伝説紀行 平知盛の墓  久留米市(田主丸町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第250話 2006年03月26日版
2017.01.29 2019.02.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

身代わりに身代わりが

平知盛の墓

福岡県久留米市(田主丸)


平知盛の墓

 JR久大線(久留米−大分)の筑後草野駅を降りて南へ。前方を遮る耳納連山に向かって柿畑を登っていくと、「平神社」と称する小さなお宮さんが見えてくる。奥まった場所には2基の石塔が建っていて、「平知盛の墓」と書いてあった。
 平知盛(たいらのとももり)といえば、壇ノ浦合戦で平家方の総司令官を勤めた猛将である(平清盛の四男)。歴史書によれば、知盛は海峡に飛び込んで自ら命を絶ったとされている。壇ノ浦で死んだはずの武将が、遥か筑後の山里に葬られているのはなぜか。これには深い理由(わけ)がありそうだ。

死んだはずの知盛が

 時代は、壇ノ浦合戦で源平の戦いに決着がつき、源氏が勝利して鎌倉幕府が開かれた頃のこと。今から820年以上もむかしのことである。筑後の吉木(久留米市草野)に向かう数十人の武装した公達集団があった。平清盛を父に、高倉幼帝の母建礼門院を妹に持つ平知盛(たいらのとももり)とその一党であった。中には女房や子供の姿も見える。


壇ノ浦合戦の図

 一行が筑後川を渡り終えて中尾の里まで行き着いたところに、草野の竹井城に遣わしていた家臣が駆け込んできた。
「これより南に向かうのは危険でございます」
 竹井城主の草野永平は、平家の加護のもとでこの地方を治めてきた一族である。平家がもっとも頼りにする豪族に裏切られたことを知った知盛はもちろん、無事大河を渡り終えたばかりの者たちの顔が青ざめた。


関門海峡壇ノ浦の知盛像


「竹井城家老の合原外記を先頭に、間もなくこちらに攻めてまいりましょう」

平家再興のため身代わりに

 案の定、数百騎とも見える武装集団が砂埃(すなぼこり)を巻き上げながら迫ってきた。
「ここは御大将の首さえ差し出せばすむこと。その役目をみどもが承りましょうぞ」
 知盛の影のような存在の伊賀平内が、知盛の身代わりに立つと言い出した。
「それはならぬ。こうなれば、全員玉砕ぞ」
 知盛は平内の申し出を一蹴しようとした。


教育委員会等の案内板

「知盛さまともあろうお人が、この期に及んで戯言をおっしゃいますな。壇ノ浦で貴方さまの身代わりをたててここまで落ち延びたは、いったい何のためか。すべてはいつの日か平家再興を念じてのことではありませぬか。貴方さまは平家再興を果たす為に欠かせぬお方でございますぞ。それから、女子供も逃がさなければなりません。平家の未来を繋ぐ役目を担ってもらうためです」
 伊賀平内は、割り切れずにいる知盛の鎧兜を剥ぎ取ると、自らが大将の形(なり)を整えた。

逃げた女子供で子孫繁栄

 知盛と妻子らを遠ざけた伊賀兵内は、迫ってきた合原外記の馬前に立ち塞がった。
「やーれ、そこな田舎侍ども、よっく聞け! 我れは平知盛なるぞ。平家の恩も忘れ、敵の軍門に下る人でなしを成敗いたす」
「たわけたことを。そこな者、知盛にあらず。身を隠しておる知盛を探せ」
 立ち塞がる平内に草野の大軍が襲いかかった。だが、戦況は瞬く間に優劣を決することになった。伊賀平内の首は刎ねられ、平知盛も捕まった。
「平知盛の墓」は、平家と知盛の最期を憐れんだ村人が供養のために築いたもの。墓の場所に写真のような石塔が建てられたのはずっと後のことである。村人は、墓の脇に平神社も祭った。


知盛の墓から見上げる耳納の山

 そして伊賀平内の妻子と数人の家族は、険しい耳納山を越えて福島の今山(現八女市今山・筑後市との境付近)に落ち延びたとのこと。「服部」と姓を変えた彼女らは、時間をかけてその土地に馴染み、子孫を繁栄させたという。その服部さんらは、800年経過した今も、時々中尾の里の平知盛の墓にお参りされていると聞いたのだが。(完)

 富有柿畑の中の「知盛の墓」は、威風堂々天を突いていた。「平家物語はこの場所にもあった」と実感させられる。目の前の耳納山は、雨上がりのせいもあってまるで墨絵を観ているよう。落人伝説にはうってつけの、大自然が織りなす演出ではある。
 しかし待てよ、と考え込んだ。壇ノ浦を見下ろす甲宗八幡神社
(北九州市門司区)には、これまた立派な「平知盛の墓」が設けられていると聞いた。どちらが本当の知盛塚かなんて考えないほうが利口のようだ。800年たって、知盛さんが2人いても悪くはないと割り切ることにした。
 さて、物語の主人公・平知盛についてだが・・・。
 先にも述べたように、平安末期に権勢を振るった平家一門の総帥・平清盛の四男坊である。権中納言の位をいただく知盛は、同腹の兄宗盛を助けて、壇ノ浦における源氏との決戦の指揮をとった。戦況不利を認めた知盛は、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」の名文句を残して海流逆巻く関門海峡に飛び込んだ。このとき知盛は、錘
(おもり)の代わりに碇を担いだとも、鎧を2枚も着たとも伝えられている。合戦中御座舟にいた二位の尼もまた、数え8歳の安徳天皇を抱いたまま、三種の神器とともに海峡深くに沈んでいった。この瞬間が、栄耀栄華を欲しい儘にしてきた平家滅亡の場面である。
 それにしても、平家落人伝説には死んだはずの人物が「実は生きていた」伝説の多いこと。

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