伝説紀行 水天宮由緒  久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第159話 04年05月23日版
再編:2017.9.24 2019.07.07
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

水天宮の起こり

福岡県久留米市


久留米水天宮春の大祭

 久留米の水天宮は、全国に数ある水天宮の総本社である。安産の神さまで知られる東京蛎殻町の水天宮は、江戸時代に久留米藩主が屋敷内に祭ったのが始まりだとのこと。広い境内の脇を九州一の大河・筑後川が悠々と流れている。

波打ち際に女が流れ着いた

「もし、お内儀、しっかりなさいまし」
 朦朧(もうろう)とした意識の中で、誰やら男が呼んでいる。春浅い3月(陰暦)、濡れた肌着一枚では寒すぎる。男は、炎に枯れ木を差し込みながら、呼びかけた。
「ここは、どこ?」
筑前国(ちくぜんのくに)神湊(こうのみなと)だよ」
 言われて見渡せば、眼前に灰色の海が広がり、後方には延々と松林と砂浜が連なっていた。


現在の神湊

「そなたは?」
「この海で漁をしている太郎てもんだよ」
「どうして私がここにいるのですか?」
「それはこっちが訊きたいよ。漁に出ようとしたら、あんたが打ち上げられていたんだ。こんなに冷たい海だし、とっくに仏さんかと思ったら、かすかに息をしているじゃねえか。びしょ濡れだし、焚き火で体を暖めていたとこさ。見たところ、お身分の高そうなお方らしいが・・・。いったいあんたはどこの誰なんだい?」
 歳の頃なら40歳半ばか、気品溢れる女は、失神する前のことを完全に忘れていた。何か強烈な衝撃を受けて記憶を喪失したのだろう。こうなれば、女の記憶が回復するまで辛抱強く待つしかない。太郎は、興味も重なって、この日の漁を休むことにした。

女は中宮の召使だった

 日がたつにつれて、女は少しずつ記憶を取り戻してきた。
「やっぱりそうだったか。平家の奥方だったか。心配はいりませんぜ。ここは村はずれの一軒家だし、おいらがしゃべらないかぎりあんたを捕まえに来るものなんかいやしない。思い出したままを聞かせてください。何かのお役に立つやもしれんじゃないか」
 女は太郎の介護と慰めに安堵したのか、気を失う以前のことを語り始めた。
「私は、平家一門の按察使局(あぜちのつぼね)の伊勢と申します。高倉中宮(高倉天皇の妻)の徳子さまにお仕えいたしておりました」
 その徳子は、入道清盛の娘である。清盛は、力づくで幼い孫を天皇の位につけた。それが安徳天皇である。栄耀栄華を欲しいままにしてきた平家も、清盛と長男の重盛が没すると、坂道を転げ落ちるように衰退していった。源義経に追い詰められた一門は、屋島から長門の壇ノ浦へと逃げたが、遂にそこで勝敗の決着がつくことに。写真:壇ノ浦の戦いでの源義経(上方は高速道路の関門橋)
 祖母の時子、つまり清盛の妻は、幼い天皇を抱いて関門海峡の急流に身を投げた。幼帝と中宮、それにおばば上の最期を見定めた平家の女房たちも、次々に壇ノ浦の藻屑と消えていった。その中に、中宮に仕える按察使局も含まれていた。だが、彼女は何が幸いしてそうなったか不明のままだが、神湊に流れ着いたという次第である。

平家の落ち着き場所がない

「そうでしたか。あんたは都で偉いお方のそばにおいでだったんだ。心配いらねえ、ここでゆっくり養生しておくんなさい」
「そうはいきません。もし私のことが知れたら、あなたも同罪で首を刎ねられましょう。太宰府あたりに頼るお人がございますゆえ、そちらへ発ちます」
 伊勢は、太郎が用意してくれた農婦の着物に着替えて一軒家を後にした。だが、途中で聞く噂話は、平家滅亡と源氏の追手の噂ばかり。太宰府とその周辺で平家の家人として世話になった武士団も、例外なく頼朝の配下に移ったとか。もう伊勢の頼る場所はどこにもなかった。
 あてどなく歩いていてたどり着いたのが千歳川(筑後川)のほとり。
「ここは?」


写真は、伊勢がたどりついた下野あたり

 農作業中の初助という男に訊いた。
「下野村の鷺野ヶ原というところさ。あんたさん、どこからきなさった?」
 男の問いに答える前に、伊勢はその場にしゃがみこんだ。太郎の家を出て丸一昼夜、水以外は何も口にしていなかったのだ。
「かわいそうに」
 初助は、伊勢を背負って農作業用の土塀小屋(どべごや)に連れて行った。

板囲いに祭壇を設けて

 行くあてもない伊勢は、初助に連れていかれた土塀小屋で一人暮らしを始めた。野菜を植え、鶏を飼って腹の足しにした。初助も、訳ありげな彼女から必要以上のことは訊かず、時間が過ぎていった。
 名前を千代と改めて剃髪した伊勢は、板囲いをした中に手造りの位牌を置いて、壇ノ浦に消えた平家一門の霊を弔った。暇さえあれば千歳川の川面を眺めた。「南無、源氏に報いあれ!」と叫び、幼帝を抱いた時子が舳先に仁王立ちした姿が現実として甦る。
「実は…」
「わかっていますよ、あなたは平家のお方でっしょ」
 千代が語りかけるのを遮って初助が応えた。近隣の農夫たちは、口には出さないがみんな平家贔屓だと言う。


写真:水天宮下を流れる筑後川と茣蓙船

「何でも言いつけてください」
 初助は、千代を命をかけてお守りすると誓った。出来上がった祠の祭神は、安徳幼帝・平清盛・時子・徳子と並べた。それからは、朝夕欠かさず祈った。それが、現在筑後川河畔に建つ水天宮の始まりである。

尼御前社が水天宮に

 千代は、日本最古の神社である「石神神社(奈良県)」の娘として生まれている。子供の頃から加持祈祷を覚えたことがここにきて役に立ち、里人たちの悩みを癒すために祈ってあげた。千代に対する尊敬の念はますます高まり、「尼御前さま」と慕われるようになった。
 時は移り、寿命を全うした千代がこの世を去った。恩を感じる里人は、祠を建て直し、彼女の墓の側には松を植えた。それからは誰言うとなく千代の霊を「千代松明神」と呼び、祠を「尼御前社」と崇めた。
 その千代の墓は、現在も久留米市内のアサヒコーポレーション正門前にあり、毎年春に墓前祭が執り行われているとか。
 下野の鷺が原に「尼御前社」が建てられたのが建久初年というから、壇ノ浦の戦いから5年後ということになる。その後幾多の変遷を経て、二代目久留米藩主の計らいで現在の場所に鎮座されたとのこと。
 水天宮には、水難・魔除けなどさまざまなご利益を求めて、近郷近在からお参りする人が堪えない。(完)

ページ頭へ    目次へ    表紙へ