伝説紀行 丼川のカッパ  瀬高町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第257話 2006年05月14日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

どんぶり川のカッパ

福岡県瀬高町


名鶴堰

 矢部川の中流域には、今でも仰山のカッパが棲んでいると聞いて出かけた。国道209号沿いの船小屋温泉駐車場に車を置いて、河川敷を下流に向かってゆっくり歩いていく。カッパが好みそうな川中の澱みに気持ちを集中させながら、JR鹿児島線の鉄橋下へ。何処も彼処も(どこもかしこも)護岸整備がすすみ過ぎていて、彼らの棲家なんて見つかりそうにもない。肩まで伸びた雑草を掻き分けながら川岸に出ると、突然「こんにちは」と釣り人から声をかけられてびっくり。照れ隠しに「カッパはいませんか?」と尋ねたら、人のよさそうな釣り人は、「むかしのどんぶり川には、ウヨウヨおったばってん…」と答えた。
「どんぶり川とは、いったいどこのことですな?」と訊くと、「今釣り糸を垂らしている、ここがそうですたい」だと。名鶴堰のすぐ下流の左岸で、流れが止まったように見える場所のことだ。
「むかし、沖端川分流地点から下流は水面が澱んどって、カッパには絶好の棲家だったとですよ」
 釣り人は、子供の頃にお祖父さんから聞いたという話をしてくれた。

カッパが馬や子供の足引っ張る

 100年もむかしのこと。矢部川と沖端川に挟まれた本郷村に、弥七という大変知恵の働く爺ちゃんが住んでいた。若い頃漁師だっただけあって、泳ぎにかけては彼の右に出るものはいないという評判だった。
 そんな弥七さんの耳に、カッパによる被害届けが相次いだ。川岸に繋いでいた馬が水中に引きずり込まれたとか、泳いでいる子供が川底に連れて行かれたといったことだった。その上、収獲間近のキュウリやトマトを盗まれたとも。
「カッパばやっつけられるとは、知恵もんでその上泳ぎの名人の爺ちゃんしかおらんけん、村の衆は、弥七さんにカッパ退治を依頼した。
「名人」と言われて嫌とも言えなくなった弥七さん。翌日から、カッパ退治の大作戦を開始することになった。朝早くから庭に出て、脇目も振らずに縄をなう。
「もう5間(9b)くらえにはなったかな」と呟きながら、両の掌(てのひら)に「ぺっ」と唾をかけて、また縄をなう。

カッパと泳ぎ名人の対決

 それから3日ほどたった午後のこと。爺ちゃんの目線の先に誰かの裸足が見えた。指の間には水掻きのような薄い膜がついている。皮膚は緑色のようだが、泥で汚れていてはっきりしない。
 弥七さんはわざと気がつかない振りをして、熱心に縄をない続けた。すると、件(くだん)の生き物は1歩2歩と接近してきた。そこでやおら顔を上げた爺ちゃん。
「おまや(お前は)、どんぶり川のカッパじゃなかか。何しに来た?」
 背丈は10歳くらいの子供くらいで、頭に皿のようなものが載っている。弥七さんの凄みに一瞬怯(ひる)んだ生き物は、体勢を立て直して答えた。
「そうよ、おいらはどんぶり川を縄張りにするカッパよ。それが何が悪いか?」と、あばら骨むき出しの胸を更に突き出した。爺ちゃんも、ここが勝負と決断した。
「そのカッパが、わしにどげな用事があるとか?子供や馬だけでは物足らんで、こん老いぼれまで水の中に引きずり込む気か。こう見えても、わしは泳ぎの名人ぞ」

こうなったら知恵で勝負!

「ところで爺ちゃん。爺ちゃんは何でそんなに長い縄をなっているんだ?」
「わしは、こん縄ば伝うてどんぶり川に潜っていくとたい。そしてカッパば一網打尽にするとたい」
 そんなことを言いながら、弥七さんは後ろを向いてゴソゴソと何ごとか始めた。
「あのねえ、どんぶり川ってとこは底なしだよ。そのくらいの縄で届くような深さじゃないよ」
「そんなら、こん縄がどんくれえ長いものか、ぬし(お前)が測ってみれ」


名鶴橋付近の深水

 弥七さんに言われて、藻次郎が縄の長さを計り始めた。
「一尋、二尋(ひとひろ、ふたひろ)、…100尋、101尋…」、何時までたっても縄の切れ目がこない。とうとう日が暮れてしまった。
「参りました、爺ちゃん」
 藻次郎が深々と頭を下げると、爺ちゃんはにこにこ顔になって、頭の皿を撫でてやった。
「よかよか、許してやるたい。よかか、これからは、わしん畠んキュウリならどげん取って食うてもよかばってん、よその畠はでけんぞ」
 カッパの藻次郎は、おみやげに貰った野菜をぶら下げて、飛ぶようにして土堤を上っていったとさ。

結局、人間の勝ちに?

「弥七さんがなった縄とは、川底までも届くようにそんなに長いものだったんですか?」
 僕の愚問に、釣り人が笑いながら答えた。
「そげん長かはずはなかでしょもん」
「それじゃ、どうして?」と訊き直すと、釣り人はまた高笑い。
「藻次郎とのやりとりの間に、一瞬だが弥七さんが後ろを向いてゴソゴソと何ごとか始めたち、話しましたでっしょ。あん時、弥七さんな縄の端と端ば結んだとですたい。長い長いワッカになっとるこつなんち知らん藻次郎は、際限ない縄と思うてしもうて恐れをなしたとですよ。ワハハハ」
 いろいろなカッパの話は知っているが、人間との知恵比べとはね。まだまだお話しを聞きたかったのだが、それじゃ釣れる魚も釣れなくなるということで、仕方なく土堤を這い上がった。(完)

 矢部川(どんぶり川)の川辺は、筑後川とは一味違う雰囲気がある。それは何百メートル間隔で堰が造られていることだ。物語の名鶴堰もその一つで、すべてが江戸時代に建造されたものだとか。当時矢部川を挟んで北部が久留米藩、南部が柳川藩に棲分(すみわけ)けされていた。両藩にとって、矢部川の水利は生死に関わる問題だったのである。久留米が堰き止めれば、すかさず柳川が堰の建造に取り掛かる。南から刎(流れを変えるための突堤)を伸ばせば、北もすぐに石組みを始めるといった具合に。
 沖端川に水を引き込む「松原堰」もその一つ。矢部川の水を取り込んで、全長10キロの間の田畑はもちろん、観光資源である柳川市中の掘割りをも潤してきたのである。

 川岸を散歩するお年寄りに「どんぶり川ってご存知ですか?」と尋ねてみた。答は「NO!」。「このあたりにカッパがたくさん棲んでいるそうですが?」には、「それは聞いたことがありますたい。ばってん、この年齢になるまで、見たこつはありまっせん」。

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