伝説紀行 灰塚伝説 玖珠町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第212話 2005年06月12日版
07.03.18
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

キネ落しのツケ

【松信の灰塚伝説】

大分県玖珠町


天祖神社近くの灰塚(板碑)

 玖珠町中心部から北へ、耶馬溪に通じる玖珠山国(くすやまくに)線の途中に「松信」というバス停がある。バス停のまん前の小高い場所には、天祖神社(あらそじんじゃ)が祀られている。参道脇には、積み上げられた石垣と祠があり、「灰塚」と説明がなされていた。天祖神社の急階段を登ると、これまた立派なお社が建っていて、眼下の氏子たちを四六時中見張っておられる。

厄介な豪族と宮司の不仲

 時は江戸時代より更に遡った室町時代。天祖神社から南に半里(2キロ)ほど下った綾垣に、豪華な館を構える豪族が住んでいたそうな。「古後殿」というのが正式の尊称だが、土地の人は親しみを込めて「たてどん」と呼んできた。
 村の衆にとって厄介なことは、一帯を取り仕切るたてどんが、人々の暮らしの中心をなす天祖神社の宮司と仲が悪すぎることだった。たてどんと宮司の吉村権之丞は同じ年齢の幼馴染なのだが、顔を合わせると必ず喧嘩になる。仲の悪さのもとはといえば、若い頃の恋人争奪戦にあるらしい。
 幼い頃は宮司の息子の権之丞がガキ大将で、たてどんは目立たない存在だった。ところが、思春期を迎えると様相は一変した。志津里の美代ちゃんを挟んで、二人は恋敵になった。恋の抗争は両方の親まで巻き込んで、それは大変な騒動になった。最後は美代ちゃん自身の裁断で、権之丞がめでたく勝利を収めることになったのだが・・・。

祈念して落馬さす

 たてどんは、父親から豪族としての地位を引き継ぐと、隣村の豪族の娘を(めと)った。それでも美代ちゃんへの思慕は断ち難く、「いつの日か…」と思いつめる日々が続いた。
 秋の大祭の折、氏子代表として天祖神社に出かけた折のこと。参拝しようとするたてどんの前に権之丞が立ち塞がった。
「そちらさんのお参りはご遠慮願います」
 たてどんとて、「ああ、そうですか」と引き下がるわけにはいかず、力ずくで参拝を済ませると急いで階段を下りていった。そうなると今度は、権之丞の腹の虫が治まらない。


天祖神社の大鳥居


 愛妻のお美代に言いつけて祭壇を拵えさせ、「キネ落とし」に入った。「キネ落し」とは、「祈念して落とす」という意味で、ある者を祈り落とすことをいう。権之丞は、宮司たる自分に挨拶はおろか、止めるのも無視して拝殿に進み出た行為を絶対に許すことができなかったのである。
「天祖の神よ、たてどんに厳罰を・・・」と祈り続けた。

武装した家人が焼き殺す

 参拝を済ませたたてどんが綾垣の館に帰る途中、乗っていた馬が急に暴れだした。馬は全速力で天祖神社に後戻りして、(やしろ)の正面で主人を振り落としてしまった。
 その様子を木陰から見ていた権之丞の口元が緩んだ。落馬の際にしたたか打った腰を擦りながら館に戻ったたてどん。放ってある手下の探りで、権之丞のキネ落しの一件を知ってしまった。
 怒り心頭のたてどん、日頃養っている武装集団を召集し、総勢200人が天祖神社を取り囲んだ。
「神殿に火を放て。権之丞とお美代を焼き殺せ!」
 たてどんの命令で、たちまち天祖神社は全焼し、立て籠もっていた宮司夫妻が焼死体で見つかった。たてどんは、良心の呵責に苛まれ、権之丞とお美代の亡骸の上に焼け爛れた神殿の灰を積み上げて二人を供養する墓とした。それが、今に残る参道脇の灰塚だと。

【灰塚と板碑】については、説明板には次のように記されている。
「板碑は石塔婆の一種で、死者の追善供養、また生前の逆修供養のため、建立されたものである。この板碑は、両面板碑と呼ばれるものである。残念ながら、下半分位が折れた状態である。頭部を山形に作り、その下に内へ向かって二段の切り込みを施している。碑身には墨書で、種子のキリーク=阿弥陀如来が一面に書かれており、その形から見ても南北朝時代頃のものと思われる。ほかに宝篋印塔(室町時代末期頃か)や五輪塔(室町時代末期頃か)などがあり、またすぐ近くの平井氏宅裏山にも、多数の石造物の各部分が残されており、一連のものと考えられる。


写真は、天祖神社から見下ろす松信集落

 なお、この板碑のある所は「灰塚」と呼ばれ、中世天祖神社が戦火にあった時、その灰燼を集めた所だと伝えられている
」と。(完)

「灰塚」の在り処を探し回ったが、なかなか見つからない。この人ならと、村の長老風のお方に尋ねたが、首を横に振られた。諦めて、次なる裏耶馬溪に進路をとったらすぐ、目の前に由緒ありそうな神社が立ちはだかった。何のことはない、そこも「天祖神社」なのだ。先のお宮さんから僅か1キロ程度の場所に、天祖神社が二つも存在したのだった。おそらく、この村での氏神様を分祀したのだろう。
 あった、あった、ここには間違いなく【灰塚】が。恋人にでも会えた気分で、賽銭箱に大枚奉納した。周囲を見渡す。なるほど、ここならたてどんと権之丞の恋の鞘当もありそうな雰囲気だ。
(完)

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