伝説紀行 後ろ向き地蔵  久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

伝説紀行200話記念
第200話 2005年03月20日版
再編:2017.03.19 2019.01.26
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です。

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

うしろ向き地蔵

久留米藩宝暦一揆始末

福岡県久留米市



二ッ橋の六地蔵 その後ろ側を旧柳川街道が走っている
 

 久留米市から柳川市に通じる県道23号線、通称「柳川街道」の津福あたり。現在の幹線道路から西に入り込んだところに旧柳川街道が残っている。金丸川を跨ぐ橋を「二ッ橋」と呼ぶ。二つの川が合流する直前で2本の橋が連なっているため、そのような地名がつけられたらしい。


二つ橋

 二ッ橋を少し南に下ったところの高い場所に、6体のお地蔵さんが目をつむったまま街道に背中を向けて立っておられた。旅人の安全を願うはずのお地蔵さんが、「後ろ向き地蔵」と呼ばれる所以は・・・

 ときは江戸中期の宝暦4(1754)年2月頃。筑後川の南岸、竹野郡野中村(現久留米市田主丸町)の一軒家で、由蔵と家族6人が晩飯を食っていた。そこへ竹馬の友の久兵衛が高潮した顔で入ってきた。
「大事な話しがあるけん、ちょっとばっかし顔ば貸してくれんか」
 暗闇の中に消えていく亭主を、女房のハナが不安げに見送った。ここのところ、由蔵は久兵衛に誘われて出かけることが多い。何ごとかと訊いても、まともに答えてくれない。ハナには、不穏な出来事が迫り来ているような気がしてならなかった。

20年続いた享保の大飢饉

 ハナが子供だった頃。20年間も続いた天候不順のお陰で米や野菜がとれず、村ごと壊れてしまいそうな状況にあった。15歳の折には、久留米藩領内だけでも1万人の餓死者が出たと聞かされた。「享保の大飢饉」と言われるものだ。お隣の福岡藩では、総人口の3分の1に相当する10万人の死者がでたという。
 ハナの家は水飲み百姓で、わずかばかりの収穫米を年貢に納めた後は、川魚やタニシなどを食べて生き延びていた。家財道具を売り払った後の家の中はがらんとしていて淋しかった。だがハナの父親は、「道端で何人もの人間が死んじょるばってん、おまえどんば死なせるこつはさせんけんな」と、子供たちを元気付けたものだった。
 だが、その父親も間もなく他界して、成長したハナが一家の面倒を見ることになった。縁あって由蔵と夫婦になり、5人の子供をもうけて、貧しいながらもこれから幸せを掴もうとするそんな矢先の亭主の不安な行動である。

領民残らず徴税

「あんた、話してくれんね、あたしたちは夫婦じゃろうが」
 深夜に帰ってきた由蔵にハナが食いついた。
「おまいどんに、いらん心配ばかけんごつ黙っちょったばってん・・・」
 由蔵も、これ以上は隠し通せないと観念して、夜中に神社の境内で、庄屋の八郎右衛門を囲んで話し合った中身を打ち明けた。
「人別銀ちゅうもんのこつは知っちょるじゃろ?」
「・・・・・・」
 久留米藩における「人別銀」とは、藩士及びその召使いの男女、農工商・僧侶・神官・浪人に至るまで賦課するという新しい税制導入のことである。藩士は高100俵につき銀札10匁、農工商などは、8歳以上の男女すべてに1人につき銀札6匁を1ヶ月6分ずつ毎月15日限り差し出せというものだった。
「8歳になったらどげなもんでん、納めにゃいかんちゅうこつたい。これじゃ迂闊に子供もつくれんばい」
 現在でいう消費税みたいなもので、生きている人間には満遍なく税金が覆いかぶさってくるという悪法である。由蔵が夜に出かけるのは、そんな無茶な制度をやめさせる手段を話し合うためだった。

我慢の限度を越えた

「人別銀の廃止ば要求して立ち上がろう」
 久兵衛が、神社境内に集まった30人ほどの農民に呼びかけた。
「そげな危なかこつば・・・。まかり間違うたら打ち首たい」
 会場の農民から疑問が発せられた。
「上三郡(生葉・竹野・山本郡)のもんは結束しちょる。それだけじゃなか、三潴も上妻も、久留米藩の百姓は残らず立ち上がったとたい」
 久兵衛が、ここを逃して農民が解放される機会はないと力説した。
 春もいよいよ本番という3月20日、松門寺村(現田主丸町)の野原には、800人の百姓が集まった。ここでも久兵衛が、藩の増税策を批難している。「これじゃ、我ら百姓に死ねち言うことたい」と。すると会場から、「そうだ、そうだ」の掛け声が。
「心配はいらんたい。俺たちだけがお城に歯向かっちょるわけじゃなかけん。今の時刻には隣の生葉郡や山本郡でも同じごと皆んなが集まっちょる。1週間後には、八幡河原(やわたかわら)(田主丸大窪の筑後川岸)に、三潴からも上妻からもぎょうさん百姓が集まるこつにもなっちょるけん」
「ばってん、そげな大仕掛けなこつばしちょったら、奉行も黙ってはおらんじゃろうもん?」
「20年前(享保の大飢饉)の時もそうじゃった。夏物成(なつものなり)(麦と野菜)の大幅引き上げで怒ったもん6000人が久留米のお城下に出向いたことがあったとたい。藩は夏物成の引き上げを全面撤回した上に、1人の犠牲者も出んかった」

筑後川畔に5万人が集結

 3月27日の八幡河原には、「人別銀反対」の要求を大書した莚旗(むしろばた)を掲げる農民たちが続々と集まってきた。男ばかりではない、女も子供も参加している。
「すごかね、いったい何人くらいおるもんじゃろか?」
 由蔵が久兵衛に訊いた。
「5万人は下らんたい」
 溢れた人間が大川に零れ落ちそうな、そんな人ごみであった。集会は北野でも三瀦郡や上妻郡でも数万人規模で盛り上がっていた。勢いに乗った群衆は、農民の敵に回った庄屋や大庄屋、富商人の屋敷をも打ち壊していった。農民の怒りは、治まるどころか日を追うごとにその数を増し、行動も過激になった。まさに、久留米藩領全域が反体制の狼煙(のろし)に包まれるさまであった。写真は、農民決起の会場となった八幡河原
 「ご家老の有馬石見さまが、突然橘田(たちばんだ)(現浮羽郡吉井町)に来なさるそうな。それも、惣奉行の山村典膳さまをお連れになって・・・」
 久兵衛が由蔵に耳打ちした。由蔵は、近くに藩の重役が現われることに不吉な予感を覚えて、訊き直した。
「何をしに?」

家老連名で「願いどおり詮議する」

 家老の有馬石見は、久留米藩中でも農民の理解者として知られている。それだけに身内からの風当たりも強くて、最近は表舞台に立つことがほとんどなかった。だが、そうも言っておれない事態が発生したのである。藩主の生母が直々に有馬石見に出馬を頼んだ。
「それで、ご家老が橘田に来られるわけは?」
 由蔵が久兵衛の目の奥を覗き込んだ。
「我ら百姓の言い分を訊かれるためだと。ご家老は、この場の収拾策を江戸におられるお殿さまから一任されているそうだ」
 久兵衛が言うとおり、有馬石見は農民代表から直接要求を訊いた。そして翌日、惣奉行の山村典膳らを、農民が集まる生葉の小江浜、竹野の八幡河原に遣わした。典膳が所持した家老からの書状には、「何れも願い(人別銀他)の通り詮議する」旨記してあり、「岸民部(家老)、有馬石見(家老)、有馬要人(家老)」の名前が連署されていた。
 彼らの最大の要求であった「人別銀」の賦課が撤廃されたのである。「勝った、勝った。さすがはご家老さま」と、農民は喜び、それぞれの村に帰っていった。

ほとぼり冷めたら首謀者捕縛

「大丈夫かなあ、お城が我らの怒りを収めるために誤魔化したんじゃ・・・」
 有馬石見の回答書から7日ほどたって、由蔵が久兵衛らと庄屋屋敷に呼ばれたときである。由蔵はそのことが気がかりだった。


久留米城跡

「大丈夫たい。藩の家老が3人で署名しておられるとじゃけん。それに今度の久留米藩の出来事は、日本中から注目されちょるけんね。久留米藩としてもあからさまに我らをコケにするようなことはでけんじゃろ」
 だが、八郎右衛門の楽観論は無残にも砕かれることになる。集会から5ヶ月たった夏のことだった。由蔵の家に駆け込んできた久兵衛の顔面は真っ青である。
「大変だ、庄屋さんがしょっ引かれた」
「・・・・・・」
 由蔵も次の言葉が出てこなかった。
「よかか、由蔵。俺の言うことばようく聞け」
「おまえ、まさか・・・」
「そうたい、俺も間もなく連れて行かれるじゃろ。ばってん、お前は知らんぷりばしろ」

地蔵さんの前で首刎ねる

「そげなこつができるわけがなか。俺も決起の相談に入っちょったつじゃけん」
「馬鹿ば言うな。お前には女房や子供がおる。それに比べりゃ、おれは身軽な一人もんたい」
「ばってん、お前にも母ちゃんが・・・」
「そりゃ、仕方なか。誰かが犠牲にならなきゃ世の中はようならんとじゃけん。よかか由蔵、どげんこつがあっても知らぬ存ぜぬば通せ。八郎右衛門さんや久兵衛なんか、そげな人間は知らんで通せ」
 久兵衛は、力いっぱい由蔵の肩を叩き、走り去った。久留米藩による激しい捕縛作戦が始まった。その数久留米藩全域に及び、300人に達したと記録されている。拷問などで捕まえたものを取り調べるうちに、また次の逮捕者が出る。そして、遂に久兵衛もお縄を受けることになった。
「おまえさん」
 ハナは、仏壇に灯をともして、幼子を抱いたままオロオロしている。
「俺がしょっ引かれたら、子供どんば頼むばい」
 由蔵の覚悟は決まっていた。だが、役人は来なかった。久兵衛が仲間のことを白状しなかったからである。
「8月27日朝六つ刻(午前6時半)、津福地蔵前の切り場(処刑場)にて刑の執行」。刑場前にさらされた受刑者の首と合わせ、それぞれの罪名が貼り出された。「野中村庄屋の八郎右衛門、死刑。・・・野中村百姓久兵衛梟首。・・・石垣村百姓藤四郎刎首。・・・」と。
梟首(きょうしゅ)・・・断罪に処せられた人の首を木にかけてさらすこと。さらし首。
刎首(ふんしゅ)・・・首はね。」

見てはおれぬと地蔵が後向く

 津福二ッ橋での刑の執行の噂は、その日のうちに野中村の由蔵の耳に届いた。
「あんた、二ッ橋に行って、久兵衛さんの霊にお礼ば言おうよ」
 由蔵とハナが旅人を装って刑場前に差し掛かると、大勢の人が立ち止まっている。「梟首」の首が柳川街道に面した櫨の木の下にさらされていた。「ナムアミダブツ・・・」、声には出せず、口の中で唱える年寄りがいる。久兵衛のさらし首を見つけた由蔵夫婦が、呼びかけようとして思わずお互いの口を押さえた。そして、心の中で手を合わせた。
「あそこのお地蔵さん、みんな向こう向いているじゃろ、どうしてかわかるか?」
 立ち去ろうとする由蔵に、巡礼姿の老婆が寄ってきて囁いた。黙って歩く夫婦に老婆が一方的に話をする。


旧柳川街道


「あのお地蔵さんはな、昨日までは街道の方ば向いておいでじゃった。旅人の安全ば祈るためにな。だが、善良なお百姓さんたちば騙した上に首ば刎ねる。それでも足らずに切った首をさらす。二度とお上に逆らうな、の侍たちの無謀に、さすがのお地蔵さんも見てはおれんごとなりなさった。そこで、いっせいにうしろば向いて目をつぶらっしゃったんじゃ。仏さまの無言の抗議じゃな。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」(完)

「宝暦の一揆」で死刑になった者、37人
郡からの追放、39人
村払い、32人
過料を言い渡された者、47人
これが世に言う「久留米藩の宝暦の一揆」の顛末であった。

 【伝説紀行】の200回記念は、暗いお話になってしまった。記念号にあえて「後ろ向き地蔵」を選んだのにはわけがある。これまでどちらかといえば、「昔はよかった」「心豊かに生きていた」を強調する話題が多かった。だが、人が住むところ、そんなにいいことばかりではないことも知っておいて欲しかったからだ。これも歴史であり、伝説を構成する不可欠の要素なのだから。
 民主主義のひとかけらも許してもらえない時代の、下層人民の生活は悲惨だった。我が筑紫次郎の縄張りも例外ではなかった。農民も商人も職人も、そして武士すらも、皆んなお殿さまを支えるために命をかけて働いた。


静かな佇まいの大窪地区集落

 でも、我らが先祖は少しずつ目覚めていった。享保の一揆や宝暦の一揆がよい例である。「宝暦」の指導者は、農民自身であったといわれる。
 農民蜂起の舞台となった八幡河原は、現在の田主丸町八幡の大窪地区。片ノ瀬温泉や筑後川橋を目標に行くと、その1キロほど上流の河川敷ということになろうか。登場人物の久兵衛(実在の人物)などが住んでいた野中村は、河原からさらに2キロほど上ったあたりの、やはり筑後川河畔だった。  
 訪ねてみると、250年前の痛ましい歴史などなかったかのように、お母さん方が熱心に春の野草を摘んでいた。「あった!」と叫ぶ幼子が手にしているのは、かわいらしいつくしん坊。あたりには一面黄色い絨毯(菜の花)が敷き詰められている。
 筑後川橋から下ること15キロ、津福の二ッ橋にも出向いた。住んでいる皆さんも、昔にそんなことがあったことなどご存じなさそう。目に焼き付けて、絶対に忘れないぞと頑張るのは、あの六地蔵だけなのか。
 宝暦一揆の舞台となる田主丸から二ッ橋まで、さらに三潴村から城島町まで、平成の大合併でみんな久留米市になってしまった。

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