伝説紀行 英彦山参り 小国地方


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第092話 03年01月01日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
英彦山詣で


07.04.22

熊本県小国町


農民が崇拝する高住神社(豊前坊)

 正月早々めでたいような、ちょっとクサイようなお話しを。
九州の臍といわれる英彦山(1199b)は、大むかしから霊山としてよく知られ、九州一円からお参りする人が堪えなかった。ここ阿蘇の麓の小国郷からも、英彦山参りを楽しみに、日頃の苦労も我慢して働く男たちがいた。
 吉吾もその一人。英彦山参りの日には、例えどんなに天気が悪かろうと、必ず決めた日に家を出る。紙に包んだお賽銭2種類とは別に、首にかけた財布には小遣いを入れて、さあ翌日の出発にむけて準備完了。車などなかった江戸時代である。「ちょっとそこまで」という距離ではない。足の早い人でも3泊4日は覚悟しなければならなかった。

出立前にまず厠へ

 ポタポタ、たまり水に落ちるウンコの音でその日の健康状態をチェックする。座り込んだものの吉吾さん、興奮が禍してなかなか出るものが出ない。「えーいっ」とばかり下腹に力を入れたら、着物の帯が緩んでしまった。改めて褌ならぬ、帯を締めなおしていざ出発。
「お賽銭は持ったね」
 女房のおしのさんが、遠足に出かける小学生に言うように念を押した。
「大丈夫、俺はそげん間抜けじゃなかけん」
 スペア草鞋を3足と竹で作った水筒を帯にぶら下げ、背中には昼の弁当や宿坊に渡す米などを担いだ。杖立の温泉を横目に見ながら日田の街へ。更に西に進んで夜明(現日田市)から大肥川沿いに大行司(現宝珠山村)まで。途中茶店で白湯を貰って昼飯を食う。陽も傾いた頃、小石原の木賃宿に到着した。50軒も並ぶ宿場の客の殆どが英彦山参りの行き帰りである。あちこちの軒先に立っている客引き女は、男の旅の疲れを癒してくれるものと知っている。無事お参りが済んだら、帰りにお邪魔しよう。

木賃宿:米など食い扶持の持込で、いわゆる布団だけをサービスする宿のこと。持参した米1合と野菜を宿に渡すと待望の晩飯にありつける。

 翌朝は陽が昇る前に宿を出た。居並ぶ宿から吐き出されるようにして旅姿の老若男女が同じ方向に歩き出す。団体もあれば吉吾のように気楽な一人旅もいる。みんな英彦山神宮を目指しての旅である。写真は、英彦山神宮の旅館
 行者杉の脇を通って険しい山道を一路英彦山へ。現在の地図でいえば、国道500号沿いの山道をである。道幅は1間(180a)少々と狭く、両側に立つ杉の木立で圧倒されそう。
 それにしてもなんと人の多いことか。登りあり下りあり、木立のせいで昼なお暗いトンネルを抜けると、今度はまばゆいばかりの陽の光の中に、筑紫山地の雄大な山並みが一望できた。彦山川を渡り杖立峠を越えて次の貝吹峠を跨ぐと、いよいよ神宮に通じる参道に出た。
 ここまで来ると、道は一貫して登るだけ。それも半端な傾斜じゃない。すぐ向こうの山では、道なき道を猿人のように跳ねながら走る山伏の姿が見えた。写真:英彦山への道

持ってきたはずの賽銭がな

 大きな銅製の鳥居の下にたどり着いたときはもう昼時。むかし肥前(佐賀)の人が神社のお神輿(みこし)を担いで下りて、登るのがきついものだからその場に放り出して国に帰ってしまったことがある。その罰が当たり、肥前一帯に悪病が蔓延して何百・何千もの領民が亡くなった。責任を感じた鍋島の殿さまが英彦山まで行って謝られた。そのとき膨大な金を出して寄進なさったのが、目の前の「銅(かね)の鳥居」だとか。それからというもの、英彦山参りの国(現在の県)別比較では、肥前の民がダントツ1位を譲らなくなったという話しも聞いたことがある。
 まっすぐに伸びた急階段を、途中土産物屋を冷やかしながら、中腹の神宮奉幣殿に登りつめる。奉幣殿ではまず賽銭を投げ入れなければならない。吉吾が懐を探すが、あるはずの賽銭を入れた紙袋が見当たらない。仕方ないから、首に下げた財布から小遣いようの小銭を取り出して投げ入れた。写真:銅の鳥居
 宿坊に入る前に、もう一つ行くところがある。それは、神宮下からさらに山道を登ったところの高住神社。このお宮さんには、豊前と豊後を開拓した神さまをお祭りしてある。牛馬の生育を見守り、悪病を追放し、火災から人々を守ってくれるというご利益があるという。いつかどこからか出てくるであろうお賽銭を入れた紙袋を当てにして、首の財布の金を残らず賽銭箱に投げ入れた。
 神さまに願うことはただ一つ、「今年も豊作でありますように」。
“仕事”が終わると空腹が気になった。急いで「我が寺」の宿坊に入った。就寝前と朝食前には必ず住職に習ってお経を読み、法話を聞かなければならない。これで自分もいっぱしの仏道者になったつもりになれるから不思議だ。
 雑魚寝の布団を前にして、昼間見つからなかったお賽銭の袋を探した。吉吾の顔色がだんだん青ざめてきた。どこをどう探しても紙袋が出てこない。明日の朝飯は持ってきた米で何とかなるとして、帰りに目論んでいた小石原での宿泊と遊びは絶望である。それどころか、道中の食事やかみさんへの土産「彦山ガラガラ」だって買えやしない。

あら不思議、なくした銭が厠から

 暗いうちに宿坊を出て、昨日来た山道をまっしぐらに駆け下りた。小石原を恨めしそうに横眼で見ながら素通りした。腹がへって、そのあとどうして小国まで登ってきたか覚えていない。
「おい、飯ば山盛り!」
「???」
 嫁さんともども、しばらく沈黙。
「それで、英彦山ガラガラは?」
「途中で転んだとき、紙袋ば落として、買えんじゃった」
「嘘ばっかり」
 女房のおしのさんは、額の汗を拭きながら答える亭主をまったく信用していない。写真は、かつて宿坊が並んだ参道
「ほんなことたい」
「ははーん、あの金はあんたが持っていくはずのお賽銭じゃったばいね」
「何のこつか?」
「いえね、あんたが出て行った後、野菜に肥ばやろうち思うて厠から汲みだしよったら、チャリーンち音がして、下肥の中から天保銭が3枚出てきたつよ。ウンコの中から出てきた金じゃけん、運が向いたち思うて、よう洗うて神棚さんにに上げちょる」
 やっと謎が解けた。家を出る前に厠に行って、なかなか出るものが出ないもので気張ったとき帯が緩んだ。あのとき、ウンコといっしょに紙包みまで肥壷に落としてしまったのだ。ところが、女房の前で弱みを見せられない小国男の切なさよ。
「いいや、あの三文銭は確かに英彦山に行く途中まで持っとった。ウンコの中の銭は別のもんたい」
「そうね、そんなら神棚のお金はあんたのもんじゃなかけん、私が貰っておくよ」(完)

 小石原から英彦山に通じる国道脇に、表で地鶏を焼いている売っているおじさんに話しかけた。
「この道が、むかしの英彦山参りの道ですか?」
「ちょっと違うばってん。あそこの藁葺の家の裏を通って、そこの山道に入る」
「英彦山参りが盛んな頃のことば知ってるね?」
「むかしはこげんよか道はなかったけん。あの狭か道ば、前がつかえるごつ参る人の列が続いとったげな」
 遥か遠い小国の郷から、喜び勇んで英彦山参りをした吉吾どんの気持ちが少しわかったような気がした。

英彦山平安期までは「日子山」と書いた。その後「彦山」に、江戸期に霊元天皇(1663〜1687)から「英」の尊号を受けて「英彦山」になる。中岳の上宮、北面中腹の奉幣殿、英彦山神宮の主祭神天忍穂耳命を祀る。
奈良時代以降、修験の山となり、近世にはその範囲が九州全域に及んだ。山腹周辺には約800の宿坊があったといわれ、神宮周辺には高住神社・大楠神社・玉屋神社が鎮座している。
修行僧はそれぞれ檀家を有しており、毎年九州一円から自家のお坊さんを頼って英彦山に参拝するのが慣わしであった。

彦山ガラガラ古人から信仰の対象として彦山参詣の諸人は必ずお受けして帰ったものである。農家の人はこれを田の水口に置いて五穀の豊穣を祈り、また農家でない人は、門口にかけて魔除けとした。
事の始めは、1200年前全国的な干ばつで皆が困っているとき、時の文武天皇が英彦山神宮にお使いを出されて祈願したところ、雨が降り出した。天皇はお礼に鈴一口を奉納された。その鈴が紛失した際、肥前綾部(現佐賀県中原町)の城主・奥平良太夫がそっくりのものを拵えて納めた。それをまた参詣する人に配ったとのこと。それから、英彦山参りの人にとって「彦山ガラガラ」はなくてはならないものになった。(彦山と英彦山を使い分けているのでご注意を)

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