涎(よだ)くりさんとゴロゴロさん
濃施の北向き地蔵さん
福岡県高田町
今回紹介する高田町(たかたまち)は、三池郡の中で一つだけ残っている「行政区=町」である。久留米からの209号線と佐賀方面からの208号線が交わるあたりが町の中心で、能施という字名。JR渡瀬駅そばの踏切を越えて東側に回ると小さなお堂が建っていて、中には4体の石仏が仲良く立っておられた。向かって中央と右側がお地蔵さんで、左が観音さんらしい。地元の人は、中央の像を「涎(よだ)くり地蔵さん」と呼び、右側にお立ちのお方をゴロゴロさんと呼んでいる。ゴロゴロさんの足元には、丸い石が置いてあった。涎くり地蔵とゴロゴロさんとはまた面白い取り合わせだ。
涎くりで「困った」
「うちの孫娘はくさ、どうしたこつじゃろかんも。…しんぺえで(心配で)、しんぺえで…」
ハツ婆さんのぼやきが、今日も村中に響き渡っている。ここは能施村(現高田町能施)で、時もそんなにむかしではないむかしのこと。
孫娘の美智ちゃんは、1歳の誕生日を過ぎた頃から激しい涎(よだ)くりが始まった。「涎は、なんも、病気じゃなかたんも」と、爺さんがたしなめるが、婆さんは「困った、困った」をやめようとはしない。
「困った、困った」は、何もハツ婆さんだけではない。婆さんとは幼馴染で近所に住む夏代婆さんも、負けず劣らず「困った、困った」を連発していた。ハツ婆さんが夏代婆さんの縁先に現れたものだから、まるで蝉が鳴き声を競うように、「困った、困った」の大合唱が始まった。
カミナリを恐れて「困った」
「ところでハツさんよ。あんたが困っとる美智ちゃんの涎ちは、そげんひどかつかんも?」
「そりゃううごつ(大事)たんも。後から後から、大水のごつ涎がいぼる(湧き出る)もんじゃけん、アテチャン(胸当て)なすーぐにグショグショに濡れちまうたんも」
「涎ぐれえで…。うちの孫の桃太郎は、ゴロゴロさん(カミナリさん)ばえずがって、いっちょん(ちっとも)外で遊ばんごつなってしもうて…」
ハツ婆さんと夏代婆さんの、ぼやきと愚痴は終りそうにもない。そこに、申し合わせでもしたように、幼馴染の元三人娘のもう一人が出現した。南新開に住むヨシ婆さんである。
「何ばそげん、ぞうくよっ(騒ぐ)かんも?」
二人の「困った、困った」事情を平等に聞き終えたヨシ婆さん、やおら立ち上がると両の手で親友の手を引いて外に出た。
地蔵さんのアテチャンを借りて
連れて行かれたところが、東能施のお堂の前。
「こんあとさん(仏さん)な、こおまか(小さな)子供ん涎ん出っとば調整しちくるるありがたか地蔵さんたんも。そりから、こっちん地蔵さんば拝むと、ゴロゴロさんから子供ば守ってくるるげな。ハツさんよ、お地蔵さんの掛けとらすアテチャンば、ちょっとばっかり借(か)っていって美智ちゃんに掛けさせてみらんかんも。それから夏ちゃんな、桃太郎ちゃんばここに連れちきて、こん丸か石ばさすらんかんも」
「なして、そげなこつばすっと?」
「よかけん(いいから)黙ってうちの言うとおりにせんかんも」
駄目でもともと、ハツ婆さんは地蔵さんから借りてきた胸当てを美智ちゃんに掛けてやった。一方夏代婆さんも、桃太郎ちゃんを毎朝地蔵堂に連れてって、熱心に拝ませた。
そんなある日、桃太郎ちゃんがふいと立ち上がってお地蔵さんの前に置いてある丸い石を動かそうとした。すると、丸い石が「ゴロゴロ」とまるでカミナリさんのような音を出した。桃太郎ちゃんは、その音が面白くて、何度も何度も地蔵さんの前の石を転がし、なかなかやめようとしなかった。
ご利益抜群のお地蔵さん
夏代婆さんの話を聞いて駆けつけたハツ婆さんとヨシ婆さん。
「よかった、よかった。こりで、桃太郎ちゃんなゴロゴロさんと仲良しになったつたいね。あらあら、美智ちゃんの涎も治まったごたるな」
見れば、ハツ婆さんが抱いている美智ちゃんの涎掛けが濡れていない。ハツ婆さんは、お礼にと新しい花柄の涎掛けを作ってお地蔵さんの胸に掛けてあげた。
それからである。村の人たちは地蔵堂の中央の仏さんを「涎くり地蔵さん」と言い、右側を「ゴロゴロさん」と呼ぶようになった。お陰で、能施地方では落雷による被害もなくなったとのこと。(完)
涎:口の外に流れ垂れる唾液。
涎掛け:幼児の顎の下にかけて、涎などで着物の汚れを防ぐ布。
涎を垂らす:欲しくてたまらない様にいう。
物語の原題は「北向き地蔵さん」だが、実際は西を向いておられる。考えるに、最初はやっぱり北を向いておられたんじゃないかな。それが鉄道開通(明治期)か何かの事情で、やむなく向きを変えられたんじゃ…。
お地蔵さんの目線で線路を見ると、上り列車は左から右へ、下りは右から左へと猛スピードで走り去っていく。。目玉を左右に動かし続けるお地蔵さんもお疲れでしょう。みやげに、目薬を持参するべきだったと後悔した。
ひと時も脇見せずに、交互に走る客車と貨車を見つめてきたお地蔵さんは回顧なさる。
鉄道が渡瀬駅まで延びた120年前のあの頃。初めて目にしたのが、悲惨な西南戦争だった。日本全国から熊本県に集結する軍隊さんを勢いよく運んだもんだ。だが、帰り(上り)列車には、傷ついた男たちが、まるでゴミの山のように貨車に積み込まれていた。写真は、地蔵さんの目線で眺めるJR渡瀬駅
日清戦争から日露戦争へ。鉄道は軍人と軍需物資、それにエネルギー源の石炭ばかりを満載して通り過ぎた。そんなことは、半世紀後の太平洋戦争まで続いた。敗戦でやっと鉄道が庶民の乗り物になるかと期待したがそうはならなかった。進駐軍に占拠されてしまったのだ。日本人の心の支えを自負する地蔵にとっては、見るに耐えない光景だったな。
石炭からディーゼルへ、そして電気に。列車を引っ張る機関車の動力源も様変わりしたもんだ。それでも、庶民の足として活躍する鹿児島線を頼もしく感じた。そんな喜びもつかの間、鹿児島線と並行して建設されている新幹線が地蔵の夢を打ち砕いてしまう。完成後は、効率の悪い渡瀬駅なんて一顧だにされなくなるだろう。そうなれば、後には激しい騒音が残るだけ。そしてお決まりの「第三セクター」移行から廃線に。
そげなこつは、考えとうもなかばんも。こげなこつになるくらいなら、西向きば頼まれたあん時、はっきり断っておけばよかったたんも。