伝説紀行 チリンチリン土堤  うきは市(吉井町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第243話 2006年02月05日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

チリンチリン土居

福岡県吉井町(現うきは市)


チリンチリン土居(背後の建物はうきは市役所)

 うきは市役所庁舎(旧吉井町)裏手を、土地の人が「五庄屋川(ごしょうやがわ)」と呼ぶ水路が通っている。子供の頃、水路の土堤(どて)は恰好の滑り台だった。「戦中・戦後」を経験した年配者にとって、思い出がいっぱい詰まった「チリンチリン土居」でもあった。
「五庄屋川」は、330年前の江戸時代に、久留米藩の水田開発事業として造られた用水路の枝川のこと。だが、「チリンチリン」の由来について、知っている人は少ない。

遍路さんが鈴を鳴らして…

 江戸時代も終わりの頃だったか。れんげの花が咲く小径を恵蘇の宿(えそのしゅく)方面から「チリンチリン」と腰に下げた鈴を鳴らしながら、一人の男遍路がやってきた。遍路は、年齢(とし)の頃なら40歳前後だろうか、白い杖を頼りにやっとの思いで歩いている。美津留川脇に建つ一軒家の前に立って、詠歌を唱えて銭を乞うた。
「お目が不自由のようじゃな?」
 小銭を握って出てきた老婆が、同情するように庭先の縁側に座らせた。


南新川からチリンチリン土居への取水口

「はい、私めは星野の出で茂吉という者でございます。若い頃の悪さが祟って、目が見えなくなってしまいました。父は、「お大師さまのご慈悲にすがれ」と言って、四国八十八箇所へ送り出しました。それからでございます。この杖だけを頼りにしての八十八か寺を巡ったのは・・・」
 茂吉は、1年がかりで無事88箇所を廻り結願を果たした。それでも仏は、彼のかつての悪行を許してはくれなかった。どんなに拝んでも、視力を回復することはなかったのである。絶望の果てに、何度か死をも覚悟した。

若い時の悪さが祟って

 どうせ死ぬなら、もう一度ふるさとの空気に触れてから・・・の思いが、やっとの思いで筑後の大川を越えさせた。
「目には見えなくとも、南に聳える耳納の山ははっきりと瞼に刻んでおります」
 茂吉は、老婆に語る間も何度も咳き込んで苦しそう。
「あんたの言うとおりじゃ。あの耳納を越えたところが、生まれ故郷なのじゃ。気をしっかり持ってお帰りなされ。さすれば、親御さんも温かく迎えてくれるじゃろうから」
 老婆は洟(はな)をすすりながら、小銭と握り飯をさんや袋に押し込んだ。しばらく歩くと、手ごろな土堤が横たわっていた。老婆に貰った握り飯を頬張りながら、思いは山向こうに暮らす父母や兄弟のこと。父母が温かく迎えてくれたなら、もう思い残すことは何もない。

鈴を残してあの世へ

「こんなにうまい飯は、いつ食べたきりだろう」
 2個目の握り飯を飲み込んだところで、喉に詰まった。座り込んだ土堤の先からかすかにせせらぎが聞こえる。春の陽気で伸びた草をかき分け、掌で水を掬おうとした。その時、足に絡んだ蔓が茂吉の自由を奪ってしまい、水路に転落した。目の不自由な者には掴まる手当ても叶わず、ずるずると水の勢いに押し流されていく。
 しばらく経って通りかかった農夫が、置き去りにされている菅笠(すげがさ)や杖を見つけた。
「どうせ、通りがかりの者がその辺をうろついているんじゃろ」、農夫が立ち去ろうとすると、草むらから「チリンチリン」と涼やかな鈴の音が聞こえる。しゃがみこんで見ると、それは遍路が腰に下げている持鈴(じれい)の音だった。はるか下流を遍路姿の男が流されていくところだった。引き揚げたときには、茂吉の息は止まった後だった。

 茂吉の亡骸は、村人たちの手によって、無縁仏として葬られた。それからというもの、五庄屋川のほとりでは、夕刻になるといつも「チリンチリン」と涼しげな鈴の音が聞こえるようになった。五庄屋川の堤防のことを「チリンチリン土居」と呼ぶようになったのは、それからである。(完)

 遍路が不遇の死を遂げたという用水路の堤防に立った。たまたま通りかかったお爺さんに話しかけた。
「覚えていますよ、ここにカネボー(鐘紡)がたっちょった頃を。終戦のすぐ後に、80bもある高い煙突が倒されましてな。あんときは、大人も子供も皆んなが寂しそうに見守りました。うちの死んだおっかさんなんかは、目頭ばふいちょったですよ。カネボーの後には生葉中学校が入り、その後公民館などが建ちました。こん土堤のこつば、むかしからチリンチリン土居ち言いよりました。何でも坊さんがどうかなさったとかで・・・」、それ以上詳しいことはわからないと、手を振りながらお爺さんは遠ざかって行った。華やかな表通りから一歩奥に入った南新川のほとりに立って、吉井の町の奥深さを知らされた。写真は、チリンチリン土居側の鐘紡跡の生葉中学校=昭和23年撮影

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