伝説紀行 海士漬けの池  広川町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第194話 2005年02月06日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

梵鐘(かね)が池の主になり
海士漬けの池

福岡県広川町



知徳の天津池

  国道209号から九州自動車道の広川インターに向かうと、間もなく知徳(ちとく)という集落がある。5世紀前半に建造されたとされる「石人山古墳」で有名なところだが、そのすぐ近くに「天津池神」と石板に書かれた溜池があった。語呂合わせでもなかろうが、むかしからこのあたりに「海士(あま)漬け」と呼ばれる池の伝説があった。天津池は、周囲を雑竹や雑木で囲まれて静かに佇んでいる。それがまた、物語にいっそう真実味を持たせてくれる。

静かな池で大捜索が始まった

 ときは、500年もむかしの戦国時代。溜池に飛び込む裸の男たちを、村の衆が珍しそうに見ている。
「何ごとが起こったとですか、お役人さま?」
 村の若者頭をしている徳善が、池の中の男たちを指揮している大内安之輔に訊いた。
「大事な物を捜しとるんじゃ」
「えらく泳ぎが上手なごたるですな?」
「あの者たちは、いつもは有明の海に潜って漁をしておる海士(あま)じゃから…」
「なるほど。・・・それでお役人さま、池の中の大事なものとは?」
 訊かれて安之輔が話すには…。

黒木から西牟田へ

 知徳の南方を流れる矢部川を遡っていくと猫尾城(黒木城)がある。すぐそばには善応寺というお寺が建っていた。この寺の住職が、西牟田城の主に寺宝の梵鐘を贈ることにしたのがことの発端だった。(関連伝説、第55話劒が渕悲話)
 猫尾城といえば、南北朝時代から何度も戦乱の舞台になった因縁の山城である。永禄7(1567)年、織田信長がいよいよ上洛を試みようとする頃。豊後の大友宗麟は、毛利元就に通じる武将を討つために猫尾城を攻めた。そして城主の黒木家永を切腹に追い込んだ。
 家永の自決によって、黒木家の菩提寺である善応寺も終った。寺の住職は、寺宝である大梵鐘を西牟田城の主に贈ることにした。西牟田に寺の再興を託したのである。
 梵鐘を贈られる西牟田城の側では、大内安之輔に力自慢十数人を付けて黒木に向かわせた。何せ1トンもある大鐘のこと、超大型の車力に乗せて、前から後から「よいしょ、よいしょ」の掛け声で5日かけて5里の山道を下りてきた。目指す西牟田城はすぐそこである。

梵鐘が池に転がり落ちた

「ここらでひと休みするか」
 安之輔の掛け声で、力自慢らは梵鐘を池の側に置いて寝転んだ。ゴロゴロと金属が軋む音で目を覚ました安之輔。


石人古墳に立つ女性たち

「大変だ!」の声で一同が起き上がったとき、転がりだした梵鐘は加速をつけて池の中に「バシャーン」。ものすごい水しぶきを上げて、あっと言う間に水底に沈んでしまった。
「さあ大変だ」
 安之輔は、足の速そうな男に西牟田城に向かわせた。報告を聞いた家老は、千尋の池(大変深い池)に潜って鐘を引き揚げる猛者はいないものか思案した。
 やがて知徳の池に海士(男のあま)30人が連れてこられた。日頃有明の海に潜って魚や貝を獲る漁師だった。海士らは、水中深く潜って、荒縄を梵鐘の龍頭にしっかりと結びつけた。
「手を貸してくれ」
 安之輔に頼まれた徳善らが、綱を引くことになった。

鐘は山里で刻を告げるもの

「よいしょ、よいしょ」
 掛け声だけは勇ましいが、池の中の鐘は微動だにしない。徳善が庄屋さんの家に駆け込んで村中の男女を掻き集めてもらった。総勢100人の大合唱で、再び綱が引かれたが、相変わらず池の中の鐘は動かなかった
 心配で駆けつけた西牟田の家老も、何かに怒ったように動こうとしない梵鐘にあきれ果て、引き上げるのを諦めてしまった。
 それからである。この知徳の池のことを「海士漬けの池(あまづけのいけ)」と呼ぶようになったのは。
「鐘にも魂ちいうもんがあるとたいね。静かな黒木の山里で、毎朝毎晩鐘の音を響かせて刻を告げていたんだもんな、あの鐘は。それが人間の都合で、山を下りて騒がしか城に遷されるんじゃから、怒るわけだ」
とは、侍たちが引き揚げた後に徳善あたりが話したことだった。

事情を知らない侍が・・・

 ときは下って、関が原の合戦を経て泰平の江戸時代へ。田中吉政という徳川家康の懐刀が駿河の三河から筑後の柳川城にやってきた。吉政は、水田開発と交通網の整備の大号令を発した。
 そんなある日、開発を指揮する侍が、知徳の池の鮒を獲って宴会をやろうと言い出した。滅法深い池だと聞いていたので、まず土堤を壊して水をぬくことにした。百姓さんたちにとって命より大事な水が容赦なく流れ出し、ピョンピョン跳ねる魚は掴み放題になった。
 侍たちが満面に笑みを浮かべて“漁”に取り掛かろうとしたそのとき、池の中央から噴水のように水が噴き上がった。それまでの紺碧の空が一転かき曇り、激しい雷光とともに大粒の雨が降り出して、干上がっていたはずの池にたちまち水が溜まった。
「何ということだ?」
 侍たちは、わけもわからないまま、早々に退散した。

沈んだ梵鐘が池の主に

 その様子を遠くから眺めていた村一番の物知り爺さんがポツリと一言。
「あん侍どんな、こん池の言い伝えも知らんとばいね」
「何じゃ、そりゃ?」
 別の男が爺さんに訊いた。
「こん池ば、何であまづけのいけち言うかたい。100年前に池の底に沈んだ大梵鐘が、やがて池の主になり、溜まった水を調整したり、泳ぐ魚たちを見守ってくれたとたい。じゃから、勝手に土堤ば壊して水をぬいたり、魚ば手づかみでとって食おうなんて、池の主さんが許すわけがなか。怒った主さんが噴水を上げ、雨を降らせて元の池に戻されたとたい」
 物知り爺さんの話を伝え聞いた城代家老の勘兵衛というお人が、梵鐘のふるさと善応寺を再建することにした。それが現在大藤棚のそばにある浄土宗の宗真寺だとか。
 その後、海士漬けの池の主は雨を降らせてくれる神さまとして尊ばれ、今でも雨乞いが行われているんだと。(完)

西牟田:字流に、西牟田弥次郎家綱が嘉禎年間(1235〜38)に築城した西牟田城址がある

 知徳というところは、筑後平野の中でも最も筑後らしい雰囲気をかもし出す場所である。久留米から国道209号線を南下して、筑後市との境あたりを左折すると、間もなく石人山古墳の看板が見える。鬱葱とした大木の中の古墳と、雑木・雑竹と茶畑に囲まれた千尋の池が「筑後らしい筑後」を演出してくれるからだ。
 曲がりくねった道を更に東に向かうと、伝統工芸品が特産の八女市が間近い。そこもここも、平和な世の中があってこそよく似合う筑後平野である。

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