伝説紀行 原鶴合戦  一本木地蔵  朝倉市(杷木町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第146話 2004年02月22日版
再編:
2019.04.07
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

原鶴合戦の悲劇

福岡県杷木町


原鶴地蔵

 博多の奥座敷として君臨してきた原鶴温泉は、大きく弓を張ったようにくねる筑後川中流の中州に位置する。客を呼ぶために、女将さんたちがハーブ園を造ったりして頑張る町だ。その温泉街から見える北側の山裾一帯が、400年前に多くの犠牲者を出した「原鶴合戦」の古戦場跡だって。
 現在、その痕跡を残すものとしては、田んぼの中に祀られた「一本木地蔵」だけだ。いつの時代も、権力を持つ人間は戦争をしたがる。欲が欲を呼んで、更なる領土拡張(利権獲得ともいう)へと突っ走るのだ。その時、命を差し出すのはいつも庶民であり、膨大な戦費も、貧乏人の懐頼りなのである。

大友の大軍が攻めてくる

 時は戦国時代。秋月の城下で大野安左衛門が身内の農民を引き連れて三奈木の屋敷にやってきた。安左衛門は、三奈木家と付近の農民を繋ぐ大庄屋である。
 戦が近いせいか、最近百姓の駆り出しが盛んに行われるようになった。そこで安左衛門は、農民らの気持ちを落ち着かせるために、彼らを引き連れて藩士の弥平次屋敷にやってきた。
「大友宗麟は、本気で秋月城を攻めようとしている。そのために、豊後の府内には3千とも5千ともいわれる兵士が集められ、訓練を受けているらしい」
 弥平次は、昨日家老から聞いてきた話を安左衛門と農民たちに話して聞かせた。
「そうなれば、どうなるんです?」
 百姓の文太が尋ねた。


合戦を物語る一本木地蔵堂

「そうやすやすと秋月を他国に渡すわけにはいかぬというのが殿の決意だ」
 弥平次がきっぱりと言い切った。
 今度は安左衛門が弥平次の代弁に回った。
「その代わり、戦に勝てばその方たちにもたんと褒美をくださる」

農民は竹槍の猛特訓

 文太ら農民30人の竹槍による猛特訓が始まった。
「三奈木弥平次さまのために命をかけて戦うぞ!」
 勇ましい掛け声が飛び交う。マイルドコントロールとはこんなものか。安左衛門の指揮下に入った彼らは、隊をなして南を流れる筑後川沿いに進軍した。
「大友勢約3千人は、日田を過ぎて夜明(
日田の郊外)にまで迫っている」
 お触れが各部隊を回って、全軍戦闘準備に入るよう報せた。天正9(1581)年、師走の半ばであった。現在の暦でいえば1月中旬だから、一年中で一番寒い季節である。写真は、原鶴合戦の舞台となった原鶴温泉付近。背後の山は高山。
「敵は生葉表(いくはおもて=現浮羽郡浮羽町)まで来て、井上城を取り囲んだらしい。麻底良城(まてらじょう)にて陣頭指揮をとられる秋月種実さまからは、味方の体勢は磐石だから、安心して敵に立ち向かえとのことじゃった」
 実は、総大将の秋月種実も、口ほどになく心配だった。筑豊・田川を出発したはずの、策士と言われる実弟高橋元種が到着していないからである。元種は千の兵と超近代的戦略を携えてこちらに向かっているはずであった。それまでは、何としても井上城を守らなければならない。

対岸には敵がウジャウジャ

 そんな難しいことなどわからない文太らは、いざ決戦のときを待っていた。
「絶対に弥平次さまのおそばを離れるでないぞ」
 安左衛門の怒号が、彼らの気持ちを更に引き締めた。川向こうには、耳納連山をバックに、敵兵が右往左往する姿ばかりが目に入った。素人目にも井上城を攻め倦(あぐ)んでいることがよくわかる。
 文太らの部隊が騒がしくなった。背後に見える高山(こうやま)の裾野で重装備した兵(つわもの)が近づいてきたからである。だが、兵に見えるのは先頭集団の100人くらいで、後のものはそれぞれ百姓にしか見えない。
「静まれ! あれは総大将種実さまの弟君の部隊じゃ」
 安左衛門が説明した。
「あちらさんも、俺たちと同じ、にわか仕立ての兵隊か」
 誰かが嘲笑気味に言うと、30人全員が笑った。大部隊は、至近距離に達したところで三つに分かれ、それぞれ池田・若市・寒水に移動して、農家や馬小屋に隠れた。

猛者が太刀を振り回す

 弟軍の到着を確かめたのか、大将の種実が大号令を発した。まず、麻底良城内の大部隊を志波の瀬(現原鶴温泉のすぐ下流)に移動させた。三奈木弥平次の部隊も、それに伴って動いた。それから丸一日、両軍睨み合いが続く。
「向こう岸で馬に乗っているあの髭面は誰だ?」
 五平が指差すと、安左衛門が応える。
「あれは、大友軍の中でも一、二を争う猛将の野上一閑じゃ」
 いかにも強そうな一閑の後には数十人の雑兵(ぞうひょう)が続いていて、いっせいに筑後川に飛び込んだ。
「おい、髭面がこちらに来るぞ」
 誰かが怯えた声で叫んだ。その途端、文太らは蜂の巣をつついたように散らばった。
「怖気づくでない。これからが本当の戦じゃ」
 安左衛門が、逃げ惑う連中を止めにかかった。増水した流れを渡りきった野上一閑は、岸辺を駆け上がってきて雄たけびを上げた。
「やーや、我こそは大友の中にあってその名を知られた野上一閑である。そこな腰抜けども、かかってこい」

制止を無視して敵の陣地へ

 一閑は、目にも留まらぬ早足で味方の軍に突入してきた。彼の持つ太刀は3尺5寸というから、刃先が1bも超える馬鹿長い人斬り包丁である。その太刀を、縦に横に振り回すものだから、少しでも触ったものはその場で絶命する。
「今だ!」
 叫んだのは三奈木弥平次。
「待て! そなた1人では危険じゃ」
 止めたのは、原鶴一帯の指揮を任されている秋月家の武将・木所玄番。
「なぜ止められる。拙者が野上一閑の首を落としたいのでござる」
「そなたはまだ若い。死ぬのはずっと先でよい。そなたには、これから先の秋月城を背負ってもらわねばならぬのだ」
 玄番が止めにかかる声をはねのけて、弥平次は馬に鞭打った。
(写真は原鶴温泉付近の筑後川)

「弥平次さまに続け!」
 安左衛門の怒声で、竹槍を持った文太らが駆け出した。
「やーやー、我こそは、秋月の三奈木弥平次なり。そこな髭面、覚悟せい」
 突然現われた若造をせせら笑う一閑。
「小童(こわっぱ)など斬ったら後の世の物笑いになる。さっさと後ろに下がれ」
 一閑は、外の敵に向かうべく弥平次に背を向けた。その隙に背後から一撃。一閑はあえなく落馬して動かなくなった。

若輩はあえなく

「やった、やった。弥平次さまが敵の猛者(もさ)を討ち取られた!」
 五平が歓呼をあげたとき、弥平次は間髪をいれずに大川になだれ込んだ。
「遅れるな」
 安左衛門の命令で、30人のにわか兵たちも竹槍を担いで大川へ。
「待て! 弥平次。それ以上深追いしてはならぬ」
 弥平次を追ってきた木所玄番が止めたが、その声は敵味方なく乱れ飛ぶ怒声でかき消された。その時、対岸から飛んできた矢が、弥平次の首筋を射抜いた。彼はもんどりうって赤茶色に濁った大川の流れに飲み込まれた。


(流れも静かな原鶴付近の筑後川、向こうに見えるは耳納連山)

「大将の仇は俺がとる」
 今度は五平が、単身川中で剣を振り回す敵将に竹槍を向けた。だが、素人の悲しさ、あっという間に彼も濁流に消えた。

大川は血の海に

 この時、百姓姿に身を変えて周辺の馬小屋などに隠れていた高橋元種の兵たちが動き出した。彼らは隠し持っていた剣や弓矢などを小脇に抱え、文太らが逃げ惑う大川岸でいっせいに弓を放った。「超近代的戦略」とはこういうものだったのか。五平らが「わしらと同じ、にわか仕立ての兵」と嘲笑したのは、敵を欺く戦法だったのだ。川中の兵たちは、敵味方なく高橋軍の矢に射抜かれて死んでいった。
「引け!」
 突然、八方から号令が発せられると、大川の中にいたもの、対岸から矢を放っていたもの、すべてが耳納山麓の方に走り去っていった。
 命からがら岸に這い上がった文太が周囲を見渡すと、そこには2人か3人の見覚えのある顔があるだけだった。安左衛門も親友の五平の姿もない。もちろん、大将の三奈木弥平次はとっくに大川の藻屑と消えていた。
 人の血で、さらに赤く濁った川を、屍がまるで結びを解かれた筏のように、水の勢いに任せて下流に流れていった。

命に敵も味方もねえ

「何ていうことだ。大将が死ねば褒美も何もないじゃないか。五平の家族はどうなるんだ」
 戦い終わって、人の気配もなくなった戦場を彷徨(さまよ)いながら、文太が呟いた。
「あんたの命が助かっただけでも、よかったじゃないか」
 近づいてきた近所のお年寄りが文太に声をかけた。見渡すと、遥か彼方の山裾まで、農民が作業をしている。
「人の命に敵も味方もないからね。授かった大切な命を、野望に燃える大名や武士たちが簡単に奪ってしまう。許せないけど、俺たち百姓じゃどうにもならねえ」
 年寄りもまた、ブツブツ独り言を呟きながら、転がっている死体を集めて荼毘(だび)の方向に運んでいった。
「この合戦で、討ち取った大友軍の数は750」と諸資料にはある。もちろん資料は秋月側から出たもので、安左衛門や五平の数など入っていない。ただ一人、「勇敢にも敵の猛者の首を取った弱冠16歳の三奈木弥平次」の名があるだけだった。おそらく、そのときの犠牲者は数千人にも上ったろう。
 一人、竹槍を杖にして秋月の家に帰る文太の足は、鉄を括りつけたように重かった。

 国道386号から眺める「原鶴合戦」の古戦場跡は、一面富有柿の畑になっている。野菜を植えた場所にはビニール屋根がかぶせられ、見通すことさえ困難だ。
 そんな畑の真ん中に、一本木地蔵の屋根が見えた。戦争が終って、兵(つわもの)どもが引き上げたあと、荒れ果てた畑に戻った農民たちが、折り重なっている屍を一箇所に集めて懇ろに葬ったあとである。埋葬した塚の上には、椋の木を一本植えて、それを墓標とした。時を経て、椋の木の脇に小さな祠を建て、供養のための地蔵を祀った。
(完)

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