伝説 七木地蔵  久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第193話 2005年01月30日版
再編:2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

お馴染みさんが好き

長門石の七木地蔵
(ななきじぞう)

福岡県久留米市

 久留米の市街から筑後川を挟んで西側の長門石地区に、立派な地蔵堂が建っている。むかしと現在の地図を見比べるとわかることだが、現在長門石は筑後川を挟んで久留米市の飛び地である。物語の時代には、完全に久留米(筑後)と陸続きだった。
 名前の「七木(ななき)」は、7種の巨木が幹を一つにしたように聳え立つ根元に、地蔵さんが鎮座されているからだとパンフレットには書いてあった。写真:天保時代の筑後川図(川の上部の突出した部分が長門石地区)

龍造寺が戦勝祈願をした

 ときは国盗り物語が真っ盛りの戦国時代、永禄12(1569)年のことである。豊後の大友宗麟は家臣の大友親貞に命じて肥前の龍造寺隆信を攻め立てていた。龍造寺側の鍋島信昌という家臣は、強力な大友勢を迎え撃つために、筑後川のほとりの両同院まで進軍してきた。
 信昌は、ここが鍋島家を認めさせる絶好機だと睨んでいる。そこで大枚の報謝を包んで、筑後川辺に建っている両同院で頭をこすりつけながら「必勝」を祈願した。

お礼に地蔵さまを対岸に移した

 その甲斐あってか、鍋島信昌は大友親貞軍を完膚なきまでに叩きのめした。佐嘉城に向かって意気揚々と引き揚げる途中、両同院に立ち寄った。待っていましたとばかりに住職の徳芳和尚が語りかけた。
「貴殿の勝利は、ご本尊の七木地蔵が与えてくれたもの。・・・そこで相談じゃが」
 いつの世も、願いごとには成功報酬が付きもの。徳芳和尚が言うには、寺が筑後川に流れ込む宝満川に面しているため、大雨が降ると必ず鉄砲のような勢い水がご本尊の地蔵菩薩を襲う。お陰でお地蔵さまは毎年泥水にまみれられる。


写真:七木地蔵堂

可哀そうで、お気の毒で。そこでじゃ、お地蔵さまだけでも洪水の心配がない向こう岸の龍造寺さまの領地にお移りいただくというわけにはまいらぬかのう」
 膨大な金銭か大伽藍の建築でも要求されるのではと内心穏やかでなかった信昌は、胸をなでおろした。地蔵菩薩を自領に引き取るくらいのことならと、簡単に引き受けた。遷座していただく場所は、対岸の丘陵におわす千栗(ちりく)八幡宮のそばということになった。

心の支えを奪われ村人たちは困った

「それは困るなあ・・・」
 七木地蔵が長門石を離れることに、村人たちが抗議した。
「このお地蔵さまは、わしらにとってかけがえのない仏さまじゃ。苦しいことがあったり悲しいことがあると優しく慰めてくれるし、困ったことがあったら、すぐに願いを叶えてくれる。お地蔵さまにはいつまでもこの長門石におってもらわなければ・・・」
 必死で頼み込むが、鍋島信昌は聞こえぬふりを決め込んでいた。もしここで心変わりでもするものなら、地蔵菩薩から罰を受け、たちどころに大友の逆襲を受けかねない。そうなれば、鍋島家のまたとない浮上の機会を逃がしてしまう、と思ったからである。
 七木地蔵尊は、その日のうちに対岸の千栗に移され、肥前で名高い僧侶を呼んで盛大に遷座の法要が営まれた。
「これで、龍造寺家も鍋島家も安泰じゃ」
 信昌の軍勢は、振り向きもしないで佐嘉のお城を目指した。

地蔵さんが泳いで戻ってきた

「これはまた、どうしたこつかいの!」
 翌朝、徳芳和尚が朝の勤めをしようと仏間に入って驚いた。昨日台座ごと向こう岸に運び出したはずの七木地蔵が、元の場所に立っておられるではないか。しかも、昨日までの苦虫をかんだようなお顔と違って、穏やかで微笑さえ見える。
「ありがたや、ありがたや・・・」
 成り行きを聞きつけた村人たちは、大川の向こう岸から元の場所に戻られた七木地蔵の頭をなでたり水をかけたり、一日中傍を離れなかった。
「お地蔵さま、あなたは筑後川の洪水が嫌だったのではありませんか? だから、私は恥を忍んで龍造寺の家臣に安全な場所に移ってもらったのです。これでは私の顔が丸つぶれです」
 夜になって村の者が帰ったあと、徳芳和尚は地蔵菩薩像に愚痴ったのなんの。一晩中、菩薩さまに愚痴をこぼして、疲れてしまってついウトウト。
「徳芳よ、許せ。長門石の村の者が必死に私を止めるものだから・・・。あの者たちの姿を見たら、洪水の恐怖などどこかに吹っ飛んでしまったわ。私は、これからも末永く長門石にいて、あの者たちの苦しみを和らげてやりたい」
 夢枕の地蔵菩薩は、すまなさそうに和尚に頭を下げられた。
「お慈悲なのですね、菩薩さまの…」
 和尚が納得したところで目が覚めた。
「石のお地蔵さんでも、住み慣れた場所とお馴染さんが一番好きなんだわ」(完)

 お地蔵さんというから、そこらの道端に立っておられる姿を想像して出向いたら、なんのなんの。広い敷地にいくつものお堂が建っており、何体ものお地蔵さんや弁天さまが祭られていた。
 ご本尊のお地蔵さまは、約180aの自然石に、通肩の納衣をまとっておられる。体の脇には「応永3(1396)年10月」の銘があった。
 平日の朝10時頃だというのに、数十人の老若男女がそれぞれの像にお賽銭を上げながら熱心に頭をたれておられる。お参りのすんだご夫人に訊いてみた。
「祈願成就とありますが、ここのお地蔵さんはどんな願いを訊いてくれるとですか?」と。そうしたら返事の早いこと。「それはありとあらゆるものをですたい」だと。
 とりあえず僕は、「我が家がいつまでも安泰でありますように」とお願いして、地蔵堂を後にした。
 お話の時代は、蛇行した川の傍にいらした七木地蔵さまも、時を経て7本の大樹とともに50メートルほど移動されたんだって。蛇行したところを直線化して筑後川の流れが変わり、地蔵さまは久留米の街から切り離されてしまった。でも、熱心な方々は渡し舟でお参りに通われた。今は長門大橋ができて、気軽に車で来られる。お世話をする方もそこは柔軟に、広大な駐車場を用意して待っていてくれる。

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