伝説紀行  砂ふり婆  久留米市(三潴町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第230話 2005年10月23日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

みずまの砂ふり婆

福岡県三潴町(現久留米市三潴)

 

 三潴町(みずままち)は典型的な穀倉地帯である。四方八方に張り巡らされたクリークは、水稲を育てるための命綱。田植えの準備が始まると、溝にいっぱい水が貼られ(写真右)、秋の収獲が終る頃には川底のヘドロが顔を出す(写真中)
 爽やかな秋風を受けて、ホンワカ気分で福光(ふくみつ)のあたりをウロウロしていると、稔った稲の間から呼び止める者がいる。麦藁帽子(むぎわらぼうし)と首に下げた手拭がよく似合う髭面の老人だった。
「今はね、あちこちに洒落た家がでけて(できて)、外灯も道の舗装もあって、夜も淋しゅうのうなったばってん・・・」
 あぜ道に二人並んで腰を下ろし、老人は隣のものに聞かせるでもなく、だからといって独り言でもないように呟きを始めた。

むかし三潴は淋しかった

 わしが子供の頃、このへんはほんなこつ(本当に)淋しかとこじゃった。すぐそこの田んぼんあたりは鬱葱とした雑木林で、そん中にはいつ頃の誰のもんかもわからん墓石が散らばっとった。あすこの山ノ井川ん川岸には、笹竹と、こうまか(小さな)松やら、なんとんつくれんごたる(名前も知れず、役立たず)木が生い茂っとったもんたい。
 わしが細かとき(子供の頃)、祖父ちゃんにつんのうて(連れて行かれて)、笹ばかき分けち川に入った。うん、魚ば獲るためたい。タフナゴ(小形の鮒のこと)やどんこ、うなぎ、なまず、どじょう、なんでんかんでん(何でも)よう獲れた。特に祖父ちゃんは魚とりの名人じゃったけんな。石垣の中に手ば突っ込んで、なんかモサモサしとるかと思うたら、もうこげんおっか(大きな)ツガニ(川蟹)ば引っ張りだしょらした(出しなさった)もんの。
 そん祖父ちゃんの楽しみは、晩ご飯の後にわしに話ばして聞かすっこつじゃった。

夜道はお化けが怖い

 そん一つが、こん辺で出会うた砂ふり婆(すなふりばば)んこつたい。聞きよるだけで体が凍るごつ寒うなったもんたい。
 それは、わしの祖父ちゃんがまだ子供の頃んこつじゃったげな。祖父ちゃんが子供の頃ち言や、明治の初めたいね。田んぼん中の狭か一軒家で、親子三代10人が暮らしとったげなばい。祖父ちゃんな4番目の子じゃったばってん、男じゃ一番上じゃったけん、何かちいうとすぐ手伝いばさせられたげな。
 ばってん日が暮れてのお使いばっかりは、どうしてん嫌じゃった。なしか(何故か)ち言うと、村の年寄りから、この辺には怖ろしか砂ふり婆が出るち聞かされとったけんたい。嫌なこつば、祖父ちゃんの父ちゃんは何回もやらせよらしたごたるね。その日も、末の弟が高っか熱ば出したちゅうて、柳川街道筋のお医者さんば呼びに行けち言われてくさい。
「明日ん朝じゃいかんと?」ち、抵抗したもんじゃけ、祖父ちゃんの父ちゃんが怒らしたこつが・・・。「何ば言うか、こん馬鹿もん。末男が死んだらどげんすっとか!」ち言うてない。

柔らかなものが頬っぺたを

 しぶしぶ家を出たもんの、外は星明りだけが頼りの一本道たいね。「ぶるっ」と体が震えてくさい。そりもそんはず、「ピューッ」ち木枯らしが吹きよったけんね。
「フォ〜、フォ〜」ち向こうの薮から梟(ふくろう)が鳴きよる声が・・・。そりが「こっちにはお化けがおるもんね」ち囁いとるごつ聞こえたつたい。また歩き始むると、後から草履の音が「パタパタ、パタパタ」ちついてくっじゃなかね。父ちゃんが心配して来てくれたつかと思うて振り返ったが誰もおらん。
「ひゃーっ!」 頬っぺたば柔らっか手で撫でられて、そん場に座り込んでしもうた。柔らっか手は、頬っぺたから首筋まで撫で回してくさい、生きた心地やせんじゃったばい。勇気ば出してそん手ば払いのけたら、何のこつはなか、そりゃ綿毛になったススキの穂じゃった。

大木上から砂まかれ

「ウハウハウハ・・・」 誰かが頭の上で嘲笑(わら)うた。
「こんチキショウ、俺ば馬鹿にしおって!」と、腹かいて(怒って)見上げたら、大きな笹竹が細か木の枝に擦(こす)っとる音じゃった。
 「こら待て!小僧」 誰かが頭上から呼び止むるもんがおる。
「誰じゃろか、こげなとこで俺ば呼ぶ奴は?」
 見上げてみると、大きな楠の木の枝の上に、顔は皺だらけで目だけがギラギラしたババしゃん(婆さん)が立っておった。
「あんたんごたるババしゃんにゃ、用はなか」ち言うて走り出そうとしたその瞬間、上から白か粉のようなもんがバラバラち落ちてきた。「痛か!」 それもそのはず、粉ち思うたもんな実はこまか(小さな)砂じゃった。

砂ふり婆に食い殺される

 頭といわず顔といわず、砂つぶてが祖父ちゃんの体に降り注いだげな。そして目にも。とうとう、先が見えんごつなってしもうた。これが話しに聞いとった“砂ふり婆”たいね。そんなら早よう逃げんと食い殺されるが
 祖父ちゃんな、目が見えんまんま必死で逃げたげな。やっとこさ、柳川街道んお医者さんちに着いたら、先生はござらんじゃった。
「どこへ?」と訊いたら、「あんたげ(あなたのお家へ)だと。「どうして?」ち訊いたら、「あんたの父ちゃんが迎えに来たけん」ち。
「これが、わしの祖父ちゃんが子供の頃に経験した、えすか(怖い)話したいね」 隣に座る老人がしみじみと語り終えた。

「へえ、砂ふり婆ちは、遠か奈良とか京都にしかおらんもんち思うとりましたが、こげな九州の三潴町にもおったとですか? それで・・・、あなたの祖父ちゃんが会うた婆しゃんちゃ、はんなこつ(本当に)砂ふり婆だったんじゃろか? そんなら、今でもこの辺のどこかにおってもおかしゅうはないですが・・・?」と、嫌な質問をぶっつけてみた。
「わしも、子供ん頃に一度だけ、向こうに見える墓場んとこで砂ふり婆ば見たごたる気もするばってん・・・」 老人はそのまま黙り込んでしまった。
「はっきり覚えてないんですか?」なんて訊きなおすと、「今時はこげな田んぼん道でん、みんな舗装ばしとるけんな」と意味不明なことをおっしゃる。そこで老人は突然立ち上がり、被っていた手拭で体中の埃を払った。思わず目をつむったら、目の前から老人の姿が消えていた。重たそうに頭(こうべ)を垂れた稲穂の間にでも隠れたのかと向こうを見たら、爺さんと同じ恰好をした案山子(かかし)が立っておった。(完)

“砂ふり婆”は、水木しげるが世に送り出した代表的な妖怪である。
誰もいない林の中で、ふいにパラパラと砂が落ちてくる。姿は見えないが老婆の妖怪ではないかと考えられ、砂かけ婆と名前がついた。鬼太郎軍団の相談役。妖怪アパートを経営している。
出身は、奈良県。近畿各地で目撃情報がある。
武器は、砂を使った目潰し攻撃。

と説明されている。
 筑紫次郎の伝説紀行では、これまでにいろいろな妖怪が登場してもらった。カッパ・大蛇・天狗・山姥・ウブメの幽霊・化け猫・鬼などなど。でも、姿もはっきりしない妖怪はこの砂ふり婆が初めてである。諸々の書物によれば、この妖怪は幽霊の何倍もの怖さを有しているという。何しろ、人の行く手を完全にシャットアウトするのだから。
 ところで、舞台となった三潴町だが。関ヶ原合戦のあと筑後国主になった田中吉政が、柳川と久留米の間に造った街道筋に位置する。そろそろクリークの水抜きが始まるそうな。そうしたら、鯉とか鮒とか鯰とか、年に一度のご馳走で、村の鎮守の祭りはさらに盛り上がるだろう。

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