伝説紀行 米一丸と十三塚  筑前町(夜須町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第172話 2004年08月22日版
再編:2019.09.15
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

呪いの十三塚

米一丸伝説

福岡県筑前町(夜須町)


旧夜須郡と御笠郡を分ける境目石、右は旧長崎街道(現筑紫野市)

 旧長崎街道(国道200号)と日田街道(国道386号)が交わるあたりを山家(やまえ)といい、江戸時代までの筑前御笠郡(みかさぐん)と夜須郡(やすぐん)の境にあった。現在の筑紫野市と夜須町(その後筑前町)の境のことで、明治維新までは宿場町として大そう賑わっていた。今も山家宿跡郡境目石が大切に保存されている。古代から近代まで歴史に富んだ場所だが、かつては境目石の場所に十三塚が築かれていたそうな。

夜須の郷に人魂が

 お話は、鎌倉時代が円熟期に入った西暦13世紀中頃のこと。朝日村に住む百姓の善助は、陽も落ちて暗い山道を家路についていた。すると北方の三箇山(さんがやま)の方から青白い炎が揺らぎながら近づいてくるではないか。炎は、善助の頭上を三度旋回すると、再び長い尾を引いてもと来た山を越えて戻っていった。
 生まれつき幽霊とか人魂(ひとだま)など聞いただけで震え上がってしまう善助である。足をガタガタ震わせながら、青白い炎が飛んでいった先をただ呆然と眺めていた。
 数日後、博多の筥崎浜にある寺の住職、一心僧が訪ねてきた。番所から、善助が人魂を見たという情報を聞いて駆けつけてきたというのだ。
「最近、宗像から博多にかけて、人魂が宙を舞うことが多い。現われた場所には、必ず気持ちの悪い事件が起こり、雷が暴れまわって何人もの人間が焼き殺されたり、女中が野良犬にかみ殺される事件も日常茶飯事じゃ。災難はそれだけではない。この1年、筑前には雨が降らず、穀物の備蓄も風前の灯火(ともしび)。また、代官の不祥事が相次いで発覚し、世は乱れっぱなしなのだ」
「それが、…私の見た気味の悪い人魂とどんな関係がございますので?」
「大有りじゃ。お城では、太宰府を通じて幕府に善処方を尋ねられた。都で有名な祈祷師に占ってもらうと、人魂の正体がこの世に恨みを持つ者の仕業だと…」

駿河の御曹司が若狭から嫁もらう

 一心僧の話を聞きながら、根っから気の弱い善助の膝の震えが止まらなくなった。人魂が現われた場所に災難が起こるとなれば、次のターゲットは他ならぬ善助本人と言うことではないか。
「心配はご無用。人魂は、ほかの目的があってこの朝日村に現われたのだから…」
「人魂の目的とは…?」
 一心僧が調べたという話を要約すると、凡そ次のようなことになる。
 遠い東の駿河国の豪族徳兵衛夫婦は子宝に恵まれず、やがて四十路にかかろうとしていた。そこで、近くの米山薬師に子授けの祈願をした。祈願が成就して授かった男の子に、薬師への礼をこめて米一丸と名をつけた。米一丸は両親の愛情を一身に受けて心身ともに健やかに成長した。
 やがて青年期を迎えた米一丸に、徳兵衛は日頃親しくしている若狭国の長者の娘八千代を嫁に迎えた。彼も、八千代の美貌と優しさに一目惚れして、やがて婚儀となる。二人は駿河一帯で評判になるほどに仲睦ましかった。米一丸20歳、八千代16歳の春であった。だが、新妻の美貌が、その後の米一丸と周辺に取り返しのつかない災難をもたらすことになった。

公家が嫁に横恋ぼう

 悲劇は、米一丸・八千代夫婦が新婚旅行を兼ねて京に向かったときに始まった。父徳兵衛は息子に43人の家来を、嫁には13人の侍女をつけて旅たたせた。都に着くと早速、嫁の八千代を伴って、一条の公家屋敷に当主の実道を訪問した。駿河で領地の一部を預かる豪族の跡継ぎとしての儀礼であった。


写真:筑前街道の山家(やまえ)宿跡


「よくおいでたな。もそっと近う」
 実道は、はなから米一には興味がないらしく、八千代にばかり話しかけた。米一が用を足しに立った隙には、八千代の手まで握る始末である。公家であれば、欲しいものは何でも手に入る時代であった。実道は、八千代を一目見て自分の側室にしたいと考えた。応接している間も、近日中に閨で八千代と戯事をしている光景を思い浮かべる始末。
「米一丸よ、余の願いを聞いてくれまいか」
 疑うことを知らない米一丸は、ここは将来のためにも、実道の役に立ちたいと思った。
「実は、数年前博多に赴いたみぎり、持ち合わせに不自由し、土居町の奥井右衛門という商人に名刀・三池典太を預けて金を借りた。来年の茶会までには、何としてもその三池が必要じゃによって、取り返してきてくれい。そなたが博多から帰るまで、大切なお内儀は余が大事に預かるほどに」

米一、博多でだまし討ちに

 ここが都で名を売るチャンスとばかり、米一丸は千石船を仕立てて桂川を瀬戸の海へと下って行った。
 勇躍博多に乗り込んだ米一丸は、土居町の奥井家を訪ねた。大枚払って受け取った刀は、名刀どころかただの鈍(なまく)ら包丁だった。「裏切られた!」、そう感じた時は既に手遅れ。前もって実道に依頼されていた奥井の兵が、米一丸の一行を取り巻いたあとだった。主従は、博多の浜で死闘を演じたが、所詮は多勢に無勢。
「わしの浅はかさがそなたたちまでこのような目に合わせてしまった」
 米一丸は、家来の一人一人に詫びた後、持っていた刀で腹をかっ切った。生き残っていた家来も、間もなく全員が果てた。米一丸数え年齢23歳だったと記されている。
 夫の最期を知らせる実道は、勝ち誇ったように八千代を側に呼んで手篭めにした。八千代は、身動き取れないままことが運ぶことに歯がゆさを隠せず慟哭した。そして、隙を見て12人の侍女とともに博多へと向かった。
 博多に着いたとき、愛する夫は筥崎浜で自害した後だった。その後釈迦一御前と名を変えた八千代は、夫が自害した浜辺で、自らも首を切って果てた。
「この恨み、地獄の底までもって行く」
 八千代が夜叉に変身して振り絞った、今生最後の恨み節であった。侍女たちも、次々に舌を噛んで御前の後を追った。間もなく、都の実道は訳の分らない病魔に襲われ、植物人間として生涯を過ごすことになった。御前の怨霊は、米一丸を裏切った博多の奥井や住民にも祟り、災難や事故を撒き散らした。
「このままでは、博多に住む人は誰も生きられない」
 思い悩んだ筥崎近くに寺を持つ僧侶一心が、祟りの元凶である米一丸と釈迦一御前に伏して平穏を願った。

祟り鎮めに十三塚

 一心は、亡霊となって彷徨(さまよ)う八千代から、南方の朝日の村に主従13人の塚を築けと教わった。一心と民が、十三塚を大切に守り、供養してくれれば安心して浄土に向かおうとも約束した。


旧朝日村を見下ろす三箇山


 一心僧は、善助と庄屋の協力で、東西に13基の塚を築き、釈迦御前と侍女12人の霊を祀った。すると、あれだけ猛威を振るった自然災害や得体の知れない事故がぷっつり消えてなくなった。寛文初年のことである。
 釈迦御前と侍女を祀った十三塚は、それから凡そ400年間夜須郡と御笠郡の境にあったが、二つの村が合併して集落を築くことになり、別の地に移転することになった。そのとき夜須と御笠を合わせてできた村が「二村」で、村中には郡の境を示す標石が置かれた。それは現在も残っていて、地名の「二夕(ふた)」も現役である。


かつての十三塚を彷彿させる石標あたり


「筑前風土記」に、夜須西端「二村」のことについて、「寛文のはじめ、此処に東西に十三塚並びたるを崩して町を立てられし故、始十三塚と称したが後に二村と称す」と書いてある。(完)

 月に数回は通過する国道386号(通称日田街道)脇に、こんなにすばらしい宿場跡と旧道が保存されていることにさいきんまで気がつかなかった。旧道脇には米一丸の愛妻と侍女13人を祭った十三塚を連想させる境目石が建っていた。すぐ近くには江戸末期まで大そうにぎわった山家宿が部分的に保存され、それぞれ役場の尽力で丁寧な説明が施されている。
 わずか百数十年前まで旅人の往来が堪えなかった宿場町も、今ではショートカットされた幹線に隠れて人目に触れる機会さえ少なくなった。現在も民家として使用されている山家宿郡屋跡で、畑仕事をしている主婦に声をかけると、親切に土蔵など保存施設を教えてくれた。
「僕らみたいな見学者が予告もなしで現われるから大変でしょう?」と同情の念を示した。「そうでもないですよ、町の皆さんがときどき掃除など手伝ってくれますから」と、むしろ我が住処が誇らしげであった。

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