伝説 鍋子姫 いぼ観音 大牟田市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第258話 2006年05月21日版
再編:
2019.01.26 2019.05.26
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

いぼ観音のご利益は

伊達正宗の孫娘・鍋子姫

福岡県大牟田市(倉永)


仙台奥さまの墓

 大牟田市の北方・甘木山(公園)の麓に、「仙台奥様の墓」はある。「仙台奥様」とは、柳川の二代目藩主・立花忠茂のご内室(奥方)のこと。名を「鍋姫」(鍋子姫ともいう)といい、奥州の大名伊達忠宗の娘である。独眼流でその名を馳せた伊達政宗は、鍋子姫のお祖父さまであった。
 仙台藩といえば、山本周五郎作「樅の木は残った」を思い出す。徳川家康ですら一目を置いた大名だった。「伊達騒動」の舞台としても有名だ。柳川藩がその「騒動」の沈静化に一役買ったとも聞く。奥州の伊達藩と筑後の柳川藩は、そんなにも浅からぬ関係だったのである。


鍋子姫の墓を見守るイボ観音像

 西鉄大牟田線の「倉永」駅を降りて、甘木山公園に続く道をダラダラと登っていく。昼間でもなかなか陽があたらない湿気の多い小路を抜けると、大きな観音像が出迎えてくれた。その奥にお目当ての「仙台奥様の墓」はあった。
 案内板には、「墓所に奉供してある霊水を疣(いぼ=吹き出物)などの患部につければ、不思議にも完治する」とある。江戸時代から、近郷近在の善男善女の篤い信仰を集めてきた墓所について、詳しく知りたくて出かけた。

輿入れ前の姫の悩み

 伊達政宗が没して(1636年)10年が経過した頃、江戸詰め中の二代目忠宗の娘鍋子姫と柳川藩主立花忠宗の婚儀が、江戸は上野の立花邸で執り行われた。
 姫には、乳母である千津の方が、数人の女中とともに立花家に移ることになった。輿入れを前にして、千津の心配は尽きなかった。鍋子姫の顔中に噴出している(いぼ)のことである。婚儀を前に鏡台に向かって沈み込む姫が不憫でならない。父忠宗もそのことがいたく気にかかっていて、嫁入道具は他に例をみないほどの豪華なものを用意させた。
 江戸時代、大名には地元と江戸を往復する参勤交代が義務付けられていた。また、大名夫人と世継ぎの男子は、幕府への人質として江戸屋敷に止まらなければならない。
 千津の大事な仕事は、柳川方による無礼から姫を守ることにあった。相手がたとえ主君の忠茂であっても、命を賭して守り抜く覚悟であった。

払拭する世継ぎの誕生

「お気になさいますな」
 千津は、さりげなく鍋子姫の顔のことを言う。だが、殿御との交わりを余儀なくされる女性には、気にするなと言われてもそうはいかない。そのうちに、鍋子姫の体に変化が生じた。
「どうしよう、千津。わらわのように醜い子が生まれるのではあるまいか。さすれば、さらに殿に嫌われよう」
 しかし、鍋子姫の懐妊を一番喜んだのは、ほかならぬ夫の忠宗であった。それまで側室通いの多かったことが嘘のように、鍋子姫の部屋に入り浸りになった。そして生まれた赤ん坊は男の子。
「ほーら、姫さま。こんなにきれいなお顔をなさって。将来は領民に親しまれるお殿さまになられますよ」


写真:柳川御花の造園

 抱き上げる千津の喜びようもただ事ではなかった。だが、事態は思うようには進まないもの。幼子は間もなく姫から引き離され、忠宗の側室通いが再開されることになる。
「子ができれば、醜い顔のわらわには用もないのか・・・」、鍋子姫の憂鬱の再開であった。

筑後の地で望郷の念が

 鍋子姫と千津の方に大きな転機が訪れたのは、実子誕生から20年経った頃である。忠宗は藩主の座を長子鑑虎(あきとら)に譲り、隠居することになった。
 藩主禅譲を機会に、忠宗は鍋子姫を柳川の城に移すことにした。柳川でのんびり余生を送らせようとの心遣いであった。九州の筑後は、鍋子姫にとって見るもの聞くものすべてが珍しかった。何が嬉しいと言って、仙台に比べて温暖であることだ。年が明けるとすぐに春が来る。城のお庭には、南国の花々が咲き乱れるし、街中に張り巡らされた水路を行く小舟は、姫の心を和ませてくれる。
 だが、そんな平穏も長くは続かない。
「千津、わらわは、お祖父さまのお墓参りがしたい」「瑞巌寺(ずいがんじ)の海(松島)が見たい」と望郷の念を募らせる鍋子姫。


奥州松島の五大堂

「そのように我が儘を言って困らせないでください」
 千津の方も、最近の姫の鬱にはなす術をなくしていた。そんな時、鉄文禅師から受けた法話が、姫の行き先に光明を与えることになる。

観音信仰に救われて

 禅師は鍋子姫に、自ら刻んだ観音像を与えた。
「朝晩、欠かさず拝むのです。さすれば、貴女が今何を考え何をなすべきかがわかってくるでしょう。即ち、その時が貴女が苦しみから解き放たれる時なのです」
 鍋子姫の観世音菩薩信仰が篤くなっていくにつれて、彼女の体を蝕(むしば)む病も進行していた。
「姫さま、あちらがお生まれになった奥州の仙台ですよ」
 千津の方は、「死ぬ前に、一度でいいから故郷の仙台に帰りたい」という姫の願いを叶えてやれないことが悔しくてならなかった。姫は、床の上で仙台に向かって手を合わせた。
「間もなく、観音さまに導かれてお祖父さまのもとに行けるのですね」
 背中を支えてもらいながら、ほとんど聞き取れないような囁きで、何ごとかを千津の方に告げた。
「わかりました、姫さま。この千津が、必ずお言葉をお殿さま(鑑虎)にお伝えいたします」
 延宝8(1680)年、春まだ浅い3月2日。鍋子姫は乳母に抱かれて静かに息を引き取った。五十の坂を上り詰めて間もなくであった。

疣で苦しむお方を救いたい

 藩主の鑑虎は母の葬儀を済ませた後、亡骸を領地の南方甘木山の麓の地に埋葬した。墓碑には「法雲院殿龍朱貞照大夫人の墓」と刻み、脇に等身大の観音像をお祭りした。母親の観音信仰を慮(おもんばか)ってのことである。死後のすべてが、今わの際に鍋子姫が千津の方に耳打ちしたことであったが、そのことを知るのは当事者以外にはいない。
「疣に苦しみ、家庭不和に苦しむ領民を救いたまえ」こそが、姫の願いであった。その遺言を忠実に叶えるために、柳川南方の地に墓所を建立したのであった。
 千津の方は、娘と思う鍋子姫の死を見届けると、髪を下ろし、誰にも告げずに筑後の地を後にした。その後、瑞巌寺にある伊達政宗の墓前に額ずいているところを見たという人もいるが、定かではない。
「あの仙台奥さまのお墓にお供えしてあるお水を疣(いぼ)に浸すと、すぐに治るげな」と言う噂は、あっと言う間に柳川藩から久留米藩へと伝わっていった。いつしか仙台奥さまの墓は「いぼ観音」と呼ばれて、近郷近在の女性による信仰の対称ともなっていった。(完)

 仕事や観光で柳川を訪れるたびに、松濤園の由来を聞かされてきた。つまり、仙台からお嫁にこられたお姫さまを慰めるために、故郷の松島を模して造られた庭のことだと。庭園は鍋子姫が他界して17年後に完成している。息子の鑑虎が四代目を孫の鑑任(あきたか)に譲ったあとの事業だった。隠居の身の鑑虎は、亡き母の遺言どおりに墓を築き、豪華な庭園までも捧げたのである。
 狭い山道を仙台奥さまの墓に参る途中、同年輩の女性に話しかけられた。「今では、疣で悩む人も少なくなりましたが、むかしは本当に
(お参りが)多かったですよ。いぼ観音と言いますが、神経痛やリュウマチの悩みも聞いてくれるそうですけんな。そのうち、癌も治るごとなりますたい」と言って高笑いされた。

 本編鍋子姫のお墓は、大牟田市の北方に座る甘木山の麓にある。この地方は古くから、仙台と柳川藩のご縁で、刀作りが盛んだった。このほど、東京国立博物館から「筑州柳河住鬼塚吉國」と刻銘された日本刀が見つかり、大牟田市に譲渡されたというニュースがあった。刀は戦後連合国軍の指令で没収されたものだった。
 刻銘の鬼塚吉国は、東北生まれで、立花家家老の斡旋で柳川城下に移住したものだという。大牟田のこの地は、名刀作りの匠であった三池典太光世という人が平安朝時代に活躍したことでも知られる。刀が取り持つ縁で、仙台奥さま(鍋子姫)の伝説が、歴史的に見直されることになればよいのだが。(2019年04月14日)


由来書き

 仙台奥様のお墓を最後に訪れたのは、13年前の5月だった。当時は自前の車でナビを頼りに出かけたが、今回はJR電車からタクシーに乗り換えての旅となった。運転手でも馴染がうすいらしくて、迷い迷いでやっと宝雲寺に。そこから藪蚊を払いながらイボ観音さまにたどり着くことが出来た。13年前と同じように、観音さまが奥さま(伊達正宗の孫娘)を守ってくれている。
高台から北を向いたが、当然のことながら東北の仙台を望むことはできなかった。菅原道真が、天拝山(筑紫野市)に登って、都に向かって懐かしんだ風景とそっくりである。(2019年05月21日)

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