伝説紀行 修学院の地蔵さん  吉野ヶ里町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第226話 2005年09月25日版
再編:2017.06.11
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
修学院のお地蔵さん
【参考資料:九州の戦国史】

佐賀県東脊振村

 「背振(せふり)山脈」という名前は、龍が背を振る姿に似ているところからつけられたといわれる。一番高い背振山(1055b)を中心にして対称に広がり、筑前(福岡)と肥前(佐賀)を遮る屏風の役割を果たしている。この山地、1300年もむかしから、霊山として人々の信仰を集めてきた。山頂には、かつてこの山に降りたったと伝えられる弁財天女を祀る上宮が、中腹には中宮の霊仙寺が設けられていたが、今はその全容を見ることはできない。写真:脊振山頂に祭られる弁財天宮
 お話しの舞台となる修学院は、上宮、中宮に次ぐ下宮として、麓(ふもと)近くに建てられたもの。「寺名を積翠教寺といい、仏教の霊場として顕蜜の究学修法の道場とした」(修学院由緒より)。修学院(学問所)と改称したのは、豊臣秀吉全盛期の慶長年間初期のこと。以後、佐賀鍋島家の鬼方門除けの寺として、藩主の手厚い保護を受けてきた天台宗の由緒ある寺である。

 明治維新以降背振山地に残る寺は修学院のみとなった。そんな修学院も、戦国時代には、地元佐嘉(佐賀)の武将・龍造寺隆信と豊後の大友義鎮(宗麟)が覇権を競う戦場ともなっている。

小僧が大友の兵に声かけられた

 時は元亀元(1570)年のある日。背振の山中を寺の小僧が歩いていた。小僧が坂本峠にさしかかると、道端に寝そべっていた男が体を起こした。この峠、以前から筑前福岡と肥前の佐賀を結ぶ重要な往還であった。
「おい、小僧」と、ドスの聞いた声で男が呼び止めた。顔中髭だらけで、ギョロ目だけが飛び出ていて相手を威嚇する。鎧兜(よろいかぶと)を身につけた兵(つわもの)だった。
「どこのどなたか存じませんが、私は修学院で修行をする『ちくりん』というものです。気安く小僧などと呼ばないでください」


地蔵堂

 子供扱いをされて、竹林と名乗る小僧は怒っている。
「悪かった、ちくりん殿。ちと道を尋ねるが、小川内に行くには・・・」
「小川内には何用で?」
「待機される大将に、敵の動きを知らせるためだ」
「敵とは?」
「もちろん、佐嘉の龍造寺よ」
 そこまで聞いて、竹林の顔が険しくなった。

戦を嫌いな仏さま

「それなら、道を教えるわけにはいきません」
「なんだと、たかが小僧の分際で・・・」
「また、私のことを小僧と言いましたね! 先ほども申し上げたように、私は仏に仕える身。仏は何よりも人と人の争いを嫌われます。・・・だから、戦(いくさ)をするための道を教えるわけにはいかないのです」
「小しゃくな、手打ちにしてくれるわ」
 男は、腰の大刀を抜くが早いか、斜め上段から斬りつけた。竹林が、持っていた編み笠で頭を庇(かば)うと、刃は笠を劈(つんざ)き、額に深手を負うことになった。
「なにをなさるので。かくなるうえは、ここから先あなたを一歩も通しませんぞ」
 日頃修行を積んでいるのか、竹林の動きはまるでツバメのように素早かった。大人と子供の闘いは、それから何時間も続いた。

地蔵さまが寺を救った

 でも、所詮は大人と子供。そのうちに竹林は袈裟斬りにあって倒れた。痛かったのは小僧の竹林より鎧兜の兵(つわもの)の方だった。子供相手に何時間も費やして、小川内の大友本陣に敵情報告が遅れてしまったからである。既に陽が落ちて、大友の大軍が峠を降りたとき、龍造寺軍は既に本城に引き揚げた後だった。

 気持ちが治まらない大友の大将は、通報した兵の言に従い修学院に攻め入った。写真上、六体地蔵尊
「本院は頑丈な精神と体力を養い、仏の真髄を会得するための道場でござる。竹林なる小僧など存在するわけがない」
 応対に出た修行僧が答えた。兵が引き揚げた後、心騒ぎを覚えた僧が本堂に入り、祀ってある地蔵尊の額の傷を見て驚愕した。昨夜まで何事もなかった位置に、深く抉(えぐ)られた後が痛々しい。
 竹林なる小僧の話と合致する。さては地蔵さまが、寺と村人を救うために、小僧に変身して兵と闘われたに違いない。
 それからは、地蔵尊を寺の宝としてこれまで以上に大切にお祭りした。これが、今日も修学院に秘仏として祀ってある地蔵尊だそうな。ご開帳は毎年8月24日に行われる。(完)

 夏の盛りに修学院を訪れた。福岡から坂本峠を経由して、佐賀の吉野ヶ里に通じる国道端で案内板を見つけた。急階段を登ると地蔵堂が建っている。お堂の中の地蔵さまは、たくさんの子供たちに慕われるようにして、厳かに下界を見下ろしておられた。地蔵堂脇には、これまた等身大の地蔵さまが6体並んで立っておられた。
 こんな言い方をしたら失礼かもしれないが、どこかの観光寺みたいに、必要以上に手を加えられていない寺内が気に入った。でも、あまり放っておくと、本当に背振の霊山から寺が消えてしまいそうで心配でもなる。 

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