伝説紀行 天登りの婆  柳川市(三橋町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第238話 2005年12月18日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

天昇りのババしゃん

福岡県三橋町(現柳川市)



むかしの湿地帯を連想させるクリーク

 三橋町(現柳川市)の北部を、横切るようにして矢部川支流の沖端川(おきのはたがわ)が流れていく。名物どんこ舟が待つ柳川掘割りはもうすぐそこだ。「三橋(みつはし)」という町名は、川の南側を並行して走る国道443号に架かる三つの橋(御前橋・御仁橋・御三橋)にちなんだものだとか。町域全体が矢部川(沖端川を含む)の沖積地で、上の写真で見るように、むかしの湿地を彷彿させるクリークが張り巡らされている。
 人々は、繁らせた葦の葉を湿地に敷いて、その上から踏み固めて少しずつ農地を広げていったという。もっとも原始的な方法で暮らしの場所を確保していたというわけだ。
 今回のお話しは、そんな開拓期のエピソードである。

村中のものが蓮根畑に大集合

 三橋町の東北部に、江戸期から明治にかけて吉開村が存在した。村に住む未亡人のチカババしゃん(お婆さん)も齢(よわい)60の峠を越えている。
「ババしゃん、よか天気ない」
 ケチで知られるチカさんが、珍しく村中の三吉を縁側に座らせてお茶まで出した。
「気持ちん悪かね。ババしゃんにお茶てんなんてんもらうちは。そっでおり(俺)に何か用でもあっとかい?」
「こんこつは、誰にも言うちゃいかんばの(いけないよ)」と、念を押してチカさんが打ち明けたこととは。
 翌朝早く、あちこちから村人がチカさんの家に集まってきた。数日前に水をぬいたばかりのがたちまち人だかりになった。100戸の家から赤ん坊を含めて500人が一堂に集まったのだから、足元の泥濘(ぬかるみ)など気にしてはいられない。
 それもこれも、昨夜三吉が村中に触れ回ったことに関わっている。

ババしゃんが昇天なさる

「チカババしゃんが、あしたん朝8時に天に昇らすげなばの。こんこつは、あんただけにこそっと教ゆっとじゃけん、だれんでん(誰にでも)言うちゃでけんばん」
「言うちゃいかん」と言われれば、口がひとりでに動き出すのがこの地方の人情というもの。「ババしゃんが天に昇らす」という噂は、瞬時のうちに村中に広がった。それも、梯子(はしご)をつたって、本物の天に昇るというから大変だ。言い換えれば、ババしゃんが人前で昇天するということになる。誰にでも二度と拝めるショーではない。それなら、未だ物心つかない赤ん坊の目にも焼き付けておかなきゃ。
「ババしゃんも、とうとう観念せらしゃったばいね」
「死なっしゃるとなると、・・・あんお人はよか人(いい人)じゃったない」
 勝手なことばかり言いながら、村中から人が集まってきた。

一段登るごとに掛け声が

 きっかり8時。ババしゃんが家から出てきた。見守る村人の中には、火のついた線香の束を持って、「なんまいだ、なんまいだ」を唱えているご婦人も見える。
「ほんなら今から天に昇りますもんの。すんまっせんばってん、力の強か男衆はこん梯子ば支えちょってくれんじゃろか。それから、おどんな淋しかこつばいっちょん好かんけん、一段昇るごとに大っか声ばかけてくれんの」
 村人が、固唾(かたず)を呑んでババしゃんの梯子昇りを見守った。
「よいしょ、そん調子」
「おーい、むかしのよかおなご、はりこめ(頑張れ)!」
 十重二十重と取り巻く観衆から、掛け声がかかる。そのたびに、蓮や葦の葉を敷き詰めた地べたが踏み鳴らされた。
 梯子のてっぺんまで上り詰めたババしゃんは、じっと天を睨んだまま動かなくなった。熊野神社の大藤
「おりどん(俺たち)の掛け声が細か(小さい)けん、天に飛び上がれんでござるとじゃろか」
 三吉が囃したてると、再び大合唱が始まった。ペッタン、ペッタン地面が唸り、赤ん坊が泣き叫ぶ。

天を睨んで降りてきた

 それでもババしゃんは、梯子のてっぺんで動こうとしない。陽も西に傾く頃、何を思ったか、ババしゃんがスルスルと梯子を滑り降りてきた。これには、野辺の送りのつもりの村人もびっくりするやらがっくりくるやら。
「すんまっせんな皆の衆。梯子のてっぺんから天井を見たらさい、天への入り口の扉が閉まっとったもんじゃけ、それ以上行かれんとたい」だと。世紀の天空ショーを見逃した人の表情には、ありありと悔しさが見えた。
「ありだけぬかっとった蓮根掘が、カチカチに固まってしもうとる」
 そのことが面白いのか面白くないのか、皆さん複雑な表情で帰路についた。
「よかった、よかった。これで来春から野菜が作れる」と、チカさんだけは家の中で大笑い。
 寄る年波はいかんともしがたく、還暦を過ぎた未亡人には、寒風と冷たい泥の中での仕事に耐えられなくなっていたのだ。堀の水をぬいて野菜畑にしようにも、土がなかなか固まってくれない。そこで思いついたのが、日頃後家(ごけ)の自分を笑いものにする村の衆の力(否体重)を借りて開墾しようと考えたのだった。

 それからである。それまで役に立たなかった土地を開墾することを、「足踏み」と称するようになったのは。大むかしは「葦開」とも言っていた村名を「吉開」と呼ぶようになったのが、ババしゃんの「天登り」事件がきっかけになったのかどうかは、資料からではわからない。(完)

 平成の大合併で、山門郡三橋町はお隣の柳川市と合併した。これで西鉄柳川駅が他町(三橋町)に所在する複雑さも解消された。でも、やっぱり合併によって一つの町が消えるのは寂しい。本編の「吉開地区」は、「柳川市三橋町吉開」と呼ばなければならないそうだ。
 三橋には、関ヶ原以降に筑後国の大名になった田中吉政の影響が色濃く残っている。彼は、列島改造よろしく縦横に往還を走らせた。
代表的なものが、北の久留米まで伸びる柳川街道と東の山川町に通じる国道443号であろう。それらの起点になるのが柳河城であり、三橋地区であった。
写真は、吉開地区の鎮守・白山神社
 さらに田中氏は、米の生産を飛躍させるために、驚愕に値するスケールの堤防を築いて海の水をぬいた。筑後川や矢部川(沖端川を含む)下流域の中州や湿地帯を、次々と水田に変えていった。跡継ぎがいなくてお家断絶になった善政がもし幕末まで健在であったなら、わがふるさとの様相も相当違っていただろう。
 山や丘など凹凸がまったく見えない水田の中を歩いていても、全域湿地帯だったむかしを連想することは難しい。

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