伝説紀行 汐井川の貫 小国町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第103話 03年03月23日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

農民を救ったお坊さま
汐井川の貫

熊本県小国町


小国の農民を救った塩井貫

 何年前だったか、小国町役場に勤める青年に「汐井川の貫」を案内して貰ったことがある。国道442号に並行する山並みのどてっ腹に穴があけられ、入り口には石碑も建っていた。文字が刻んであるが、無学な僕には読めないむかしの文字であった。
「なんでも、200年前に掘られたらしかですよ」とは青年の説明である。

ここでいう「貫」は、トンネルのこと。

悲惨だった天明の飢饉

 歴史的にも特筆される「天明の飢饉(ききん)」は、天明2(1782)年から同7年までの長きにわたっている。食うに困り、厳しい年貢の取立てに怒る農民による百姓一揆や打ち壊しが全国各地で相次いだ。ここ肥後の小国地方も例外ではなかった。
 当時幕府の隠密として、山伏姿に変装して視察した古河古松軒の記録によれば、「日本中で肥後ほど哀れなところはなかった。阿蘇の南郷寺廻りたるに、死に絶えたる家無数にあり、生きている者は熊本の大津あたりへ群れをなし、道端にゴロゴロ倒れ、三里木あたりは数百人の餓死者あり」と報告している。

不思議な老僧が

 死者が続出する天明4年の秋。汐井川沿いの上田村に一人の修行僧が現れた。彼は、小高い山が連なる裾に座り込み、念仏を唱えた。そこに通りかかった茂三郎が声をかけると、ポツリと一言。
「この山をくり貫こうと思うが・・・」
「無茶な。そんなことができるわけがないし、また、何のために・・・?」
 茂三郎は、目の前の僧が正気ではないと思った。訳ありげな僧を、茂三郎は自分の家に連れていった。

上納米を運ぶのも命がけ

「私の名前は浄安と申します。西の方から歩いてまいりますと、途中何人ものお百姓さんとすれ違いました」
「それで?」
「お百姓さんの一人にお話しを聞いたのです。皆さん、今年も日照りとイナゴの大発生で米がとれず。家族にも食べさせないまま、少しばかりの米を納めに行くところだったのですね。そればかりではないのです」

「・・・・・・」
「この山を越えるのさえ命がけだと言うではありませんか。昨日も木の株に躓いた牛が、手綱を引く人間もろとも谷底に転げ落ちたと聞きました」
 茂三郎にもやっと、旅の僧が言おうとしていることがわかってきた。
「あなたの言うとおりです。ですが、私ら百姓がどんなにお役人に訴え出ても、年貢の取立てに容赦はありません。そのことと、あなたが山をくり貫くのとは、どんな関係なんです?」
「ですから、お百姓さんが危ない山を越えなくて済むようにと」
「それは無茶だ。何しろ、山裾から向こうまで20丈(60b)もあるんだから」
 資料:昔万成寺や南平などからの上納米道路は別所を通り塩井川より高津屋山を越えて大津まで納めにいった。現に別所の橋には、万成寺、南平等等工事の役、出仕している橋あり、尚共有の橋梁林にも加入している。

鑿(のみ)だけで山に立ち向かう

「いいですか、あの山をくり貫くには、堅い岩を砕いて砂利を取り除かなければなりません。砂利を運ぶ道具はどうするんです?。それに、あなたの食べるものは? ここには、あなたに食べさせる米などありませんよ。気持ちはありがたいが、できないものはできないのです。諦めてください」
 茂三郎と浄安の議論は夜更けまで続いた。翌朝、起きだしたら、僧の姿は消えていた。
 それから1ヶ月がたって、浄安が上田に戻ってきた。戻るなり、いつかの山裾に座り込んで、左手に鑿、右手にトンカチで山に向かって作業を始めた。
「どうしたんです、その鑿とトンカチは?」
「はい、熊本の街で買いました」
「お金は持っていたのですか。それにここにいても食べさせる米はないと言ったはずです」
「はい、皆さまにご迷惑はかけません。ここを離れてずっと托鉢をして回りました。皆さま方に事情をお話しいたしましたら、苦しい中からお米や金子を恵んでいただいたのです」
 浄安は、当たり前のように言うと、また無心に山の壁に向かって鑿を打ち込んだ。

金がなくなれば、また托鉢に

 それから1ヶ月が過ぎる頃、承安が向かう山に三尺ほどの小さな穴があいた。
「お坊さん、これじゃあなたが死ぬまでに半分も作業は進みませんよ。いい加減に諦めたらどうです」
「頑張ります。昨日も人一人と牛が1頭転落したというじゃありませんか」
 何日かたって、承安が茂三郎の家にやってきた。


写真は、隋道完成を記す石碑

「お金がなくなりました。それに鑿が摩滅して使えませんから」
 浄安はそう言い残すと、さっさと衣の裾を翻した。1ヶ月もたって浄安がまた上田に戻ってきた。彼は、作業場に人が群れていることに驚愕した。何十人もの男たちが、山に向かって鑿を打ち付けている。一方で別の者たちが天秤棒で残岩を運び出していた。女たちは、にわか仕立ての小屋で火を焚き、男たちが食べるものを拵えた。
「いえね、あんたがあんまり熱心なもんで。ここに貫ができて助かるのはわしらなんだから、これ以上知らん振りはできんということになって・・・」

阿蘇の神のお告げで

「もういいでしょう。あんたの素性を聞かせてくれませんか。あんたは元は侍だよね」
 一日の重労働が終って、男たちがどぶろく片手にくつろいでいるとき、茂三郎が浄安に詰め寄った。
「お察しのとおり、私は10年前まで豊後藩の杵築城におりました。国東半島の突端にあるお城です。ある日、親友の妻と懇ろになりなじられたのです。そこで素直に謝ればよかったのですが、逆恨みしてその友を殺してしまいました。追手を逃れて博多まで来て行倒れになりました。そのとき通りかかったお坊さんに助けられ、『西国三十三箇所を回り、友人の冥福を祈るよう』教えられました。西国の巡礼を終えた後、東国の三十三箇所も回って、訪ねたお寺のお坊さんからたくさんのことを学びました。あれから10年がたちました。私は各地のお寺で学んだことを実行した後、友人のお墓に詫びてから自害しようと思っています」
 浄安の話を聞く男や女たちは、目頭を押さえたまま無口だった。
「お寺で教わったこととは?」
 茂三郎が尋ねても、浄安は首を振るばかり。
「人一人を殺めたのなら、その何十倍もの苦しんでいる民を助けよと。でも、私にはどうしたらよいかわからなかったのです」
「どうしたのですか、それで?」


阿蘇神社楼門(震災前の2007年6月撮影)

「飢饉で生き死にの境にある民百姓の皆さまを眺めながら、彷徨(さまよ)いました。気がついたら阿蘇神宮の拝殿の前で倒れていました。阿蘇の神は、私にもっとたくさん歩きなさいと言われたように思います。そこで、小国郷から大津まで年貢を納めに行く暗い顔をした百姓さんたちに出会ったのです」
「そのとき百姓から道中の難儀を聞いて、山をくり貫こうと考えたんですね、お坊さん」

本名を明かさないまま

 汐井川の貫は、村民一体となった働きで、1年後に完成した。
「あんたの願いはかないましたね。豊後に戻ってお友達の墓に参ったあとは、死のうなんて考えないで、どこかでのんびりなさいまし」
 茂三郎は、浄安の肩を抱きながら労った。
「私の勤めは、死ぬまで友の供養をすることです。貫はできてもお百姓さんたちの暮らしはちっともよくなりません。墓参りが済んだら、また諸国をまわり、皆さまの平和と安泰をお祈りすることにいたします」
「ところで、あんたが浄安と名乗る前の、お侍さんだったときの本名を」
 茂三郎が、別れ際にどうしても訊いておかなければならないことだった。
「どうか、それだけは勘弁してください。人でなしの旅の僧とでも皆さまの記憶に留めてくだされば、本望です」
 隋道の完成で、上納米を納める農民の転落事故はなくなった。彼は、トンネルの入り口に石碑を建てて記念の文字を刻み何処かへ消えていった。(完)

「南無阿弥陀仏、右天明六年(1786)日本廻国六十六部
豊後国国東郡 浄安」
左上には、
丙年二月吉日
下方には
施主 茂三郎 次平 吉衛門 脇戸 波多野亀八
右上には
金衛門 安衛門 甚七 利衛門 吉衛門 武平

 青年に案内してもらった「汐井川の貫」は、今にも朽ち果てそう。むかし、農民が牛もろとも転落したという山に登ってみた。雑木が繁り、谷底が見えないほどの急斜面である。案内してくれた青年、「貫の隣が僕の家です」だと。


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