猿塚の碑
福岡県うきは市(浮羽町)
猿塚の碑
旧浮羽町から南へ扇状に3本の山道が伸びている。西側は「調音の滝」を経て星野村へ。中央が、合所ダムから大分県の前津江村(現日田市)に。そして東側が、今回物語の舞台になる小塩地区を経て日田市に抜ける道だ。
お猿さんの像の脇の石碑は、風化の具合から想像して相当に古い。碑には「このことは小さいこととはいえ、・・・古今を通じて人々の模範とすべき」と、銘されている。はて、何が小さくて、模範になるようなことなのか?
飼い猿が逃げ出した
「おい、十平!どこにおるんじゃ?」
小椎尾屋敷の使用人頭・進之丞が捜しているのは、馬飼いの十平。馬飼いといっても、年齢は13歳と年端もいかない少年である。
室町時代の康正年間(1455〜57)、大田道灌が武蔵国に江戸城を築いた頃のことだ。ここ生葉の山里は小椎尾広澄の領地であった。広澄が三度の飯より好きなことはといえば、猪や野鳥を射止めること。そのため屋敷には、何匹もの猟犬や鷹が飼われている。十平の仕事は、これらの動物を大切に養うことだった。
十平が馬小屋の干し草に寝転がっていると、天井付近で激しい音がした。鷹の足首につけている鈴を、飼い猿が食いちぎって逃げようとしているところだった。
「駄目だ、その鈴は!」
写真は、小椎尾屋敷跡を連想させる小椎尾神社
猿は、鈴の紐を食いちぎると、馬小屋の外に逃げ出した。十平からわけを聞いた進之丞が仰天した。「殺されるぞ、旦那さまに。あの鈴を取り返してこい」と厳しく言いつけた。
次々に不吉が
猿は小椎尾川沿いを一目散に下っていった。捕まえなければ自分の命が危ない十平も必死で追いかける。岩屋堂から中崎へ、更に尻深で素早く川を渡って、川上へと逆走した。
猿は進行方向を真西に向けて山の中に逃げ込もうとする。一瞬立ち止まった猿の頭を、十平が、持っていた樫の棒で一撃。
「猿は?」と進之丞に訊かれた十平は、「取り逃がしました」と嘘をついた。逃げた猿からどうして鈴が取り返せるのか、不思議に思った進之丞だったが、ここは十平の手柄として治めることにした。
そんなことがあった翌日、取り返した鈴を足首につけてもらった鷹が急死した。原因はまったくわからない。主人の広澄が、鷹の死骸を抱いて大声で泣いた。悲劇はそれだけでは終らない。残った3羽の鷹も次々に死んだ。悲しみにふける間もなく、広澄がこれまた家来の命より大切に思う猟犬が変死した。
「おかしい!」
主人の嘆きを見るにつけ、進之丞の十平に対する疑惑が増した。
自然との共生を願う
「申し訳ありません。猿はおいらが殺しました」
進之丞の追及に、とうとう十平が白状した。わけを聞いた広澄は、十平の言う山裾に赴いた。そこには、無残にも頭を割られた猿の死骸が。その目は、人間社会を恨み徹すような凄さであった。
「猿の怨念である。猿が我れと我が家に祟り、罪のない鷹や犬までもが死出の道連れにされた」
広澄は、獣や野鳥を無闇に殺めてきたことが神の怒りに触れたのだと思い、倒れていた場所に猿の死骸を埋葬した。小椎尾広澄の狩猟はそこで終った。進之丞と十平に対しても、お咎めはなかった。
小椎尾屋敷を襲った不可思議な出来事もぴたりと止んだ。村人は、猿が埋められた場所を「猿塚」と呼んで、その後も供養を続けたという。
それから300年が経過した安永3(1779)年、村の有志によって、猿塚に碑が建てられた。碑には、恵まれた自然といつまでも共生していけるようにとの願いが込められている。「このことは小さいこととはいえ・・・」とは、無益な殺生をやめ、山や川を汚したり壊したりしないことだ。 村の人たちは、これを「模範として」後世に伝えたかったのだろう。(完)
「小塩」の地名の源になった豪族屋敷を連想させる小椎尾神社を訪ねた。日田市との境にあたる山地である。小塩川岸に車を止めて急階
岩屋堂
段を登っていく。風格を備えた本殿に思わず最敬礼。掃き清められた境内は、500年以上も前に君臨した小椎尾氏への尊敬の念を示しているのか。
帰り道、山手に「岩屋堂」なる岩窟を見つけた。中には二体の観音像が祭ってある。これまた、小椎尾広澄が寄進したものだと記してあった。三度の飯より好きだった狩猟を止めさせる出来事が一度に彼の仏心を呼び覚まさせたのだろう。
猿塚の碑文では、「偉いのは碑を建てた村の有志」とも読めなくはないが、そこは小椎尾氏の「無益の殺生を諌め」て自然との共生を願う気持ちの方を大事にしたいものだ。
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