伝説紀行 小松内府の古塔  基山町(大興善寺)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第253話 2006年04月16日版
2017.02.05 2018.01.29
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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

忠ならんと欲すれば・・・

小松内府の古塔(古墳)

佐賀県基山町(大興善寺)


平重盛の遺髪を埋めたと伝わる五重塔

 基山町の小松地区は、三方を屏風のような山に囲まれた穏やかな山里である。それだけに人の営みの歴史は古く、貴重な史跡と信仰の対象がわんさと存在する。北方に聳える基山(404.5b)山頂には、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で唐・新羅軍に大敗した日本が、防御のために築いた「基肄城址(きいじょうし)」が保存されている。里のいたるところに点在する寺院もまた、(いにしえ)からのメッセージばかりだ。
 天台宗寺院の大興禅寺もその一つ。由緒によれば、その開基は約1300年前(717年)に遡り、寺を開いたのがあの有名な行基だというから驚きだ。山門を潜ってすぐに、石造りの小さな五重塔が目に入った。説明板には小松内府の古塔とあり、内府の遺髪を埋めた塚だそうな。小松内府といえば、大河ドラマで話題の、平清盛の嫡子・重盛の尊称である。
 重盛に因んで、寺の山号を小松山と名乗ったこともあり、字名も小松という。

行基:奈良時代の僧。畿内に多くの寺院を建立。交通・灌漑施設を造るなど、社会事業を通して民間布教に尽くす。激しい弾圧を受けた後薬師寺に入り、大仏造営事業にも協力。日本最初の「大僧正」となり、「行基菩薩」と崇敬される。

重盛は戦が嫌いだった

 時は平安時代末期。都にあって、平家の当主平清盛の嫡男重盛の守護を言い渡されている治平太は、主人の動向が気になって仕方がない。
「さあ、お元気を出されて、馬にお乗りくだされ」と誘っても、なかなか気乗りがしない様子。
 重盛が誕生したのが保延4(1138)年だった。幼い頃の重盛は、どちらかといえば神経質で、体力もそんなに強いほうではなかった。10歳になると、庭に連れ出して乗馬や剣の稽古をつけるのにも一苦労だった。18歳に成長すると、早速戦場での実践が待っていた。世に言う保元の乱である。人を斬ることが嫌いな重盛は、すぐ兵の後ろに回ろうとする。
「大将がそんなことでどうなさる!」と、重盛の馬の尻を叩いて前に出させた。飛び掛ってくる敵兵に対しては、すかさず治平太の剣が唸った。


小松の里

 そんな主従の葛藤など知らぬ父の清盛は、表面の軍功だけを見て息子を褒めた。重盛が21歳になると、今度は平治の乱が勃発して、再び戦場へ。
「宿敵源氏を討つ絶好の機会ですぞ。この戦に勝てば、もう平家に逆らうものなどなくなりましょう」
 ここでも、治平太の指導よろしく、重盛の戦功がもてはやされることとなった。彼が予想したように、源氏の衰退は即ち、平家一門の栄華の時となった。

平治の乱:清盛が熊野参詣の隙に、源義朝が挙兵。法皇を幽閉し、清盛が頼りにする藤原通憲を殺害した。帰京した清盛は義朝を破った。この内戦を境にして源氏は勢力を失い、平氏の全盛期を迎える。

陰謀の中に義兄が

保元・平氏の乱の勝利で、重盛には背負いきれないほどの官位がつけられた。重盛は、嫁選びに当って後白河法皇の近臣である藤原成親の娘をものにした。官位も内大臣へと上り詰めた。小松谷に住む内大臣と言うことから、周囲では重盛のことを、「小松の内府」とか、「小松宰相」とか呼ぶようになっていた。
 清盛を頭とする「・・・にあらずんば人にあらず」とまで言わせた平家一門の全盛時代であった。だが、驕る平家には、気づかぬうちに取り返しの効かないほどにほころびが生じていた。
 安元3(1177)年6月1日のことだった。平家政権の転覆を狙う輩が謀議を重ねているという通報が、清盛のもとになされたのである。通報したのは、他ならぬ後白河法皇に最も近い多田行綱であった。
「まさか?」、重盛の困惑顔を見て、治平太もうろたえた。その「まさか」が現実となってしまった。謀議の場所となった鹿ケ谷(ししがたに)で捕縛されたのは、僧の俊寛と西光、平康頼と藤原成親の4人である。いずれも後白河上皇の院政を支える人物ばかりであった。しかも藤原成親は、我が妻の兄ではないか。
「なぜだ? 多田行綱といえども、法皇の側近中の側近ではなかったか」
 激しくジダンダを踏む重盛を、治平太は鎮めることができなかった。

鹿ケ谷:京都市左京区の東南部、如意ヶ嶽西麓一帯の地名

命乞いに奔走

 裁きの庭に引き立てられた俊寛らは、覚悟を決めている様子であった。平家転覆の陰謀を隠そうともせず、転覆の理由を、彼らが崇拝する後白河上皇の院政を圧迫する清盛を追放するためだと述べた。西光は謝るどころか、逆に平氏を罵った。怒った清盛は、ただちに五条西朱雀で西光の首を刎ねた。

 彼らの後ろで糸を引く後白河法皇には鳥羽の離宮へ軟禁、他の者は処刑が当然との空気が流れた。
 治平太は、もし重盛が清盛に、法皇や俊寛らの命乞いをすれば即ち重盛まで一味と取られかねないと心配する。


大興禅寺から臨む小松の里

「父への孝行と君への忠義は、相反することもあるぞ、治平太」と言い残して、清盛の宮殿へと走った。重盛のこの時の言葉が後に、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」となった。
「後白河法皇への刑はお控えくださいませ。また義兄と俊寛・康頼の命ばかりは・・・」
 嫡男からの嘆願を受けた清盛は、上皇の罪を問わないと約束した。藤原成親は備前の児島へ、俊寛・康頼の2名は遠く薩摩の鬼界島へと配流した。ただし、重盛に与えられた官位を自ら返上するという条件がつけられた。

出家した後に他界

 重盛の言いつけで治平太は、熊野参詣に同道することになった。鹿ケ谷事件から2年後の治承3(1179)年3月ことである。


熊野古道


 小松谷の館をあとにするとき、妙に胸が締め付けられるのを治平太は覚えた。そんなに多くない行列の最後尾を歩きながら、41年前に、生まれたばかりの重盛に仕えてこの方のことが走馬灯のように甦った。
 治平太の予感は外れなかった。熊野についてすぐ、重盛から重大決意を聞かされたのである。呼ばれた治平太の前には髪を切る鋏が置かれていた。
「予は、神をも恐れぬ父に代わって、懺悔のために仏門に入る。よって、剃髪を手伝うよう」頼まれたのだ。その時治平太には、返す言葉が見つからなかった。重盛の出家後の法名は「浄蓮」。
 重盛は熊野から帰京してわずか4ヵ月後に41歳の若さで病死している。
「おかわいそうに。平家のお世継ぎであったばかりに、人と人との争いごとを避けることもできず・・・」
 治平太は、重盛の亡骸にすがって泣きとおした。

遺髪を胸に九州へ

 いろいろあってもそこは父子。重盛の死を聞いて衝撃を受けたのか、平清盛も2年後の養和元(1181)年には没している。享年63歳であった。
 重盛が出家するとき、密かに彼の頭髪を懐にしていた治平太は、誰にも告げずに都をあとにした。四国を旅する途中出会った僧から、重盛の永眠の地を九州にせよと教えられた。治平太は、言われるままに筑紫の大宰府から更に南へ。たまたま行き着いたところが、行基が開基したという禅寺であった。
 治平太は肌身離さず持ってきた主人重盛の遺髪を寺の境内に埋めた。和尚は、毛髪を埋めた場所に石塔を建ててくれた。それが現在の「小松内府の古塔」であり、字名の「小松」も重盛にちなんでつけられたようだ。写真:大興禅寺本堂
 平重盛が亡くなったのを境にするように、平家は没落の一途を辿ることになった。そして8年後の寿永3(1185)年、源氏軍に追い詰められた平家は、関門海峡の壇ノ浦で滅亡する。(完)

「小松内府の古塔」が祭られる大興善寺は、一方で「ツツジ寺」としても有名だ。山門に至る階段から裏庭まで、全山が真っ赤に染まる4月は、本寺が一番華やぐときである。寺を出て、近所のお婆さんと話し込んだ。「うちの主人は、寺につつじを植えるときや見物客のための駐車場を造る時、よく働きました」と自慢する。周辺のここかしこにお地蔵さんや祠が祭られている。むかしからの信仰深い土地柄をよく表している。


大興禅寺内に建てられた古民家


 さて、平重盛と大興禅寺の因縁であるが。と、また余計なことを考えてしまう。平家が最後まで頼りにしていた大宰府が間近のせいなのか。「忠ならんとすれば孝ならず」と同じ悩みを引きずってきた里人だからなのだろうか。いずれにしても、取材を終えて小松の里をあとにするとき、何度も振り返ったことだけは本当のことです。

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