手負いのウサギを助けた
福岡市民などへの生活用水を賄う江川ダムあたりは、江戸のむかしまで見渡す限りの山ばかりだった。ダムがなかった江戸時代、江川村に玉五郎・フデの老夫婦が、猫の額ほどの狭い段々畑を耕して、米や野菜を育てながら暮らしていた。夫婦とも寄る歳には勝てず、田を耕すのも一苦労、運ぶのにも「よっこいしょ」の連発である。
今日も玉五郎さんは、鍬を担いで田んぼに出かけた。途中畦道に、野ウサギが1匹血を流して倒れている。
「ねえごつじゃかの(何事か)」
玉五郎さんが近づくと、ウサギはまだ生きていた。
「大方、野犬にでも噛み付かれたっちゃろ」
優しい玉五郎さんは、持っていた手拭で傷口を縛ると、鍬を放り投げてウサギを家に連れて帰った。
「婆さんや、かわいそうにこんウサギが大怪我ばしとるばい。早う手当てばしちゃらんか」
言いつけられてフデさんは、薬草で作った自前の傷薬をつけてやった。命を取り止めたウサギは、フデさんにおいしい野菜を腹いっぱいご馳走になって元気になり、何度も後を振り返りながら山の中に帰っていった。
山猿が年寄りを馬鹿にした
それから何日かたって、田んぼの畦に転がっている大きな石に、顔中赤茶けた髭だらけの男が座った。玉五郎さんが気がつかないふりをしていると、構ってもらえない男は、極端なだみ声で囃したてた。
「やーい、老いぼれが田打ちゃ、モグラが踊る。いっとき立ってもまだ2尺。なーんもせんうち日が暮れた。どっこらしょ、よっこらしょ」
ははあん、こいつ、人間の格好をしているが、最近耳にした悪さ好きの山猿が化けたつばいね。年寄りを馬鹿にする山猿などかまっておれず、玉五郎さんが男を無視すると、男は周囲の石ころを田んぼの中に投げ込み始めた。
「こらあ、何ばしょっとか! せっかく耕した田んなかに」
玉五郎さんが怒って、男を捕まえようとするが、よろよろ足では、しょせん及ぶところではない。玉五郎さんをからかうようにしながら逃げ回り、そのうちに山の中に消えた。
気がおさまらないのは玉五郎さん。何とか人間に化けた山猿を捕まえて痛い目にあわせようと考えた。フデさんに餅をを搗いてもらって田んぼに出かけた。昨日髭面男が座った大きな石に、搗きたての餅をべったり塗って、田んぼに下りた。
頼りない力で田を耕していると、また昨日の髭面男がやってきて、大きな石に座った。
「老いぼれが田打ちゃ、モグラが踊る。いっとき立ってもまだ2尺。なーんもせんうち日が暮れた。どっこらしょ、よっこらしょ」
同じ節回しで、腰の曲がった玉五郎さんをからかった。今度も石ころを投げ込むため座っていた大きな石から立ち上がろうとした。「うーん」、下腹に力を入れたはずみに、男は猿の本性に戻ってもがいている。それでもお尻が石から離れない。玉五郎さんが塗った餅がべったり尻にくっついているからだ。
猿は大黒柱に縛られた
こうして生け捕られた山猿は、玉五郎さんに縛られて家に連れていかれた。
「婆さんや、こん猿は、年寄りば馬鹿にする悪か奴じゃけん、本気で反省するまで縄ば緩めちゃならんばい」
玉五郎さんは、捕まえてきた猿を大黒柱に括り付けてまた田んぼに出かけた。爺さんに言われたぐらいで反省するような猿ではない。「それが江川猿魂たい」と言わぬばかりにふてくされている。
玉五郎さんが出かけた後、フデさんは石臼を回して大豆を摺り、黄な粉を作っている。そばでは頑丈な縄で縛られた猿が相変わらずふてくされていた。
「あのう、お婆さん。お願いばってん、こん縄ば少し緩めてくれんでっしょか。胸が苦しゅうてならんとです」
猿が人間の声で、フデさんに話しかけた。「絶対緩めちゃならんばい」と爺さんに言い付かっている手前、フデさんは猿の声が聞こえないふりをして、臼を回した。3度回すと立ち上がって腰をさする。「よっこらしょ」、口癖になっている声を発してまた座る。「歳はとりとうなかね」、フデさんは独り言を呟きながら、臼の柄に手をかけた。写真:江川ダム
「あのう、もし縄ば緩めてくれたら、臼ば回して加勢しますが…」
そこでフデさんの気持ちがぐらっと揺らいだ。本当に石臼を回してくれるなら、こんな有り難いことはない。
猿が婆さんを殺した
フデさんは、猿の誘惑に負けて、少しだけ縄を緩めた。フデさんが向こうを向いている隙に、猿は縄の結び目を解いてすり抜けると、そばにあった杵でフデさんの頭を、「ババが頭にごっついしょ」と一撃。フデさんはあえなくお陀仏に。
玉五郎さんが仕事を終えて帰ると、妻のフデさんは仰向けになって息を引き取ったあとだった。あの悪猿も見当たらない。
「こげなこつなら、人のよか婆さんに猿ば預けにゃよかった」
そこに、このあたりでは見かけない美しい娘が入ってきた。娘は、フデさんの亡骸に取りすがって泣きじゃくった。
「あのー、あんたさんは、どちらさんで?」
玉五郎さんが訊くと、
「私はずっとむかしに、お爺さんとお婆さんに命ば助けてもろうたもんです」
それだけではどうしても思い出せない玉五郎さん。
「よかです、私がお婆さんの敵ば撃ってあげますけん」
娘は、猿の特徴をよく訊いて外に出て行った。
ウサギが婆さんの敵を撃った
娘が谷間にやってくると、例の山猿が他所の柿を盗んでいるところだった。娘は人間ほどもある大きな猿に話しかけた。
「お猿さん、お猿さん、私と仲良くしましょう」
かわいい人間の娘に声をかけられて、猿は有頂天になった。一度でいいからきれいな娘と逢引をしたかった猿は、娘と手を取り合って川辺に下り立った。
「あそこに繋いである2艘の舟に乗って遊びましょう。向こう岸に着いたら、私はあんたの言うままになるから」
娘は、着物の裾をチラチラさせて猿の目を引きながら、舟に乗り込んだ。後先がわからないくらいに興奮した猿は、言われるままに舟に乗った。娘も一方の舟に乗り込んだ。舟は岸を離れ、底なしといわれる黒ずんだ水の澱んでいるところまでやってきた。
「もう少しよ。そこの深みを通らなければ向こう岸には渡れないから」
娘の手招きで、猿の舟が淵の中央に来たとき、娘が澄んだ声で歌いだした。
「ウサギは 木舟 ぷっかりしょ。猿は泥舟 こっくりしょ」
娘の唄が終る頃、猿が乗っている舟がブクブクと沈みかけ、そのままひっくり返って、猿もろとも底なし淵に沈んでいった。お分かりのように、猿を誘ったのは、いつか玉五郎・フデ夫婦に命を救ってもらったウサギの化身だった。
「お馬鹿さんね、あんた。あんたが殺したお婆さんの敵討ちだとも知らずに、誘いに乗って。あんたが乗っていたのは、泥で作った舟なのよ」
水源の小石原から小石原川を伝って下ってくると、やがて周囲の山々を反映した江川ダムに出る。岸辺にたたずんで、「ウサギの恩返し」を思い浮かべた。ダムができるまで、今いる場所から遥か下のほうを川が流れていたはずである。電気もない、電話もない、もちろん車も、道路も。そんな時でも人々は自然と共存しながら生きていた。
人はやがて歳をとる。山の中で暮らすものにとって孤独感が襲う。玉五郎さんとフデさんは、そんな環境にめげず肩を寄せ合っていたのだろう。そんな素朴な老夫婦を、悪い山猿が更に痛めつけようとする。
現在の浮世を見るようなそんなお話しではないだろうか。(完)
江川ダム
江川ダムは、昭和53年に完成しています。寺内ダムと共通して、主に都市部への水道用水、周辺農村部への農業用水などを目的に、小石原川の上流部に造られました。
生活用水としては、甘木市・福岡市などです。
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