伝説紀行 お福の墓  日田市(前津江村)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第192話 2005年01月23日版
再編:2017.06.04 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
つえどんの娘
お福の墓

大分県日田市(旧前津江村)


おふくの墓

 前津江村(現日田市前津江村)のほぼ中央部に、大野という集落がある。ひときわ目を引くのが、鮮やかな朱色に彩られた大野老松天満社の旧本殿である。同村のホームページによると、建物は「三間社流造の栩(くぬぎ)板葺き屋根」と言うそうで、何でも室町時代の本格建築だとか。今から1000年も前の平安時代に、日田の郡司であった大蔵永季が相撲節会で出雲の小冠者を破り、朝廷からいただいた賞金で建てたのが始まりだとか。その後長享2(1488)年に、土地の領主であった長谷部信安が再建したものと伝えられる。(大蔵永季については、本ページ伝説紀行「第24話 怪力鬼太夫」に詳しく掲載)
 天満神社から南に下った浦の寺には、長谷部一族の墓があり、お釈迦さまの像が建てられている。そのお釈迦さまの額には、なぜか大きな穴が開いていて、今でもその額にどんなものが埋め込まれていたのか誰も知らない。

気の強い娘が夜遊びをして

 大野に屋敷を構える領主長谷部殿のことを、土地の人は親しみを込めて「つえどん」と呼んでいた。つえどんにはお福という年頃の娘がいた。器量は人並みなのだが、気性が荒くて使用人からも嫌われ者だった。
 つえどんは、そんな娘が不憫で、何かと心配りを惜しまなかった。使用人や村人から敬遠され、お福の気持ちはますます荒れるばかり。父が必要以上に自分に気をつかうことも疎ましかった。
 ある秋の日、お福は何もかも嫌になって、ふいと屋敷を飛び出した。街にやって来て店先を覗いたり、声をかける男の相手をしたりしていたが、これも気晴らしにはならない。何日かたった日の夜更けに、お福は大野川沿いに帰っていったが、漆黒の闇で心細くなるばかり。覆いかぶさる大木からは、気持ちの悪い梟の鳴き声が、お福の気持ちをますます強張らせた。時刻は、草木も眠り込む深夜であった。
「これでもあたいは領主の娘だもん」
 自負だけは衰えないお福が通用門を叩いた。

門を閉じられ嘆きの果ては・・・

 中からは何の応答もない。両の拳で激しく叩き「開けてー」と叫ぶが、人の気配はまったくなかった。いつもは門前にあかあかと焚かれる松明も、この夜に限っては消えたままだった。
「そんなはずはない。可愛い娘のことを心配して、父は寝ずに自分を待っているはず」と思ったが、呼んでも応答がないのではどうしようもなかった。
「とうとうお父さままで私を見放したんだわ」
 お福は、門前に座り込んで泣き出した。父の愛情に疑問を抱いてしまったお福には、屋敷から遠ざかることしか考えが及ばなかった。
 とぼとぼと山道を歩き、またしゃがみこんだ。お腹が減って動けなくなっていた。
「領主の家にとって私は厄介者」と決めてかかるお福に、残された道は自らの命を絶つことだけだった。
「私が死んだ後も、誇り高い領主の娘として扱って欲しい」との願いから、土塀に堅炭で「台の方角に向けて葬ってください」と書置きし、そばの樫の枝に縄をかけて首を吊った。「台」とは、つえどんの屋敷の場所のことである。

死んだ娘が可哀そうで

 翌朝、狩りに出ようとする男が、首を吊って既に事切れているお福を見つけた。知らせを聞いて駆けつけたつえどんが号泣した。
「屋敷の者が総がかりでおまえを捜したというのに・・・」
 昨夜は、使用人が手分けをして山の中に入り、屋敷にはつえどんだけが残っていた。娘のことが心配のあまり、いつもは焚く門前の松明に火をつけることすら怠ってしまったのであった。
 お福の亡骸は、土塀に書かれた遺言どおりに、浦の寺の墓地に「台の方向」に向けて葬られた。人一倍気性の激しい娘を御し得なかった罪を意識したつえどんは、お墓の脇にお釈迦さまの石像をお祭りした。死後も娘への愛は普遍だと言い含めるように、釈迦像の額には黄金の印もはめ込んだ。


老松神社

 使用人や村人に嫌われ者だったお福の墓は、いつの間にか荒れ放題、おまけに釈迦像の額の黄金まで盗賊にとられる始末。
 時を経て、つえどん(長谷部信安)の子孫が、大野の老松天満社に「どうしたらよいものか?」お伺いをたてた。すると、「墓を野ざらしにすれば一族にとって取り返しのつかない災いがくる」と出た。そこで、お福の霊を慰めるために、墓に屋根を設けた。それが今日の祠になったのだとか。
 今では、このお福伝説も風化しつつあるが、毎年4月8日のお釈迦さまのお祭りだけは消滅しない。これもまた気性の激しいお福が、数百年たっても「つえどんの娘」を忘れさせないための執念なのだろう。(完)

 間もなく大合併で消えてなくなる前津江村。取材で何度も訪ねるうちに、村の名前が消えることにたまらない寂しさを覚えるようになった。村民はよそ者の筆者以上に感傷的になっているのではあるまいか。


お福を祭る祠

 村の大半は1000メートル級の山に囲まれた高冷地で、筑後や福岡市民への水の供給源でもある。定住人口は2000人。
 村中を走っていて、何度も道に迷う。四方が深い山林であるため、迷った時の心細さといったらない。「前津江」「中津江」「上津江」の名前も、むかしは「奥津江」に対して称された「前津江」だったそうな。
 津江(つえ)どんが活躍した筑後川と矢部川の源流を、人が踏み荒らしてはならないのだ。例えそれが村の名前と言えども、立派な文化遺産なのだから…。

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