伝説紀行 針目城醜聞  朝倉市(杷木町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第177話 2004年09月26日版

2008.01.20 2019.05.26
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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

針目城の醜聞(スキャンダル)

福岡県杷木町


二つに割れた針目山(杷木町と日田市の境)

 朝倉郡杷木町(現朝倉市)の東方に、二股になった山が見える。むかし、針目城があった針目山である。ここは豊後と筑前の境にあり、戦国時代は軍事上の要衝であった。筑前国の雄原田氏が支配する秋月藩では、この地に山城を築き、当方からの侵略者を牽制していた。そんな針目城内で、とんでもない事件が勃発した。いつの時代もそうだが、大将の軽はずみが、領民にとってとんでもないツケを背負わされることになったのである。

正月の挨拶が事件のもと

 天正9(1581)年といえば、織田信長が本能寺で明智光秀に殺される前の年である。筑前の秋月藩も、毛利の支配下に置かれていた。藩が周辺に配置した端城も、いつ何時敵の手中に陥るかわからない。
 針目城には、初山九兵衛と大山源左衛門の両名が城番としてあてられた。正月、恒例により輩下たちは、上司の屋敷に参上して新年の挨拶をする。与力の高久保彦次郎も、妻の美智枝を伴って初山九兵衛の屋敷にあがった。
「いつ見ても美しいのう、彦次郎の嫁御は」
 めでたい席での世辞だと気にも留めなかった彦次郎であったが、そのことが後に取り返しのつかない大事件の元になる。

差別されて首を吊る

 それから半年が過ぎて。高久保彦次郎が城から帰ると、いつもは玄関先で出迎える妻の美智枝の姿がない。被服を着替えるために次の間に入って仰天した。美智枝が鴨居にかけた紐で首を吊っていて、既に息絶えているではないか。
 大声で奉公人の名を呼ぶが返事がない。しばらくして戻ってきた女中のタキが泣きながら釈明した。
「奥さまに使いに行けと言われまして。でもなんだか変だったのです。お一人にしなければよかった」
 覚悟の上の自殺であった。それよりも何よりも驚いたのが、居間に置かれてあった遺書である。
「勝手なことをいたしましてお詫びの言葉もございません。実は先日の七夕の折、与力の妻たち5人が初山さまの奥方様に招かれたのでございます。奥方様は、一人一人に労いのお言葉をかけられ、盃をくださいました。ところが、私にだけには言葉も盃もなく、さっさと席を立たれてしまったのです。何かの手違いかと思っておりましたが、私にだけはみやげもないのでございます。思い返せば、お屋敷に上がってからの奥方様の私を見る目が変でございました。・・・」

上司が手篭めに

 遺書を半分読み終えたところで、彦次郎は与力仲間の吉田勘八の屋敷に駆け込んだ。ただならぬ彦次郎の様子を見て、妻の華代が身構えた。
「七夕の夜、初山様のお屋敷でいったい何があったのでございますか?」
 もじもじしている華代に血相変えた彦次郎が迫った。
「これは、奥方さまから聞いた話しでございます」と前置きして、ようやく華代の重い口が開いた。
 正月の挨拶をした折、酔いがまわった九兵衛は、美智枝の色気に惑わされてしまった。そこで策を弄して、春の宵に待ち伏せをして手篭めにした。「俺の言うことを聞かなければ亭主にばらす」と脅された美智枝は、九兵衛の求めるままに隠れて好きにされていた。
 そんな秘め事が、狭い城内でいつまでも続くわけがない。隠れ家での秘め事は、初山の奥方の知るところとなった。
「タダでは置かぬ、夫を盗んだ憎っくき高久保の女房め!」
 呻くようにして吐き捨てた奥方は、その瞬間から嫉妬の鬼と化した。それほどまでに美千代の美貌が優れていたということだろう。
「上司である初山さまとのただならぬご関係をあなたさまに知られるのを恐れ、奥方からの仕打ちにも耐えられず、奥さまは自らのお命を絶たれたのでございましょう」(写真は、長岩城址)
 華代の、涙ながらに語る妻の秘密を知って、そこまで追い詰めた初山九兵衛が許せなかった。

秋月を裏切り大友へ

 彦次郎は九兵衛に対する復讐の策を考えた。城番が命取りになることといえば、針目の城が大友方に盗られることであろう。筑後川の対岸・山奥に築かれた長岩城のことが目に浮かんだ。
 生葉郡(こおり)は、室町から戦国期を通じて問注所氏が勢力を保持し続けたところである。特に戦国期、兄鑑景と弟鑑豊に二分し、兄を滅ぼした弟系が問注所鎮堅・統景(むねかげ)とともに大友宗麟に従った。
 彦次郎は、夜陰を利用して川を渡り、長岩城の問注所刑部少輔統景を訪ねた。
「お気の毒なことよのう、愛する内儀が手篭めにされたうえに命まで絶たれたとは・・・。拙者への願いごとの大方は納得できるゆえ、お力を貸し申そう」
 統景は、労せずして秋月の城を手に入れることを喜んだ。何より大将(大友宗麟)へのみやげになるからである。

愛妻の仇を討って何処かへ

 統景と念入りに打ち合わせた後再び針目の城に戻った彦次郎は、そのときを待った。そんな折、城番の一方である大山源左衛門が秋月の本城へ所用で出かけることになった。針目の城は初山九兵衛率いるわずかの勢力が残るだけである。
「好機到来!」、彦次郎は城内に隠れていた統景の兵に知らせ、兵は狼煙をあげて川向こうの長岩の城に攻撃を促した。
 日が暮れて、針目の城は大混乱に陥った。凡そ3倍の問注所軍の急襲に、城番の初山九兵衛も手の施しようがなかった。物見台に登ってうろうろするばかり。そこに高久保彦次郎が近づいて、背中から一突き。あっと言う間に九兵衛は昇天してしまった。
 こうして、大友方に乗っ取られた針目の城も、間もなく始まる「原鶴合戦」で、再び秋月が取り戻すことになる。
 さて、本懐を遂げた高久保彦次郎はというと、その後逐電でもしたらしく、記録の上から完全に消え失せてしまった。(完)

 針目城も長岩城も、今は形を残さない。針目山を見上げる杷木町の筑後川沿いを散策し、その足で10`以上はなれた山奥の長岩に登った。合所ダムを過ぎると、景色は現代から一挙に江戸時代へとスリップする。雨上がりのせいもあって、音を立てて流れ落ちる源流では、思わず歓声を上げた。彼岸花で仕切られた棚田群、樹齢400年の大杉に包まれた神社、麦藁家など、子供の頃に遊んだ風景がそのまま残っていた。
長岩城のことや林業のことなど訊きたいと思ったが、外に人がいないのでどうにもならなかった。

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