伝説紀行   黒岩のお稲荷さん   平家落人 小郡市  古賀 勝作


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作:古賀 勝

第287話 2007年01月14日版
再編:2018年1月8日

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
黒岩のお稲荷さん

慈禅尼と黒岩稲荷

福岡県小郡市(西島)

 福岡ICから九州自動車道を南下して、基山PAを過ぎるあたり。左手にゴルフ場の大きな金網が見えてくる。一帯は小高い丘になっていて、自然林による四季折々の色彩の競演がドライバーの目を楽しませてくれる。
 高速道を下りてゴルフ場に向かう途中、鮮やかな朱色の欄干が迎えてくれた。さらに歩を進めると、道路わきに貫禄十分の鳥居が見えてくる。明和2(1765)年に有馬の殿さん(久留米藩主)が寄進したものというから相当の年代ものだ。祭神は倉稲魂(うかのみたま)、つまりお稲荷さまである。五穀豊穣はもちろん、火災鎮火や商売繁盛などに霊験現たかとかで、地元の篤い信仰を集めてきた。
 急階段を登りつめた本殿脇の案内板には、創建にあたって平家落人が大いに関わったと記してある。

壇ノ浦の生き残りが山中へ

 寿永4(1185)年、春まだ浅い背振の山中は、冷たい北風が吹き荒れていた。
「もう駄目じゃ、歩けない」
 うずくまっている髭面の武将は源三郎介。深手を負った武将を励ましているのは、頭巾を被った尼で名を慈禅尼と言う。脇から手持ちの塗り薬を与えているもう一人の男は、尼に仕える下男の浜助である。


写真は、義経の八艘飛び碑が見下ろすた壇ノ浦(関門海峡)

 半月前の壇ノ浦合戦で、源義経率いる源氏の船団に破れた平家の残党であった。安徳幼帝の最期を見届けた総大将の敦盛は、武将らに平家の再興を頼んで、自らも海峡の渦の中に身を投じた。小舟に乗り移った武者や家族らは、目の前の赤間(下関)や門司に上陸し、集団を成して山中へと駆け込んでいった。
 三郎介と慈禅尼も、最初は百数十人の集団の中にいた。だが味方であるはずの大宰府が既に源氏の手中に落ちていて、近づくことさえままならない。一行はそのまま背振の山中に逃げ込んだのだが、餓死や衰弱で1人減り2人脱落していって、気がつけば当初の半分しか残っていなかった。
 その内に三郎介が、躓いた切り株での怪我が悪化して動けなくなってしまったのだ。

身分を明かさぬ禅尼

「なぜ、拙者に付き添われる? ご一行とともにお逃げなさらればよいものを」
 三郎介は、一行から逸れてまで介抱してくれる慈禅尼主従の行動を理解しかねていた。
「生き延びるも死すも、神仏の思し召しによるもの。私には、目の前で苦しむ貴方のことが大事に思えるのです」
 3人は、農家から貰い受けた野良着に姿を変えて歩き出した。山を下り、千歳川(筑後川)を渡って耳納の山に。そこにも源氏の輩下にある地元豪族の追手が迫り、再び大川を渡って黒岩山(小郡市西島)の照葉林深くに逃げ込んだ。慈禅尼は、大切に持ってきたお札を、避難した穴倉の壁に祀って手を合わせた。
「貴女が命より大切にお守りなさるそれなるお札は、いずこの神さんのものやら?」
「はい、このお札は、平家の武運長久をお祈りするために伏見のお稲荷さん(祭神:倉稲魂(うかのみたま)から分霊をいただいたものでござります」
 禅尼は、それ以上のことを語りたがらなかった。

祭神の命で肥後へ

 世は、平家から源頼朝の時代(鎌倉時代)に移っていた。そのことを三郎介は信じたくなかった。例え今はそうなっていても、やがては再び平家が都に戻るものだとの思いは募るばかりであった。
 そんなある日、慈禅尼が突然旅支度を始めた。
「夢枕に、倉稲魂(うかのみたま)のお遣いだと名乗る白キツネが現われたのです」
 三郎介の問いに禅尼が答えた。
「それで、お遣いが貴女に何と?」
「急ぎ肥後の山中に参れと。そこには数百人の平家の皆さまが結集なされていて、都に上る準備が整ったと」
「・・・して、貴女がそこに招かれる理由(わけ)は?」
「おすがりするお稲荷さまが必要だとのこと。ご分霊を更に分けてもらって来いと」

禅尼は伏見稲荷のお遣いか?

 慈禅尼が浜助とともに旅発ったのは、翌朝早くであった。三郎介には、「用が済めばすぐに戻るゆえ、この地でお稲荷さまをお守りくだしゃりませ」と京言葉を残してのことだった。三郎介は禅尼の帰りを今日か明日かと待った。だが、禅尼が再び黒岩山に姿を見せることはなかった。
「いったい、あのお人は何者やら・・・?」。都でも屋島でも、一度も会ったことのない女性が、壇の浦から九州に上陸して以降、常に身近に存在することが不思議でならなかった。


伏見稲荷の鳥居群

「まさか??」、禅尼とは仮の姿であって、実は…、伏見稲荷のご祭神宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)のお遣いではあるまいか。平家では、清盛公以来伏見の稲荷大社には特別の崇拝で望んできた。都落ちする際も、大将以下総勢で武運長久を祈願し、破格の寄進を惜しまなかったと聞いている。ならば、敗れたりとはいえ、再興を期す平家の面々の願いをかなえるべく、姿を変えておいでなさったのかも知れぬ。
 そこに考えが及ぶと、矢も盾もたまらず禅尼が言い残した「この地でお稲荷さまをお守りくだしゃりませ」を実行に移さねばとの思いに駆られた。

五穀豊穣・商売繁盛、…お稲荷さん

 それからである。三郎介が祭主となってお祭りした稲荷堂に参拝する人が絶えなくなったのは。


写真は、黒岩稲荷本殿

「去年まであげん凶作が続いたつに、今年の豊作はどうしたこつかいの」、「街中が焼けたときも、俺の家だけは無事じゃった。これもお稲荷さまのお陰たい」、「この間までまったく店に客が寄り付かなかったつに、黒岩のお稲荷さんにお参りしてからは、忙しかこと、忙しかこと」。お参りした善男善女の評判が、更に評判を呼んだ。(完)

稲荷:五穀を司る倉稲魂を祀ったもの。稲荷神社のこと。

 小郡カントリーでゴルフを楽しんでいた頃、通りがかりに見かけたお稲荷さんに平家落人伝説が絡んでいたとは、まったく知らなかった。ゴルフクラブをデジカメに代えて鳥居を潜ると、何だか自身が清められていくような気がした。
 お稲荷さんといえば、定年前の現役時代に、本家の伏見稲荷を何度か訪れている。1万基あるという稲荷山の鳥居を数え始めたが、遂に果たせぬままになっている。伏見に比べれば、稲荷山の赤い鳥居は質素なものだ。有馬の殿さま縁の鳥居や馬やキツネの彫り物など、所狭しと置かれている様子は、まさしく地方における信仰の典型を見る気分であった。

 あの頃、黒岩稲荷にお参りしておれば、今頃はゴルフの腕もシングルになっていたかもしれない。

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