伝説紀行  高野の毘沙門天  久留米市


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作:古賀 勝

第271話 2006年08月27日版
再編:2016年12月04日 2018年02月04日

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

高野の毘沙門天

福岡県久留米市


高野町の守護神「高野八幡宮」

 久留米市街から国道3号に乗って北へ、筑後川を渡ったところを高野町(久留米市)という。国土交通省の筑後川河川工事事務所があるあたりだ。
 人の噂では、堤防脇(筑後川右岸)祭ってある毘沙門天(びしゃもんてん)にお参りすると、歯痛がすぐに治るという。年齢をとったせいか、最近歯医者通いが増えたこともあって、僕もお参りしようと決意した。だがその前に、「謂れ」を知る必要がある。

貧農の娘が豪農の嫁に

 江戸時代も末の頃。御井郡高野村は人口300人足らずの小さな村だった。村人は、朝に夕に筑後川の恵みに感謝しながら暮らしている。
 村で一番器量よしのミヨに縁談が持ち上がった。相手は、どん百姓(豪農)の息子幸太郎である。幸太郎には結婚暦があり、4歳と2歳の男の子がいる。昨年嫁が死んで、不自由な鰥夫(おとこやもめ)の後添いにと見込まれたのだった。
 父親が承知してしまえば「あげな人、好かんもん」なんて断れる時代ではなかった。「こげなよか話があるもんか」と父はすこぶる上機嫌である。細々と暮らす百姓にとって、豪農の後ろ盾を持つことがどんなにありがたいことだったか、想像に難くない。
 こうしてミヨは、どん百姓の嫁に治まった。

継子が死んだ

 花嫁といっても、後添え故に、それほど華やかな祝言があるわけではない。嫁入りの翌日から畑仕事や2人の子供の面倒を見る仕事が待っていた。前日まで純情可憐な娘が、突然2人の母親になるのだから戸惑うことばかりだ。それでもミヨはよく働き、人並みの幸せを掴んだと喜んでいる。


 そんな幸せなミヨを、一瞬にして奈落に突き落とす出来事が起こった。川岸の八幡さんの祭りの日のことだった。写真は、ドライバーに人気のラーメン屋
 小作人や使用人をもてなすために、ミヨは朝からご馳走作りにてんてこ舞い。つい子供たちに食事を与えることを忘れてしまった。腹をすかした長男の浩太が、残り物に手を出し、直後から腹痛を訴えて息も絶え絶えになった。久留米の街から医者を連れてきたが、「食あたり」と言うだけでさっさと渡し舟に乗って帰ってしまった。
 浩太はひと晩苦しんだ末に、朝方幼い命を閉じた。

次の継子も歯痛で…

「息子ん嫁ちゅうてよか気になっとるけん、大事な跡取りば死なせてしもうたつたい」
 姑の怒りの鉾先は、後添いのミヨへと集中した。
「そんなことはありまっせん」と言い訳をしても、聞き分けてくれるような姑ではない。悪いことは重なるもの。今度は、弟の芳治が歯が痛いと言いだして、家中をのた打ち回った。
「何とか泣かせんごつせにゃたい」、と姑は冷たい。長男を亡くして落ち込んでいる幸太郎も、「お前が甘かもんばっかり食わするけん。ほんな(本当の)母親じゃなからにゃ無理かの」と、ミヨを責めた。写真は、毘沙門天
 たいていのことなら我慢もするが、前妻と比べられて母親の資格を問われたのでは、我慢のタネを飲み込む場所が見つからない。
 気がつけば、筑後川の土堤をあてどもなく川下に向かっていた。

いこくの武士が現われて

 漆黒の闇の中、遠くの稲光が気味悪く近づいてくる。やがて大爆音とともに、閃光が川面を昼間のように明るくした。「えずか(怖い)!」と叫んだミヨが、その場で気を失った。どのくらい刻がたったのか、気がつくと、鎧兜を身につけた厳(いかめ)しい顔の男が覗き込んでいる。


宮ノ陣を流れる筑後川

「わしは数千年前にインドから渡ってきた毘沙門と申す武士である。こちらに渡って来てからは、仏を護る四天王の一人として崇められてきた。久留米の城下で、わけのわからぬ病気が押し寄せて手に負えなくなったことがある。有馬氏(久留米藩主)が、奈良の都からわしを招いて、その悪病退治を要請した。わしが北の空に向かって一喝すると、悪病はたちまち退散した」
「・・・・・・」
 ミヨには、目の前の異国の武士が、自分に何を言おうとしているのかさっぱりわからない。

住処を替えてくれと

「悪疫がなくなり、藩主も城下の者たちも大そう喜んで、祠まで備えてくれた。だが、人間とは冷たいものよ。大恩あるわしのことを忘れてしもうた。お陰で住処(すみか)の祠は竹薮の中に埋まり、葛は巻きつき、蜘蛛は我が物顔で侵入してきて巣を貼ってしまう。息苦しくてたまらん。そこで、ものは相談なのじゃが・・・」
 やっと武士の言おうとすることが理解できたが、どう答えていいかわからずに黙っていた。
「わかっておろうが。人さまの目にとまればきれいなところに住めるし、お供え物もあがるから腹の減ることもなくなる」
「あなたの言うことを聞けば、絶対に息子の歯痛を治してくるるとですか?」
「わしのことを人々は『勝負事の神』と言うが、とんでもない誤解ぞ。わしは、庶民の悩み事なら何でも聞き入れる能力を持っておる。別名『多聞天(たもんてん)』とも呼ばれるくらいじゃからの。必ず約束は守る」
 そこで、甲冑姿の武士が消えた。頭のほうから生暖かい風が吹き、ミヨは目を覚ました。

言うこと聞いたら治った

 陽は筑後川の真上で輝いている。ミヨは、家には帰らず、竹薮の中の毘沙門天の祠を捜した。日ごろは気がつかないことだったが、大川(筑後川)の周辺は何の役にもたたない雑竹ばかりよく生えている。
 午後になると、大粒の雨がミヨの頭を直撃した。顔は蜘蛛の巣でべとべと。その上、薮蚊に襲われてあちこちが赤く腫れあがっている。
「あった!」
 ミヨが叫ぶ向こうに、竹や大木に押しつぶされるようにして、石の祠が建っていた。中の像は紛れもなく夢に見た、あの甲冑姿の異国の武士である。家の使用人に頼んで、毘沙門天を川岸に運び、大川の水できれいに洗った。心なしか、厳(いか)つい顔の武士が微笑んだ。

 息せき切って家の敷居を跨ぐと、「お母ちゃん」と叫んで息子の芳治が抱きついてきた。「歯は痛うなかと?」と尋ねると、「どうんなか(どうもない)ばい」と元気に答える。
 使用人から事情を聞いた幸太郎と姑は、嫁の働きを見直し、これまでの仕打ちを謝った。

 ミヨと毘沙門天の話は、人から人へと伝わっていった。「あすこん毘沙門天さんにお参りするとさい、歯ん痛かつちゃ、じきに治るげな」
 幸太郎が筑後川土堤下に設けた真新しい祠には、村の者は言うに及ばず、遠くは博多の辺りからまでもわざわざ願掛けに来る人が増えたそうな。(完)

高野産八幡神社:筑後川の右岸、筑後川工事事務所に隣り合って建っている。寛永2(1625)年までは、対岸の久留米城内に祭ってあったそうだが、城の鬼門(北)を守護するために移された。現在では、安産の神さまとしても崇敬が篤い。

毘沙門天:仏教の護法神である天部の一つ。別名を「多聞天」ともいう。「多門」とは、すべてを聞き漏らさぬ知恵者を意味する。
日本の民間信仰においては、「七福神」の一つである。七福神とは、恵比寿・大黒天・毘沙門天・寿老人・福禄寿・弁財天・布袋の七神のことである。
毘沙門天の姿は、甲冑を着け、片手に宝棒、一方の手に宝塔を収める器を持ち、邪鬼を踏むのが一般的である。
普通、北から侵入する邪鬼を追い払う役目を負う。

 異国の武士を祀る祠を捜して、筑後川の土堤を彷徨うこと2時間。残暑ってものじゃない猛暑が、一人ぼっちの僕の頭を直撃し続ける。それでもミヨの苦労に比べれば、ここでへこたれるわけにはいかない。田んぼで雑草とりをしている人に尋ねたら、「そげな仏さん、聞いたこつもなか」とそっけない。高野の集落で無理やりよその家に入り込んだ。親切な老婆が、村の物知り博士を紹介してくれた。「高野のお地蔵さんなら知っとるばってん」と、こちらも戸惑いがち。そのうちに喉が渇いてきて、熱中症が気になりだした。こんな時に限って自動販売機が見つからない。イライラが募って、ついに毘沙門天捜しを諦めた。
 帰り道、持病の歯周病がうずきだした。

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