伝説紀行 雉矢の天神塚  日田市(上津江村)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第262話 2006年06月18日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

雉谷の恨み節

原題:天神塚

大分県日田市(旧上津江村)

 熊本県との境に位置する福岡県旧上津江村(現日田市上津江町)は、どこまで行っても限りない山岳地帯にある。ところどころに見える民家は、農業と林業を主な糧にしているようだ。
 山いっぱいに繁る雑木は、筑後川の水源地帯を確保するために欠かせない保水機能である。支流の雉谷川(きじやがわ)の岸辺に素朴な石の鳥居が建っていた。「雉谷天満宮」という。もとはこの地に七つの塚が並んでいたらしい。そこでこのお宮さんのことを「天神塚」とも呼んできた。
 天満宮といえば菅原道真を祭るお宮さんのこと。「学問の神さま」としては、大宰府の天満宮が有名なのだが・・・。

突然、妖怪の呻き声

 今から270年もむかしの享保年間。奥津江(中津江・上津江の昔の呼称)の雉谷(きじや)というところに、太郎兵衛と次郎吉の仲良し青年が住んでいた。二人は、深い谷底の淵で釣り糸を垂らしている。
 気がついたら、日は西の山に隠れていて、周囲は真っ暗闇に包まれていた。
「俺ん帯ばお前の腰に巻きつけろ、絶対に離しちゃいかんぞ!」
 兄貴格の太郎兵衛が次郎吉に命令して、10間(18b)ほど登ったところで、妖怪の呻き声が頭の上から降ってきた。
「うぃふふ、うぃふふ」、思わず次郎吉が太郎兵衛にしがみついた。

ひょっとして天狗か?

「うぃふふ、うぃふふ。ぬしらの先祖に恨みがある」とも聞こえる。薄気味悪いしわがれ声が少しずつ近づいてきたところで、二人とも気を失ってしまった。
 夜が明けて、太郎兵衛が目を覚ました。気を失う前に、二人を繋いだ帯が大木に引っかかっていて、それが命を救ってくれたらしい。
「今時、こん山ん中で幽霊でもなかろうに」
「うんにゃ、いるかも知れんぞ。ひょっとしたら天狗かも」
 二人の話を聞いた村の青年たちは、皆半信半疑である。それならと、夜更けを待って昨夜のあの場所に出向くことにした。怖いもの見たさで、村の元気者数人もついてくる。漆黒の闇の中で、見えない恐怖の出現を待った。
「うぃふふ、うぃふふ、…」
 高い木のてっぺんから、例の薄気味悪いしわがれ声が下りてきた。「出た!」、真っ先に腰を抜かしたのは、「迷信、迷信」と、二人の話を疑っていた男だった。

道真公と都人に許しを乞う

 へとへとに疲れて戻ってきた青年たちの話を聞いた長老が、むかしからこの村に伝わる話を持ち出した。
「何でも、700年か800年前に、都からお人が7人でおいでになって、大宰府で亡くなった菅原道真公をお祭りするよう頼んだそうな。里人は言うことを聞くどころか、彼らを谷底に突き落としてしまった」
「それで…?」
 村の青年たちの唇が青ざめてきた。
「道真公が亡くなった直後から、日本中で地震は起こるわ、大水は出るは、蝗(いなご)は大発生するわで、飢饉が続いていた。それが道真公の祟りだなどと知る由もない山奥のもんは、『神さまは山の神だけで十分だ』と言って殺してしまったってことだ。谷底に突き落とされた都の人たちの恨みは、700年経った今も消えてはいなかったんだな」
 長老は、話し終わったところで、額の脂汗を拳で拭き取った。
 谷底からの恨み節を怖がって、人が外出もできなくなったら大変だというわけで、村の者は雉谷の村中(むらなか)に、殺された7人の塚を築いた。加えて、先祖が犯した罪を償うために道真公の分霊をお祭りした。「雉谷天満宮」の始まりだ。
 お陰で、以後妖怪の不気味な声は、雉谷の谷から消えた。(完)

菅原道真:平安時代、宇多天皇に重用されて右大臣まで上り詰めたが、時の左大臣藤原時平によって大宰府に左遷される。失意のうちに大宰府で死去するが、その後天変異変が相次いだため、時の政府は彼を神(天神)として崇め、霊を慰めるために全国各地に天満宮を祀った。京都の北野や大宰府の天満宮がそれ。

 3年ぶりに上津江を訪ねた。平成の大合併で、村全体が日田市に吸収されてしまっていた。所番地は変わっても、景色は変わらない。四方が完全に山で囲まれ、いたるところで水が噴き出ている。ゴーゴーと落ちる滝の音や、すさまじい急流も、谷が深すぎて覗くことすらできない。
 何度か道を訊いて、ようやく西雉谷の天満宮を探し当てた。村の人たちの心の支えになっているのだろうか、本殿も境内も、蜘蛛の巣一つなくきれいに掃除されていた。雉谷と太宰府天満宮との関わりを考えてみる。雉谷川から上野田川、下筌ダムを下りていけばやがて筑後平野に到達する。その途中から宝満川を上れば、そこが大宰府なのだ。雉谷も筑紫も、わが筑紫次郎のふるさとの内なのだ。
 せっかくだからと、すぐ近くのオートポリスを訪ねた。そこはスピード狂たちの集合場所で、耳を劈
(つんざ)くばかりの金属音が絶えない。こんなに喧しいところなら、天神さまも逃げ出したいのではあるまいか。

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