

盲僧の前に怪物が落ちてきた

 ところ代わって山向こうの白川べり(有田側、現在はダムになっている)。杖を頼りに渓谷を伝っている盲僧がいた。梅野村(現武雄市梅野)に住む海正坊と名乗る座頭である。今回の大蛇退治の一件を後世に伝えねばと、黒髪山に向かう途中であった。道に迷ったのか、いつしか見返り峠を越えて白川の渓谷まで来てしまった。


黒髪山

「ドドド・・・」、突然頭上から地響きをたてて、何かが落ちてきた。その衝撃で海正坊の体は宙を舞い、やがて地面に叩きつけられた。気がついて周囲を窺うと、異様な臭いと大風のような息づかいが。手を差し伸べると、畳1枚もありそうな鱗らしい固形が地面に散らばっている。更に、山のように大きな体には、無数の矢が突き刺さっていた。
「大蛇だ!」、思わず叫んで、息づかいの起伏の激しいあたりを触った。ここが健常人と違う勘の鋭さである。海正坊は、懐剣を抜きさると、すかさず急所の喉に狙いを定めて突き刺した。途端、あたり一面がヌルヌルした血の海に。
「なんまいだ、なんまいだ…」
 海正坊は、なんともいえない複雑な心境で梅野村に戻っていった。

座頭:剃髪の盲人で、琵琶・三味線などを弾いて歌を歌い、物語を語ったりする者。

大蛇は山の神

 ショックだったのは源為朝である。大蛇の反応が感じられなかったからだ。「強弓の為朝」の名前が一夜にして消滅したようで、情けなかった。御所の館に入ると、小川傍の松の枝に自慢の弓をかけたまま、何処とも知れず姿を消した。その松は、最近松食い虫に蝕まれて枯れてしまい、現在二代目が植えられている。
 一方、梅野村に戻った海正坊。噂に聞いていた為朝の弓の腕を再認識させられていた。あれほどの命中率をなすお方であれば、そのうちに天下をも治められるやも知れぬと。同時に、矢を放った為朝と、止めを刺した自分への神の怒りをも畏れた。
「大蛇とて、この世に生きるものなり。ましてや、田畑への水の供給を調整する山の神の大蛇を殺めた罪は、けっして許されるものではなかろう」写真は、枯れる以前の「為朝弓掛けの松」
 海正坊は、大蛇の最期を後世に伝えることで、祟りを鎮めようと考えた。(完)

 深緑が眩しい5月の半ば、武雄市の川古地区を訪ねた。名物「川古の大楠」は健在で、多くの観光客が押し寄せていた。茶店の名前が「為朝館」というだけあって、観光の目玉にもなっている為朝伝説である。説明にあたっているおじさんに訊いて、為朝が住んだ「御所」地区に出向いた。谷間に隙間なく植えられた麦が黄金色に染まっていた。


川古の大楠

 畑仕事中のおばさんが、「弓掛けの松」を教えてくれた。もとは大きな一本松だったそうだが、ご多分に漏れず松くい虫にやられて、今あるのは代わりの木だと。
「あれが八幡岳です」と、指をさされて東の方を見上げると、霊峰が微笑み返してくれた。反対側には、貫禄の黒髪山が居座っていた。
 川古から10`下ると、為朝が以前に住んでいたという(うつぼ)の里が。当地では「おつぼの神籠石」として大切に保存されているとか。当地では「うつぼ」を「おつぼ」と発音するようだ。旧長崎街道に面した靫山の苔むした列石は、最近まで、為朝屋敷の石垣だと信じられていたとのこと。伝説には事欠かない地名や場所の多いこと。
 弓の名手である為朝という人物。自分で射た矢が大蛇に命中したかどうかも確かめないままに川古を去った。はて、次に何処でどのような活躍をみせてくれるものやら。

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