伝説紀行 頭のよかカッパ 筑後川
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
頭のよかカッパ 筑後地方
筑後川に棲む9000匹のカッパを束ねるのは九千坊(くせんぼう)。九千坊は、本欄で幾度となく登場してきた。また、カッパの祖先が、大陸から八代の球磨川河口に渡ってきて、その地に棲み付いたものや日本各地に分散したものなどさまざまなことも紹介した。
九千坊率いるカッパの祖先は、八代湾から有明海に入った後に、筑後川を永住の棲家に決めたものだった。 清盛入道はカッパの守り神 時は数百年前だったか。頭領の九千坊が、筑後川の見回りを終えて、半年振りに本拠地の久留米瀬ノ下に戻ってきた時のことだった。水天宮のご祭神である平清盛入道の奥さんの二位の尼に挨拶するため、境内に参上した。カッパは没落した平家のなりの果てだと言う人もいるが、それは違う。しかし、いちいち反論していてもしようがないから、ご祭神をカッパ族の守護神だと決めて敬っている。
「この頃土堤ば歩きょっとさい、すぐカッパが出てきて相撲とろう、相撲とろうち言うもんない。相手も細(こま)いし、しぇからしかけん(面倒だから)、そんなら一番ち思うち立ち上がると、体中がヌベヌベで、張り手も空振りばっかり。相撲になる前にすぐ手を突いてしまう」 川原で江戸の大相撲 何日かたって、水天宮下の川原に、立派な土俵が設(しつら)えられ、川に向けて大きな看板が立った。 「来る○月○日 正午より 江戸大相撲興行 横綱太刀の山・大関富士の嶺が激突!」写真は、水天宮そばを流れる筑後川 策略を上回る計算 よく見ると何だか変。水天宮の境内から土俵まで、立錐の余地なく観衆で埋まっているというのに、土俵から川面までは「カッパ様以外は立ち入り禁止」の立て札が立っている。「ワーワー」の歓声を聞いて、ポツリ、ポツリと川から這い上がってきて、そちらも間もなく濃い緑の生き物で埋め尽くされた。 筑後川には、60年前までカッパがウヨウヨ棲息していた(らしい)。だが、あの忌まわしい久留米大空襲に驚き慄(おのの)いたのか、戦後目撃したものは皆無だという。(完) カッパとは、巷間噂されるように、人間にとって決して悪い生きものではない。特に筑後川のカッパは、田んぼの水を汲み上げたり、害虫を駆除してくれたり、それはもうよいことずくめだった。玉に傷は、人間の女に惚れやすいことと、嫌がるものに相撲をねだる癖だけ。庇(かば)うわけじゃないが、カッパは人間や馬を溺れさせたりは絶対にしなかった(はず)。キュウリや茄子(なすび)を盗むというのも違う。収獲を終えて、売り物にならない取り残された野菜(かがりあげ)をいただいて食べるだけのことだったのだから。 |