伝説紀行 首切り地蔵  久留米市(善導寺)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第190話 2005年01月09日版

2007.11.25 2018.05.27 2019.05.19
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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

戦国の首切り地蔵
発心城主の怨念

福岡県久留米市(善導寺)


麓から山城・発心城を望む

 久留米市の東端、善導寺木塚地区に、その名も「首切り地蔵」と呼ぶ地蔵さんが立っておられる。善導寺界隈は、大むかしから草野一族が支配したところ。大伽藍である善導寺の起源も、草野氏の思い入れによるものだと伝えられている。その寺の周辺に立つ物騒な名の地蔵さんとは。

無情な強盗が皆殺し

 名刹善導寺から1キロほど西に、茂平と名乗る百姓親子が住んでいた。江戸時代も中頃のことである。茂平の暮らしぶりはいたって質素で、田んぼもお金も、食っていくのに困らない程度ながらも不満顔は見せない。
 ある夜、こともあろうに、茂平の家に強盗が押し入った。
「やい、金を出せ!」
 強盗は、凄みをきかせて寝ている親子を足蹴にし、出刃包丁を突きつけた。


木塚地区から望む発心城址

「ご覧のとおり、家にはあなたに持っていってもらうような金もなければ物もありまっせん」
 茂平は女房のおかつと一人息子の仙太郎を両手で庇いながら必死で命乞いをした。
「悪いところにへえった(入った)もんだ。だが俺さまの顔を見られたからには、おめえらを生かしておくわけにもいかんな」
 強盗は、茂平と仙太郎を刺し殺し、女房のおかつも手篭めにしたうえで首を絞め、皆殺しにしてしまった。


善導寺本堂

斬殺後には草木も生えぬ

 主をなくした茂平の家は間もなく朽ち果て、周囲の桑畑も草茫々の状態になった。
「おかしかこつもあるもんたい」
 何年か経過して、見回りにやってきた村長(むらおさ)の鶴兵衛さんが驚いた。茂平の家があったあたりの2間四方だけには何故か草1本生えていない。近所のものが野菜や苗木を植えてみたが、それもすぐに枯れてしまう始末だった。
 強盗に皆殺しにあった茂平親子の祟りなのだろうか。庄屋さんや村の者たちは気味悪がって、善導寺の高僧に助けを求めた。頼まれた高僧は、周囲に幕を張り、護摩(ごま)を焚いて怨念の主をあぶりだそうとした。
「どうやら、祟りは茂平一家でもないらしい」
 高僧がポツリと呟いた。
「・・・?」
 鶴兵衛さんや村人が首を傾げる間に、高僧は今度は目に見えぬ相手と会話を始めた。

祟りは200年前に遡る

「どなたとお話になっていたんです?」
 ひとしきり護摩が焚かれ、高僧の読経が済んだところで、鶴兵衛さんが尋ねた。
「いえね、あの世におられる愚僧の師匠にあたるお方に尋ねたら、それは200年前の事件と関わりがあると・・・」
「???」
「改めて、当山の200年前に官長をなさっていた大先輩を呼び出してお尋ね申し上げたんじゃ」
「して、大むかしのお坊さんは何と?」
 鶴兵衛さんの問いに、しばらく目を瞑って会話を整理していた高僧が、静かに口を開いた。

秀吉への恨みが…

 200年前といえば、豊臣秀吉が天下を掌握して間もない頃である。秀吉は、命に従わない薩摩の島津を討つために、西国の大名に25万人もの大軍を編成させた。天正14(1586)年のことである。恐れをなした島津が降伏して、ようやく戦国時代に終止符がうたれた。


庄前の地蔵さん

 勢いに乗る秀吉は、九州の国割(知行割)を断行した。そのとき、四国の伊予への移転を拒んだ豊前の宇都宮氏は、中津城に誘い出されて殺された。筑後では、国割りに反発した草野鎮永氏が、耳納山の中腹に築いていた発心城に立て籠もった。当時秀吉の手下にあった久留米の小早川秀包(ひでかね)は、発心城を攻めた。そして、山を下りて善導寺に逃げ込んだ鎮永を包囲した。
 大軍に包囲されて観念した鎮永が寺を出て、木塚の里で自らの腹に小太刀を突き立てた。そのとき鎮永は、無念のあまり秀吉が指揮をとる博多の箱崎方面を睨みつけて息絶えたという。
 草野鎮永の一部始終に立ち会った善導寺の官長は、仏の無念を察して血糊がべっとりの首と刀をその地に埋めた。

石の地蔵は何想う

「その場所が、草も生えぬ茂平の桑畑ですか?」
 鶴兵衛さんがため息をつくと、村人たちもやりどころのない目を地面に落とした。
「それまで200年間何事もなかった畑に異変が起こったのは?」
「黄泉(よみ)と現世の中間で怨念のはけ口を探していた茂平親子が、未だ完全に成仏できないでいた鎮永殿を完全に目覚めさせたのじゃ。そして4人の霊の怒りが一つになって、あの草木も生えぬ2間四方の地下で爆発したと言うわけだ」


大橋地区から見渡す耳納山

 寺の大先輩との会話の内容を披瀝した善導寺の高僧は、再び桑畑に膝まづくと、地下にある死者に向かって供養の経を唱えた。
 村人たちも、尊敬する草野一族の長の最期と茂平一家の成仏を念じて、その場所に石の地蔵を建立した。そのときの地蔵が「首切り地蔵」と呼ばれるようになった。
 茂平さん一家が殺されてから250年。(完)

 善導寺にあって筑後の民の暮らしぶりを見てきた地蔵さん、相変わらず人を殺めたり弱いものを虐める世の風潮をどう思われているのやら。
 それにしても、我が筑紫次郎の基本は「勧善懲悪」であったはず。それなのに、善良な茂平さん一家を殺害した強盗がその後どうなったか説明しようとしない。きっと、善導寺の仏さまたちが懲らしめてくれたと信じることにしよう。

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